4-4 異能の本質
「いっくん!」
恐らく本人はいないだろうと思いながらも、菜月はそう叫びながら相馬家に入った。家には鍵が掛かっていたが、昔から恭一郎の面倒を見て来た音羽家は勿論鍵を所持している。一度家で鍵を掴んでから相馬家へ行った菜月は、誰の気配もないリビングを見回した。
いつも通り片付いた、何の変哲もない家。一度八雲は入ったのだろうが、何か彼の居場所に関するものは無いかと恭一郎の部屋へ行こうとした菜月は、その直前にリビングに置かれた机の中央に一つぽつんと置かれたものに気が付いた。
「これ……」
手に取ったそれを見つめた菜月は俯く。何年も使い古されたその腕時計は、紛れもなく菜月が昔プレゼントしたものだ。恭一郎に怒られながらも喜んで渡した誕生日プレゼントを握り締めた彼女は、涙を堪えて茫然と呟いた。
「……嘘吐き」
まだ着けていてくれたんだと言った菜月に、十年分だからと言葉を返した恭一郎。まだ十年経っていないのに彼はこれを置いてどこかへ行ってしまった。帰って来るか、菜月には分からない。
まるで本当に菜月を置いて行ったように、彼にはっきりと決別を言い渡されたように思えてしまう。
菜月は腕時計をスカートのポケットにしまい込むと、そのまま相馬家を飛び出した。探す当てなどない。しかしじっとしてはいられなかったのだ。
例え菜月の気持ちを受け入れてもらえなくても、嫌われてもそれでいい。だがこのまま会えなくなるのだけはどうしても嫌だった。いつも使っている最寄の駅、時々寄る本屋、昔菜月と遊んでくれた公園。思いつくままに息を切らして走り回る。
「はあ……はあ……」
しかし恭一郎はどこにもいない。次に向かうべき場所が思いつかなくなった所で体力の限界が来た体を休める為に一度立ち止まる。あと探すべき場所はどこか。八雲は否定したが母親を追って空港に行ったのか。
しかし恭一郎がそこまで離れてしまったら流石に菜月一人では探すことが出来ない。
一度八雲に連絡してみようと菜月は携帯を取り出す。しかし携帯の画面を覗き込む直前、不意に背後から体を押さえ込まれた彼女は咄嗟に持っていた携帯を取り落してしまった。
「え」
状況に着いて行けずに驚いている間に、菜月の口と鼻を覆うように布のようなものが押し当てられる。元々非力な菜月では振り払うどころか彼女を押さえ込む人物を確認することすらできず、菜月はだんだんと体の力が抜け、意識が無くなるのを待つことしか出来なかった。
ただ一つ、布を押し当てられる直前に鼻に付いた甘い匂いだけが彼女に分かった全てだった。
「相馬先輩が死ぬって、どういうことなんですか八雲さん!」
「説明してください!」
事務所では雅と空が八雲に強い剣幕でそう問い詰めていた。独り言を聞かれてしまった八雲は困った表情で返答に窮していたものの、そんなことをしている状況ではないと一度小さく息を吐いた後真剣な表情で彼らに向き合った。
「恭一郎が居なくなったんだ。こんなもの残してな」
「先輩が……?」
恭一郎が残した置手紙を二人に見せると、彼らはそれを机に置いて二人で読み始める。たった一文の短い文章だ、すぐに読み終えた二人は顔を上げて困惑した様子で八雲を見上げた。
「何なんですかこれ」
「辞めるって……俺にはここを辞められると思ってるのかとか言った癖に」
「GPSも持ってないみたいで今恭一郎がどこにいるのか探してる。一応知り合いの警察や付近の事務所にも声を掛けておいたが……今の所手がかりなしだ」
「それで、先輩が死ぬって言ってたのはどういうことなんですか」
「……あくまで可能性、だ」
やはりそれが聞きたかったのだろう。不安げに目を揺らしながら八雲の返答を待つ二人に、彼は落ち着かせるように前置きしした後、少し迷った末に口を開いた。
「空、雅ちゃん。異能者が異能を捨てるにはどうすればいいと思う?」
「え?」
「八雲さん、一体何を」
「いいから」
不意に突拍子の無い質問を投げかけられた二人は一度顔を見合わせた後、訝しげに眉を顰めた。そんなこと考えたことがないのだ。
「……そんなこと、可能なんですか? だって一度異能に目覚めたら捨てるなんて」
「ああ、無理だ。そんなことが出来た試しなんて聞いたことがない」
「じゃあ何で」
「無理なんだ。異能者が異能から逃れたいのなら、怪異から追われないようにしたいのなら――生きてたら、不可能だ」
「――えっ」
雅のものか空のものか、ひゅっ、と息を呑む音が静かな事務所の中で聞こえた。
生きていたら不可能というのはつまり簡単に行ってしまえば……死ぬしかない、ということだ。
そして今話していたのは、恭一郎が死ぬかもしれないという話。
「相馬先輩が、そうだって言うんですか」
「分からない。だけどあいつはずっと自分の異能を憎んで、嫌ってた。何度も何度もこんな力がなければって苦しそうに言ってたんだ。それに……あいつが菜月ちゃんから離れた」
「菜月? 菜月がどう関係するんですか」
「それは……」
「八雲さん、相馬先輩が自分の異能を知られたくないのは俺達も分かってます。だけど今それどころじゃないでしょう!? 教えて下さい、先輩がそれだけ嫌う異能って何なんですか!」
「……」
口を閉じて言い淀む八雲に空が声を上げた。何年も同じ事務所にいながら、恭一郎は頑なにその異能について口にしなかった。空はずっとそれが疑問だったのだが、それだけ口外を避けるほど特殊な異能なのか。
異能を無くしたいと願い続けた恭一郎を苦しめて来た異能の正体が、知りたかった。
空に押されるように八雲は目を伏せた後、彼は重く低い声で慎重に口を開いた。
「あいつの、異能は――」
「……ん」
ゆっくりと、泥の中から浮上するように菜月の意識が戻る。目を開ける直前になって眠っていたことに気が付いた彼女は瞼の裏に眩しい光を感じながらそっとその目を開けた。
「……可笑しいな。まだ起きるには早すぎるんだが、もう薬品の効果が切れたのか」
「え」
「それも君の異能の所為なのかな、音羽さん」
目を開けた菜月の視界に映ったのは、目を刺激する眩しいライトと、そして眉を下げて菜月を見下ろす、白髪交じりの黒髪の男性だった。
「五樹先生?」
彼がいることを不思議に思った菜月は、上半身を起こしてきょろきょろと辺りを見回した。菜月が寝かされていたのはベッドというには簡易的な診察台のようなもので、周囲には医療器具と思しき様々な機械や道具が置かれている。
「ここは……病院?」
「九十九医療センターの中ではあるね」
「何で私ここに……そういえば」
不意に彼女の脳裏に先ほど意識を失う前の記憶が蘇ってくる。居なくなった恭一郎を探して走り回っていた時、何者かに襲われたようなのだ。あの時に微かに感じた甘い匂いは菜月がよく知るもので、彼女を襲ったのは怪異か、または異能者かどちらかであるはずだ。
しかし目覚めた菜月がいるのは病院だ。もしかして誰かに助けられた後ここに運ばれたのかもしれないと思った彼女は五樹を見上げて不思議そうに首を傾げた。
「私、さっき誰かに襲われた気がするんですけど、どうしてここに居るんですか?」
「……僕が音羽さんに話したいことがあったから、と言ったら?」
そう言いながらにこりと微笑んだ五樹に、無意識のうちに菜月は診察台の上で後ずさっていた。いつもと同じような優しい微笑みのはずなのに、今の菜月には五樹のそれがどうにも恐ろしく思えてしまう。
そもそも、菜月に話したいことがあるなら普通に連絡すればいいのだ。それなのに五樹の答え方では、まるで彼が菜月を襲った犯人のような物言いだ。
……しかし五樹は異能者でも、まして怪異でもない。だから菜月を襲った人物は別にいるはずなのだが。
「……話したいことというのは」
菜月が自分を警戒し始めたのが分かったのだろう、五樹は慎重に言葉を選んだ菜月を苦笑しながら見つめ、そして彼女が最も聞きたかった言葉を口にした。
「とりあえず、そうだね……相馬君のことかな」
「――え、いっくんのこと、何か知ってるんですか!?」
「その様子だと、彼はやっぱり音羽さんに何も話さなかったんだね」
恭一郎の名前が出た途端今までの警戒をかなぐり捨てた菜月は、逃がさないとばかりに五樹に詰め寄る。明らかに菜月が知らない恭一郎の情報を持っているだろう口ぶりに、彼女は両手を握りしめて強い視線を彼に向けた。
「いっくんがどこに居るか、知ってるんですか!」
「ああ、相馬君は少し離れた部屋に居るよ。今は手術の後だから眠っているけどね」
「手術って……いっくん、どこか悪かったんですか」
「いいや、健康そのものだ。この前の定期健診でも異常はどこにもなかった」
「じゃあ何で」
「異常がなかったからこそ、相馬君が手術を望んだんだ。……異能を切除する、特別な手術を」
異能を、切除?
五樹の言葉がすぐに呑み込めなかった菜月はその言葉を頭の中で何度も反芻する。異能を切除、つまり取り除くということだ。そんなこと果たして出来るのだろうか。
「異能を、無くす手術? ……そんな手術あるんですか?」
「無かったよ、本来はね。だからこそ何度も何度も僕は研究を重ねた。そして……ようやくその方法が完成した」
「……それを、いっくんが」
「あの子はずっとそれを望んでいた。幼い頃から苦しみ続けたその異能を捨てたいと何度も何度も僕に相談して来た。……音羽さんは、相馬君の異能について聞いていないんだね?」
確認するように問われた言葉に菜月は俯いて首肯した。恭一郎は菜月には何も言わなかった。どうしても話そうとはしなかった。
「相馬君は言わなかったようだけど、一番傍であの子を見て来た音羽さんは知るべきだと僕は思う……彼が、あの異能によってどれだけ苦しい思いをしてきたかを」
「……教えて下さい」
「相馬君の異能の本質は――」
今まで菜月は何度か恭一郎が異能を使っているのを見て来た。怪異を錯乱させたりおびき寄せたり、同士討ちさせたこともあった。様々な力を発揮するその異能が何なのか、彼女は理解できていない。
五樹は一瞬躊躇うように口を閉じた後、悲しげに目を伏せてため息混じりにそれを言葉にした。
「……洗脳、だよ」




