0-4 怪異調査事務所
「菜月、ここよ」
頭の処理が追いつかず茫然と思考を停止させた菜月は、そのまま雅と空に引っ張られるままに足を動かし、そしてとある建物の前まで連れて行かれていた。
両腕を支えられるようにして歩いている菜月にはその建物が何かすら確認する気力はなかったが、日も落ちた薄暗い視界の中で微かに目に入った看板には何かの事務所と書かれていたように見えた。
かんかんと高い音を鳴らして建物の外に設置されている階段を上がって二階に辿り着くと、菜月を支えていた空が彼女から離れて扉を開く。インターホンもノックもせずにずかずか中へ入った彼に続いて雅と菜月も明かりがついた部屋へと足を踏み入れた。
「八雲さんただいまー、新しい異能者連れて来ちゃった」
「おお、二人ともおかえり……って、雅ちゃん、今何て言った?」
「だから異能者です」
室内はあまり広くは無い、特に特筆するべき点もない普通の事務所と言ったところだ。仕事用らしき机が二つと来客用のソファとテーブルが置かれており、そのうちの一つの机には一人のスーツ姿の男性が書類と向き合っていた。
年は三十歳くらいだろうか。明るく大らかそうな印象を与えるその男は、短く切ったぼさぼさの髪に片手をやりながら雅の言葉にぽかんと大口を開けた。
確認するように聞き返された言葉に止めを刺すように空が冷静に雅の言葉を繰り返すと、男は慌ただしく立ち上がって菜月の目の前までやって来る。食い入るように見つめられて思わず後退すると男は「確かになあ……」と顎に手を当てた。
「この匂い、確かに異能者か」
「匂い?」
先ほども空に匂いがどうのと言われたことを思い出した菜月は首を傾げていると、男は上着の内ポケットに手を突っ込んで一枚の名刺を取り出し、そして僅かに微笑みながらそれを菜月に差し出した。
「ようこそ、怪異調査事務所へ」
渡された名刺には『九十九八雲』という名前が記されており、思わず菜月は驚いて声に出して読み上げてしまった。韻を踏み過ぎだ。しかし本人――八雲は気にした様子もなく「変な名前だろ?」とからっと笑うだけだった。
「そんな名前だから昔からよくからかわれてな。婿養子にしてくれる素敵な女性募集中なんだ」
「はあ……頑張って下さい」
菜月は気の抜けた返事を返しながら目の前に出されたお茶を飲む。名刺に書かれていたのは名前だけではない。もう一つ強烈なインパクトを誇るのは『怪異調査事務所、影白支部所長』というその肩書である。
「今日は先輩居ないんですね、よかったー」
「さっき帰ったぞ。それに雅ちゃん、そんなにあいつのこと嫌ってやるな」
「向こうが嫌味ばっか言わなければ私だって嫌いになりませんよ!」
「あの……」
雅たちの会話に水を差すのもどうかと思ったが、菜月も説明が欲しいのだ。彼女の声を聞くと正面のソファに座った八雲ははっとしたように彼女に向き直り「悪い悪い」と軽く頭を下げる。
「最初にまず名前を教えてくれるかな」
「音羽菜月です。雅達とはクラスメイトで」
「ほお、それはすごい偶然だ。それで、ここに来るまでの状況を……そうだな、空、説明してくれるか」
「はい」
未だに自分に何が起こったのか分かっていない菜月よりも空の方が適任だと思ったのだろう、八雲は自身が座るソファの後ろに寄り掛かっていた空に目を向けて問い掛けた。
「八雲さんから言われた怪異を雅と一緒に倒している時、そこに音羽が来たんです。それで……音羽が怪異に、その、攻撃されてしまって」
「……見た所怪我は無いようだが」
「はい、あっという間に治ったんです。服に着いてた血さえ元通りになってて。匂いもしていたので異能だと思うんですけど」
「異能の種類としては治癒か? 他の人間にも使えるのか知りたいな」
「……ちょっといいですか」
菜月を置いてどんどん進みそうになる話に、彼女は慌てて言葉を割り込ませる。
「すみません。さっきから匂いって言ってますけど、それ何なんですか?」
「ああ、それはだな……雅ちゃん、ちょっといいか?」
「はいはい」
菜月の隣でお茶請けを食べていた雅に話が振られると彼女は心得たように返事をし、そして唐突に菜月に身を寄せたと思うと躊躇うことなく彼女を抱きしめた。
「え、雅ちょっと」
「落ち着いて。菜月、何か甘い匂いするの分からない?」
「甘い匂い……?」
いきなり抱きしめられたことに動揺した菜月はじたばたと雅の腕から逃れようとするが、彼女の言葉に徐々に冷静さを取り戻して大きく息を吸い込んでみる。すると確かに菜月の嗅覚は頭がぼうっとするような甘ったるい匂いを感知した。何か香水でも着けているのだろうかと思うような香りだが、菜月は今まで彼女がこんな香りを纏っていた記憶などない。
雅は体を離すと「分かった?」と、にっと笑みを浮かべる。
「これは異能者独特の匂いで、普通の人には知覚できないものらしいの。菜月も同じ匂いがしてるよ」
「私も?」
「ああ。そして異能者と同じように、怪異……あの襲ってきた化け物のことな。あいつらも同じような匂いを放ってる。俺達はそれを頼りに怪異を見つけたり、逆に俺達の匂いを辿ってあいつらは襲い掛かってくる」
「どういうこと?」
「怪異は異能者を好んで狙う。一般人を襲うこともあるが、異能者が居ればそちらを優先的に襲ってくることが多いんだ。特に自我の殆どないような怪異なら本能的に異能者を狙ってくる。理由はあまり分かっていないけどな」
「……」
いきなり沢山の情報が出てきて菜月の頭がぐるぐると混乱してくる。元々彼女はあまり頭の回転が速い方ではないのだ。
菜月は空の説明を頭の中で何度も繰り返してみる。あの路地で見た人間ではない異形は怪異というもので、そして怪異は異能者を好んで襲ってくる。そして何より理解しなくてはならないのは……彼女自身が、何の間違いかその異能者とやらになってしまったということだ。
あまりにも現実離れした話に、菜月は頭を抱えたくなった。
「怪異とは人ならざる怪物、その姿も能力も千差万別だ。俺達異能者を狙うそれらを総称してそう呼んでいる。
怪異に狙われる異能者達が協力して怪異から身を守ろう。……そうして出来たのがこの事務所だ。うちの管轄はこの影白町周辺で、人に危害を加える怪異の調査や討伐を行っている。……それで、だ。ここからが本題なんだが」
八雲は一気にお茶を飲み干すと表情を引き締め、正面の菜月を射抜くように見つめた。
「菜月ちゃん。よければここの事務所で働かないか?」
「……え」
「仕事内容は今も言った通り怪異の調査と討伐。給料も出すし、何より君が怪異に襲われた時に真っ先に助けることが出来る。君の異能がどんな力なのかはもっと詳しく調べないと分からないが、異能者が多い分だけこの町で救われる人は増える。どうかな?」
「そんな急に言われても……」
雅と空のバイトがどういうものかようやく理解した菜月だったが、しかし突然自身も同じように戦えと言われても困る。あの時傷が治ったのだって本当に空達の言う異能かどうかも分かっていないのだ。
彼女は無意識に先ほど切り裂かれたはずの肩に触れ、助けを求めるように雅に視線を送った。
「私……あんな風に戦えないよ」
「私も初めはあんなことできなかったけどね。特に菜月の異能は攻撃的なものじゃないみたいだから、私みたいに正面切って怪異を相手にすることはないと思う。私と空が守ってあげるから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「音羽、むしろここに入らない方が危ないと思うぞ。戦えもしない異能者一人なんて怪異の格好の餌食だからな。職員になればGPSの所持が義務付けられるが、その代わり襲われた時に迅速に駆け付けられる。身の安全を考えるなら俺は入った方がいいと思う」
雅と空の言葉を聞き、菜月は思考を巡らせる。あの化け物と対峙しなければならないなんて怖いに決まっている。……だが、異能者とやらになってしまった以上、事務所に入っても入らなくても襲われることになる。空の言う通り、そうなれば菜月一人では太刀打ちできない。
たった一人で異形から逃げたあの時の言葉に出来ない悍ましさと恐怖を思い出してしまえば、味方が出来ることを拒むはずもなかった。
「私一人では何も分からないし……是非、よろしくお願いします」
「……ありがとう。歓迎するよ」
菜月の返事にほっとしたように表情を緩めた八雲は「では改めて、菜月ちゃん」とテーブル越しに彼女に右手を差し出し、笑顔を向けた。
「怪異調査事務所へようこそ。これから仲間としてよろしく頼む」