4-5 幼き異能者
「八雲、こっちみたい!」
「ああ」
今から十五年ほど前。まだ高校生になったばかりの八雲と七海が影白支部所属の異能者として活動を始めてまもない頃、何度か怪異による被害が報告された場所を調査していた時のことだった。
夕日が見えなくなる直前の時間、赤い光で染まった町を走っていた八雲達は何やら騒がしい――怒声や悲鳴などのただ事ではない声を聞きつけて小道の一角へ足を踏み入れた。
すでに誰かが襲われているのか、そう思い七海の手を掴んだ八雲は声のする付近を目指して一気に移動する。まだ慣れない異能だ、移動した距離は大したことがないのに誤差が随分と酷かった。
しかし結果的に、そのおかげで彼らは助かったとも言えた。
「七海、あの子!」
「襲われて……?」
細い道と道が交差するやや開けた場所。そこには三体の怪異とそして彼らの傍でしゃがみ込んで泣いている五歳くらいの子供の姿があった。最初は怪異に子供が襲われているのかと思った八雲達だったが、子供は大声で泣いてはいるものの怪我をしている様子はない。
いや、注目するべきはもっと別の所にある。その子供の前にいる怪異三体の様子が明らかに可笑しいのだ。人型のそれらの怪異は、仲間割れでも起きたのか何故か人間ではなくお互いを相手にその爪や武器を振い、傷つけ合っている。先程聞こえた悲鳴は人間ではなく怪異のものだったのだ。
「何があったのか分からないが……とにかくあの子を助けないと」
状況は把握できないが子供が無事な今の内に救出しないと、と八雲は泣き続ける子供の元へと一歩足を踏み出した。しかしその瞬間、突如言葉に表せないような激しい不快感に全身が浸かった感覚に陥った。
「八雲!」
「……え、あ」
一瞬で何も考えられなくなった彼は七海に引き摺られるようにして元の場所へと戻される。何がなんだか分からないうちに極度の不快感は消え、我に返った八雲はいつの間にか自分が持っていたナイフの鞘を抜き放ちそれをまっすぐ己の片割れに向けていたことにようやく気が付いた。
「わ、悪い」
「八雲……今のって」
未だに殺し合う怪異の姿と自分にナイフを向けた弟を見比べた七海は、もしやと口に手を当てて目を伏せた後、異能を発動させた。
「七海?」
「多分一定範囲内に何かの能力が働いてる。私と八雲の周囲だけ無効化してみたから、今度は近づいても大丈夫だと思う」
「本当か?」
そう言われて八雲は恐る恐る一歩踏み出す。しかしまた先ほどのような不快感が体に走り、彼は震える手を押さえ込んだ。少し違うのは、まだ気をしっかりと持っていればどうにか意識をはっきりと保っていられるということだ。
しかしその所為で自分がどういう状況に置かれているのかもしっかりと認識することになる。彼の頭の中では、ガンガンと何度も何度も「殺せ」と「皆死んでしまえ」と物騒な言葉がずっと回っているのだ。八雲と同じく一歩踏み出した七海も同じなのだろう、「何これ……気持ち悪い」と頭を押さえた彼女はそのまま数歩耐えるように歩き出して「多分これを使ってるのは」と苦しげに目を細めて子供を見据えた。
七海の異能ですら弱める程度にしか効果の無い強力な能力。そんな異常空間の中で唯一他者を攻撃しようとせずに泣き続ける幼い男の子。大声で喚いているのにまるで彼に気付いた様子の無い怪異達を見た七海は、この恐ろしい能力を行使しているのが目の前の子供であると認識する他なかった。
そうこうしているうちにも怪異達は互いを殺し続けており、とうとう二体が塵となって消えもう一体も致命傷を負ったのだろう、最後に残った怪異は崩れるように倒れてゆっくりと足先から崩壊していく。
八雲は頭の中に溢れ返る言葉を押さえ込んで、怪異が居なくなってもなお泣き続ける子供の元へと向かう。子供の目の前に来た彼はその場にしゃがみ込むと、にっと笑みを浮かべてその子の頭をゆっくりと撫で始めた。
「もう怖いのはいない。大丈夫だ」
「うう……」
「一人でよく頑張ったな、偉いぞ」
しゃくり上げながら、しかしようやく八雲の声に反応して顔を上げた子供は、その目にたっぷりの涙をためて彼を見上げた。アスファルトに座り込んだ八雲がその子を抱き上げて胡坐をかいた足に乗せて背中を叩いてやると、一度収まりかけた涙が再び大きく溢れて男の子は八雲に縋りついて大声で泣いた。
それと同時に、今まで頭の中で鳴り続けていた不快な声が収まっていく。今まで張りつめていた気が緩むと、八雲はどっと疲れを感じてため息を吐いた。相当精神に来る能力だった。……それも七海が弱めた状態でこれなのだ。
「八雲」
「ん」
七海から受け取ったハンカチで子供の顔を拭きながら、末恐ろしい能力を持った子がいたものだと八雲は内心冷や汗を掻いた。
しばらく泣き続けた男の子はその後八雲にしがみ付いて眠ってしまう。あれだけ泣いたのだから疲れたのだろうと思うが、八雲は意識を落とした子供に僅かに安堵する。また不意打ちであの力を使われたら今度こそ八雲達は太刀打ちできないだろう。
「七海、戻るぞ」
「事務所、でいいのよね?」
「ああ。この匂いと能力、間違いなく異能者だ……こんなに小さいのにな」
よっ、と力を入れて子供を抱えて立ち上がった八雲は、七海が自分の腕を掴んだのを確認すると、事務所まで一気に異能を使って移動した。
「……八雲、お前いつの間に子供なんて。成長したなあ」
「兄さん、アホなこと言ってる場合か!」
いつも通り突然事務所に現れた弟達を迎えたのは、影白支部所長であり九十九家の長男でもある一真だ。八雲の腕の中にいる子供に僅かに驚いてみせた一真は、おどけたようにそう口にして子供を覗き込んだ。
「異能者、か?」
「ああ。怪異に襲われていたというか、返り討ちにしてたというか……」
「七海、詳しい話を」
「はい」
八雲よりも理路整然と話すだろうと七海に説明を振った一真は、話を聞いて行くうちにどんどんその表情を硬くする。七海の異能で完全に無効化出来なかった上、精神に影響を及ぼすらしい異能。一真は難しい顔で黙り込んだ後、小さくうわ言を呟いた子供を見て七海を呼んだ。
「異能の維持はどのくらい出来る?」
「そうね……頑張って三十分、くらいかも」
「この子が目を覚ましたら出来る限り頼む。八雲、起こすぞ」
「ああ」
一真がゆっくりと子供の体を揺らすと、元々覚醒が近かったのだろう、小さな呻き声と共にその子供は静かに目を開いた。
「っ!」
起きた瞬間知らない人間に囲まれて怯えたのだろう、不安げな表情で周囲を見回した子供は、八雲の顔を見ると無意識に彼の服を握る力を強めた。八雲のことはちゃんと覚えているらしい。
一真は僅かに頭の中に何かが侵食する感覚を覚える。七海が押さえているものの、やはり何か異能を使っているのかもしれない。しかしそんなことはまるで表情に出さない彼は八雲と同じように子供に向かって笑い掛け、出来る限り優しい声を出した。
「こんにちは、俺は九十九一真って言うんだ。はじめまして」
「こ、こんにちは」
「ちゃんと挨拶出来るなんて偉いな。君の名前は何ていうのかな? お兄さんに教えて欲しいな」
「……お兄さんって年か?」
八雲が小さく呟いた声を聞き取った一真は、男の子に気付かれない様に八雲を笑顔で威圧した。現代では珍しい八人兄弟の九十九家では一番上と一番下では十五歳も離れているのだ。高校生の八雲にとって一真は兄というよりも父親に近い存在だった。
そんな兄弟の攻防に気付かなかった男の子は、うろうろと視線を泳がせた後俯いて口を開いた。
「……相馬、恭一郎です」
幼いにしては随分としっかりした口調で、子供――恭一郎は静かにそう名乗った。
「人間、怪異、とにかく一定の自我と理性を持つ者ならどんなやつでも思いのままに操ることが出来る。錯乱させるのは序の口。敵から情報を聞き出したり、同士討ちさせたり……自殺させることだって出来る。そして洗脳された者はそれに違和感を覚える間もなく操り人形と化す。それが、あいつの異能の正体だ」
八雲がそう言って口を閉じると、事務所は酷く静かになった。驚いて固まった二人を見た八雲はまあ驚くだろうな、と思いながらも一つため息を吐いた。
「洗脳……って」
「恭一郎がまともな人間で本当によかったと心から思うよ。それほど……あの異能は恐ろしい」
「相馬先輩、だから今まで黙って」
身近にいる人間が、周囲の人間を好きなように洗脳出来る。それを知って恐ろしいと思わない人間がいるだろうか。自分が考えていることが、思っている感情が本当なのか。嫌でも疑ってしまうことになる。
「あいつの異能を知っているのは俺と七海と五樹兄さんだけだ。上に通す書類にも、流石に本当のことは書けなかった。恭一郎にとって危険すぎるからな」
もし他の人間が恭一郎の異能を知ったらどうなるか。己の都合の良いように彼を利用するかもしれないし、或いは危険すぎると判断されて殺されるかもしれない。だからこそ一真は八雲達にこのことを口外しないようにと約束させ、担当医の五樹は彼の異能を『怪異の精神を錯乱させるもの』と曖昧に誤魔化し、誰かの目に留まらぬようにと細心の注意を払った。
「……先輩はその異能が、嫌いなんですよね」
「ああ。今はまだしも、昔は特に無意識に異能を使ってたからな。だからあいつはずっと、出来るだけ他人に関わらないように生きて来た。……ただ、菜月ちゃんを除いて」
昔、恭一郎が事務所に慣れて来た頃に、一真が恭一郎を九十九家で預かったらどうかと提案をしたことがある。彼の両親は殆ど不在で、いくら近所で面倒見てもらっているといっても寂しいだろうと、更に恭一郎の異能の件もあった為九十九家で預かった方が良いのではないかと言ったのだ。
八雲達も勿論それに賛成したが、しかし幼い恭一郎だけはその提案に申し訳そうにしながらも頑なに頷かなかった。
『なつが、待ってるから』と、そう言って。
菜月が事務所に来るまで八雲は恭一郎の言った“なつ”という子のことはすっかり忘れていたが、実際に彼らが接する姿を何度も目にしてどれだけ恭一郎が彼女を大事にして……執着しているのかを感じ取っていた。
「音羽は、何で」
「分からない。俺達もあの二人の間に何があったかは知らないんだ。だが菜月ちゃんが恭一郎にとっての唯一の特別な存在であることは確かだ。……だけど、その恭一郎が菜月ちゃんから手を離した。あいつ、菜月ちゃんを振ったらしい」
「……はあ!? 何で」
「あいつは未だに他人の気持ちが信じられていない。洗脳なんて異能を持った恭一郎が、好きな子から告白されてみろ……その言葉が彼女の本当の気持ちか疑わないと思うか?」
「じゃあ、相馬先輩は音羽の気持ちが自分の異能の所為だって言いたいんですか」
「菜月ちゃんが言ってたんだ。恭一郎への気持ちは思い込みだって言われたって……あいつも、ホントに馬鹿だよ」
彼はどれだけ菜月に好意を示されようと信じるのを恐れている。確かに目に見えない異能である為自覚なしに使っていても分からないのが問題だ。だがそれ以上に、恭一郎は強迫観念に駆られているように信じてはいけないと言い聞かせているようにすら見える。
「……先輩、菜月を悲しませるなって言ったのに」
ぽつりと雅はそう呟くと、すぐに彼女は顔を上げて酷く怒った様子で八雲と空を見た。
「さっさと先輩捕まえて菜月の前に引き摺り出してやりましょう! それであの子がどれだけ先輩のこと好きか嫌という程思い知らせてやるんだから!」
「……そうだな。俺も賛成だ」
「とりあえず恭一郎を探さなきゃいけないんだがな……」
雅と空が意気込んで八雲を見上げるが、しかし生憎手がかりは無いに等しい。携帯もGPSも所持しておらず、目撃証言も今のところないのだ。
八雲はどうしたものかと思いながらも手にしていた端末で再度恭一郎のGPSを検索する。まさか戻って来てはいないだろうが、と思いつつ画面を覗き込んだ彼はその位置情報が先ほど確認した時と異なっているのに気付いて目を瞬かせた。
いや、場所が異なっているだけではない。今現在、恭一郎のGPSは移動していたのだ。
「どうしたんですか?」
「いや、恭一郎のGPSが動いて……ああいや、菜月ちゃんが持ち出しただけか」
見れば恭一郎の位置情報と重なるように菜月のGPSも反応している。
「そういえば先輩のGPSって」
「腕時計だ。……まったく、本当に素直になれないやつだよ。お互いに相手から貰ったもの付けて……って」
「今度は何ですか」
「何だ、この動き……?」
画面を空達にも見えるように机に置いた八雲は、不自然な動きをするそれらを見て首を傾げた。今までゆっくりと進んでいた菜月のGPSが急にぴたりと動きを止めたかと思うと、同じく彼女と場所を共にしていた恭一郎のGPSが突然動き出したのだ。それも明らかに人間では出せない速度で。
「何か……車にでも乗ったのか?」
「菜月に電話してみます」
普段ならばここまで深く考え込むこともなかっただろうが、恭一郎が居なくなった今八雲は何か嫌な予感を覚えて眉間に皺を寄せた。
雅が菜月の携帯に掛けてみるものの、しかし一向にコール音しかならない。それが余計に八雲の不安を駆り立てた。
「ちょっとここまで行ってくる」
八雲はそう言い残して異能を使うと、すぐに菜月の位置を示すその場所へと移動した。建物の隙間に降り立った彼は人目を気にしながら外に出ると、すぐにその異変に気付かざるを得なかった。
目の前の道路。そこには電柱に寄り掛かるようにぽつんと高校指定の大きめの鞄が置かれていたのだ。見慣れたその鞄は雅達が通う高校のもので間違いない。
八雲はその鞄に近付くと隅にきらりと光るペンダントが落ちていることに気付き、苦虫を噛み潰したような表情で顔を歪めた。
紛れもなく菜月のペンダントだった。こんな道端に落ちているはずのないそれらを見つけた八雲は、自分が考えていた以上の何かが起こっていることを理解して頭を抱えたくなった。
しかしそんなことをしている余裕など八雲には残されていない。菜月が自発的に荷物とペンダントを置いて行ったと考えられない以上、何者かに連れ去られたとしか思えないのだから。
八雲は端末で先ほどの恭一郎のGPSを辿る。相変わらず速い速度で移動を続けるそれはどんどんと影白町から離れ、そして隣の町へと入っていく。そして暫くするとその反応はようやくある場所で――八雲がよく知るその場所で、完全に動きを止めたのだった。
「……病院?」
九十九医療センター。地図上に表示されたその文字を見た八雲は訝しげに目を細めた。




