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怪異調査事務所へようこそ  作者: とど
四章 相馬恭一郎の願い
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4-2 親子

 離婚という言葉を聞いた恭一郎は、何も言葉を返さなかった。


 元々彼が成人する頃には離婚すると前々から言われており、更に三日前にようやく成立したのだという話も聞いていた。だからこそ驚くことはなかったが、しかし実際に母親の口からその言葉を聞くとじわじわと胸の中が空虚で満たされていく感覚を覚えた。



「父、さんは」

「さあ、他人だからどこに居るのは知らない。もう会うこともないでしょうね」



 私にもあなたにも、と全く興味がなさそうに告げた彼女は、テーブルの上に広げた書類を恭一郎に見せ「書きなさい」とペンを渡して来る。



「この家はあなたに譲ることになったわ。書類を書いてくれさえすれば後はこっちで全部処理するから。どうせもうここには戻って来ないでしょうしね」

「……」

「ああ、大学卒業までの学費は振り込んでおくから。それ以上は自分でどうにかしなさい」

「……分かり、ました」



 硬い表情が動かないまま、恭一郎は言われた通りに家の譲渡に関する書類にサインする。一度目を通して不備がないのを確認した母親は、さっさとそれを鞄にしまい込むと早々に立ち上がった。



「それじゃあ、用も終わったから戻るわ。飛行機の時間も迫ってるの」

「母さん、その」

「何?」

「……今まで、お世話になりました」



 彼女の言動を考えれば明言されなくても恭一郎だって分かる。もう二度と会うことはないと、実質親子の縁を切ったのも同然だ。これから仮にどこかで会ったとしても、彼女にとって恭一郎は他人同然なのだろう。

 どのみち、今までだって同じようなものだった。


 恭一郎の言葉を「そう」とどうでもよさそうに流した母親はそのままリビングを出て行き、何も言うことなく玄関から出て行ってしまった。後に残ったのは、リビングで一人俯く恭一郎一人だけだ。



 耳が痛くなるほどの静寂の中、彼は虚ろな目を彷徨わせる。三日前の電話からこうなるとは分かっていたのだ。父親が全く姿を見せないことも、母親が相変わらず彼に欠片も情を持たないでいることも、全て理解していた。

 しかしそれを思い切り眼前に突き付けられた彼は、想像していたよりもずっとその事実が重たくのしかかってくるのを感じた。




「……結局俺は、誰にも」

















「ほい、到着」

「ありがとうございます、八雲さん」



 恭一郎が帰ってから少し後、菜月は八雲に家まで送ってもらっていた。いつもよりも帰る時間は早いのだが、恭一郎が気になって仕方が無かった菜月を見かねた八雲が早々と送ってくれたのだ。表の仕事も請け負っている恭一郎とは違い、元々呼び出しがなければ事務所に居なければならない理由もなかった為菜月も八雲の言葉に甘えることにしたのである。


 菜月の家から少し離れた路地に八雲の異能を使って到着すると、すぐに八雲は「じゃあ俺は戻るから」とその姿を掻き消した。本当に便利な異能である。菜月の異能もとても便利でありがたいものだが、しかし使いすぎるとすぐに頭痛がしてきたり気持ち悪くなったりしてしまうので、少し彼が羨ましかった。



 一人になった菜月は家に戻ろうと路地を出ていつも通る道に足を踏み入れたのだが、しかし家に到着する直前突然聞こえて来た怒声に足を止め、そしてその声が自分の母親のものであることを理解して目を見開いた。



「いい加減にしなさいよ! あんた達一体どれくらい自分勝手か分かってるの!?」

「だから今まで恭一郎を預かってくれていた分、好きなだけ払うと言ってるでしょう?」

「それが自分勝手って言ってるのよ! 勝手に恭一郎君を置いてって、それで急に帰って来たかと思えば離婚しましたって……お金なんかいらないわよ。あの子は我が子同然なんだから!」

「……そう、分かったわ」



 家の前で母親が怒鳴りつけている女性は菜月の記憶には残っていない。しかし母親の言動からそれが恭一郎の母親であることは窺えた。グレーのスーツを着こなしたその女性は母親との会話を打ち切ると、そのまま菜月の方へ歩いて来る。


 一瞬声を掛けようか悩んだ菜月だったが、しかし彼女の方を全く見向きもせずに横を通り過ぎた女性に口を開くタイミングを逃し、そのまま立ち去って行く背中を見ていることしか出来なかった。彼女もまた、随分昔に会った菜月のことなど全く覚えていなかったのだろう。



「お母さん……」

「あ、菜月。……今の、聞いてた?」



 家に入る直前の母親に声を掛けると、彼女は非常に気まずげな表情を浮かべる。菜月が無言で頷くと疲れたように大きなため息を吐いた彼女は、そのまま菜月を家の中へ促した。

 どうやら夕飯の準備を始める所だったらしい。菜月はそれを手伝いながら、黙り込んでいる母親に向かって恐る恐る口を開く。




「ねえ、あの人っていっくんのお母さんだよね?」

「覚えてたの。最後に会ったのはあんたがかなり小さい時だったと思うけど」

「いや、あの……さっきの話聞いてそうかなって」

「……」

「いっくんの両親、離婚するの?」

「するんじゃなくて、もうしたんだそうよ……あの馬鹿」



 ぽつりと付け足された言葉は先ほどの怒りがまだ冷めやらぬ声色だった。



「……昔は、あんな風じゃなかったんだけどね」

「え?」

「確かにあの子は学生の頃からしっかりしてて、就職してからも仕事一筋だった。煩い親戚にお見合いさせられて面倒臭くなって結婚して……でも恭一郎君がお腹にいる頃から、少しずつ変わっていったの」



 彼女も夫も揃って仕事人間だった為に相性は悪くなかったものの、それでも夫婦と呼べるかと言ったら首を傾げるほどのドライな関係だった。両親に急かされるままに義務感で身籠った時も「仕事が出来なくなる」と酷く不満げな顔をしていた彼女を菜月の母親も叱ったものだった。


 しかしお腹が大きくなるにつれ、彼女の態度は少しずつ変化していった。いや、彼女だけではない。父親もまた同じように家庭に目を向けるようになり、子供が出来て母性や父性に目覚めるようになったのだろうと酷く安心したのだ。



「本当に人が変わるように恭一郎君のことを愛して……菜月、相馬家がどうしてここに引っ越して来たのか分かる?」

「それは……いっくんの面倒見て欲しかったからじゃないの?」

「それもあるけど……きっかけは違うの」



 菜月はずっとそうだと思い込んでいた。というよりも一度も理由など聞かなかったのにそうだと疑いもしなかった。それほど恭一郎の両親は音羽家に彼を任せてずっと仕事に打ち込んでいたのだから。

 しかし菜月の母親は不思議そうに首を傾げる娘に、先ほどの怒りを静めて優しく微笑みかけた。



「恭一郎君がお願いしたのよ。菜月と一緒に遊びたいからって」

「え?」

「こっちに来る前に、何度かまだ赤ちゃんだった菜月を連れてあの子の家に行ってたの。だけど毎回帰る時になると恭一郎君が菜月と離れたくないって泣いて嫌がってね。そしたらあの二人が、せっかくだからこっちに移り住もうかって言い出して」

「いっくんが……でもそんなことで引っ越したの?」

「元々仕事にも復帰しなくちゃいけなくて保育園を探してたから、私が菜月と一緒に面倒みようかって言ったら喜んで引っ越して来たのよ。……でも引っ越してすぐに、あの子は変わった、というより元に戻っちゃったの」



 子供のことを考えてわざわざ引っ越してくるなんて、今の彼の両親から考えたら信じられない行動だ。菜月の母親が言うのだから真実なのだろうが、菜月からしてみれば想像も出来ない。

 ならば、どうして今のように冷えた関係になってしまったのだろうか。



「何で」

「分からないわ。急に前のように仕事ばかりに集中するようになってあれだけ可愛がってた恭一郎君に見向きもしなくなった。……友人としては嫌いじゃなかったけど、親としては最低よ」



 怒ることに疲れたのか、酷く憔悴したようにため息を吐く母親を見て菜月はますます訳が分からなくなる。突然自分に見向きもしなくなった両親に、恭一郎は一体どれほど辛い思いをしたのだろう。彼らは幼い彼にとってどれだけ残酷な仕打ちをしたのだ。



「……離婚、したんだよね。いっくんはどうなるの?」

「今まで通りだそうよ。さっきうちに来る前に恭一郎に家を譲ったって。もう帰って来るつもりはないんじゃないの」

「さっき……」



 つまり恭一郎が早く帰宅したのは、母親に会う為だったのか。恐らくまだ家にいるだろう恭一郎が気になって仕方がない。


 包丁を持つ手を止めて俯いた娘を見た母は「本当に分かりやすい子ね」と呟いて彼女の手からそっと包丁を受け取った。



「お母さん?」

「手伝いはいいから、早く恭一郎君の所に行って来なさい」

「いいの?」

「そんなぼうっとしたまま包丁なんて握られたらこっちが冷や冷やするわよ」



 いいからさっさと行く! と急かすように菜月の背中を押した母親に、彼女は少し驚きながらも手を洗って小走りで家を飛び出した。

 息を切らす距離でもない。すぐに相馬家に辿り着いた菜月はインターホンを押したが、しかし家の中から物音はしない。一度躊躇ったものの彼女がそのままドアノブを回すと、案の定鍵は掛かっておらずあっさりと扉は菜月を拒絶することなく開かれた。



「……いっくん」



 呼びかけてみるもののまた反応はない。そのまま靴を脱いで家に上がった菜月は息を呑みながら足を進め、そしてリビングで彼女に背を向けるように座っていた恭一郎を見つけた。



「いっくん」

「……なつ」



 ようやく菜月の声に反応した恭一郎が彼女を振り返る。どこか焦点の合わない目をしていた彼は菜月が傍に来ると、一瞬彼女から距離を取るように反射的に身を引いた。



「勝手に上がってごめんね。あの」

「なつ」

「な、何?」

「俺のこと、好きか?」



 何を言われるのか、そう身構えた菜月の想像を超えた言葉に彼女は思考を停止させ言葉を詰まらせた。菜月が恭一郎に好きだと言ったことは何度もあるが、彼は今までずっとその話題を避けて来たように思える。

 それなのに突然、しかもこんな時にそう告げた恭一郎の真意が分からなかった。



「……好き、だよ。ずっといっくんが好き」



 それでも何度も口にしたその言葉を彼に伝えると、恭一郎はそれに対して何も返さずに俯く。菜月には見えなかったが、テーブルに隠された彼の両手は強く握り締められていた。



「いっくん……」



 菜月は無意識に恭一郎に向かって手を伸ばす。しかしそれは彼に届く直前、彼女を拒むようにして振り払われた。


 驚愕した菜月の目に映ったのは、彼女の胸を酷く締め付けるような恭一郎の苦しげな表情だった。



「なつ……ごめん」






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