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怪異調査事務所へようこそ  作者: とど
四章 相馬恭一郎の願い
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4-1 不安定

最終章です

「いっくん、またね」

「ああ」


 冷たい風が吹き荒れ寒さが身に染みて来る夜道、菜月の家の前で彼女と別れた恭一郎はそのまますぐ傍にある我が家へと足を進めた。何てことはない、数メートル歩けばすぐに辿り着くその家の鍵を開け、彼は外と殆ど変らない寒さの玄関に入り明かりをつける。


 勿論家の中には誰もいない。当然である。この家に入る人間など恭一郎か菜月、そして時々彼女の母親が訪れる以外は基本的に誰も訪ねて来ないのだから。今更感慨など抱くはずもない。

 そうは思うものの、恭一郎は慣れていたはずの静寂に無意識に眉を顰めていた。最近は特に事務所が騒がしくなり、家に帰るとその静けさに違和感を覚えるようになってきたのだ。……このままでは、いけない。



「……身の程をわきまえろ」



 恭一郎はそう自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いて暖房のスイッチを入れる。寒々しい室内は自分の立場を思い知らせてくれるようで、少しだけ安心した。


 またね、と嬉しそうに、しかし名残惜しそうに手を振る菜月の顔が思い浮かんでは振り払う。あの光景を当たり前だと思ってはならない。

 もう殆ど心は決まっているのだ。長年望んでいたことが叶うかもしれないのだから迷う必要などない。例えそれが、もう二度と彼女の笑顔が見られない結果を生んだとしても。




「……はあ」



 思考を停止させた恭一郎は、一度大きくため息を吐いてから夕食の準備に取り掛ろうとキッチンへ足を運ぶ。しかしその時滅多に鳴らない固定電話からコール音が響き、彼は面倒臭そうに受話器を取った。

 どうせセールスだろうと思いながら渋々受話器を耳に当てた恭一郎は、続いて聞こえて来た聞き慣れない女の声に思わず体を強張らせた。



「――もしもし」

















「それでは、ありがとうございました」

「ああ、またいつでも来るといい」



 三日後の土曜日、事務所にはいつものメンバーの他に美咲の姿があった。

 あれから氷森支部の所長に就任した彼女は本部から来た二人の異能者と共に事務所の立て直しに奔走している。以前とは違い対人関係も良好に進んでいるらしいのだが、しかし所長になったばかりの美咲には分からないことが多く、こうして八雲に何度か相談に来ているのだ。特に今まで一人だった分、他の職員に関する書類の書き方や資金の配分、管理は初めてのことだった。



「他に困ったことがあったら言ってくれていいからな。俺に出来ることなら手伝うから」

「本当にありがとうございます。九十九さん」



 嬉しそうに微笑んだ美咲を見て今度は大丈夫そうだと安心した八雲が美咲を見送っていると、ふと彼女を眺めていた雅がうんうんと何度も明るい表情で頷いた。



「何か美咲さん、明るくなったよね」

「あれが本来の彼女なんだろう。元々綺麗な人だったけど、やっぱり笑ってた方がずっといいな」

「……特に、八雲さんに対してはすっごく綺麗に笑いますよね?」

「そうか? 気のせいだろう」



 含むようににやにやと笑いながら八雲を窺った雅に対し、彼はまるで照れた様子もなく至極当たり前のように言って首を傾げた。確かに美咲の境遇を変えたのは主に八雲と七海なので、他のメンバーよりも多少気を許されているのかもしれないと考える。



「……やっぱり、八雲さんって肝心な所で鈍感だから駄目なんだと思うんだよね」

「同感」

「二人とも、どういう意味だ?」

「何でもないです。まあそれが八雲さんですもんね、むしろそれくらいで諦める女の人は合わないかも……」



 雅の勘では、恐らく美咲は八雲に惚れていると見ていた。一人でずっと辛い思いをしていた所に手を差し伸べてくれた八雲を慕っているのは分かりやすいが、しかし最近事務所を訪れる美咲を見ていると、ただの恩人と思っているだけではないように思えるのだ。




「……で、神凪さんが明るくなったのはいいんだが、何でこっちはこんなに暗いんだ?」



 学校で出された課題を片付けながら、空は雅と八雲にだけ聞こえるように小さな声で呟いた。彼の視線の先にいるのは本を読んでいる菜月と、そしていつものように税理士事務所のバイトをしている恭一郎だ。美咲の応対をしていた為ソファに座っていた八雲を挟むように雅と空が額を突き合わせ、様子の可笑しい二人を気付かれない程度に観察する。


 しかし狭い事務所の中である。当然空達の行動は菜月達にばればれだと思われたものの、しかし二人とも彼らを気にする余裕もないと言った様子でまったく空達を窺うこともなかった。

 いつも騒がしい菜月は珍しく本を読んでいるかと思えば、ただ振りをしているだけで実際には本の隙間からじっと不安げな表情で恭一郎に視線を送り続けていた。菜月が恭一郎を見ているのは別段不思議なことでも何でもないのだが、いつもならば明るいその表情は酷く曇っているのである。


 そして彼女にそんな顔をさせているのが恭一郎だ。いつも事務所に居ても菜月以外とあまり話すことはない彼だが、数日前からはそれすらも無くなり殆ど無言の状態が続いている。そしてその表情は菜月同様に硬く、いつも以上に人を寄せ付けない。



「あの二人、どうしたんだ」

「さあ……菜月は先輩の様子がおかしいからあんな風になってるだけだと思うけど」

「つまり大本の原因は相馬先輩か。……いつも騒いでると文句ぐらい言うのに、それすらも無いもんな」


「ねえ、いっくん」



 三人でこそこそと話していると、不意に菜月が意を決した顔で立ち上がり恭一郎の傍に行く。妙に張りつめた空気の中雅達が息を呑んでその光景を見守るが、菜月はそれすら目に入っていないようで緊張した面持ちで恭一郎に話し掛けた。



「……」

「いっくん!」

「……なんだ」

「何かあったの? ちょっと前からずっと元気ないっていうか……なんか辛そう」



 長年恭一郎と一緒にいた菜月には今の彼の様子が痛々しいような、苦しそうな、そんな風に見えて仕方が無かった。しかし心配する菜月に対して、恭一郎は一度眉を顰めた後そのまま手元の書類に視線を戻してしまう。



「何でもない」

「でも……」

「何でもないって言ってるのが分からないのか」

「……ごめんなさい」



 空達に対してならともかく、恭一郎が菜月に冷たい言動を取ることなど本当に珍しい。可笑しなものを見る目で恭一郎を見てしまった雅はますます首を傾げ、俯いて戻る菜月に胸が苦しくなった。


 しかし自分で追い返した癖に、一瞬だけどこか傷付いたような表情を浮かべた恭一郎を雅は見逃さなかった。



「……八雲さんすみません、今日は用事があるのでこれで帰ります」

「あ、ああ。いいけど」

「……なつ、今日は誰かに送ってもらえ。一人で帰るな」

「え? あ、うん。分かった」



 突然それだけ口にした恭一郎は机を片付けてさっさと事務所を出て行こうとする。言動は全て可笑しいのに、最後に菜月に掛けた言葉だけはいつもの恭一郎のようで、余計にアンバランスに映る。

 慌てて返事をした菜月の姿を一瞥した恭一郎が事務所を出て行くと、雅は無意識のうちにその背中を追い掛けていた。






「先輩!」



 事務所のすぐ外、階段下で彼に追い着いた雅が息を弾ませて声を掛ける。言葉は無かったものの振り返った恭一郎に雅は一度飲み込もうとした言葉を、しかし我慢できずに口にした。



「先輩が何考えてるか、私にはちっとも分かりません」

「だからなんだ」

「私が首を突っ込むことじゃないって分かってるんです。でも……菜月を、あの子を悲しませるのだけは止めてください」

「……」



 お願いします、と頭を下げた雅に恭一郎は何も返さなかった。













「悲しませる、か」



 まだ明るい道を歩きながら、恭一郎は雅に言われた言葉を反芻する。


 彼とて菜月を悲しませたいと思ったことなど一度もない。彼女を喜ばせ幸せにしたいのなら簡単だ、その気持ちを受け入れればいい。だがそれは、全ての真実を一生塗りつぶし続ける覚悟がなければ出来ることではない。

 一生真実を隠し続けることなど恭一郎には無理だろう。彼は本来あの事務所の誰よりも、酷く臆病な人間なのだから。


 重たい足を引き摺るようにして家に帰る。そして鍵を取り出そうとした恭一郎は、しかし一度そのまま玄関のドアノブを捻った。



「もう、居るのか」



 呆気なく開いた扉に、一度大きくため息を吐いて心臓を落ち着かせる。そして彼は玄関に女性ものの靴が置かれているのを目に留めた後、表情を強張らせながら靴を脱ぎ、リビングの扉を開けた。



「遅かったわね、時間は伝えたはずよ」

「……すみません、でした」

「まあいいわ」



 本来誰も居るはずの無いリビングに居たのは、四、五十代ほどに見える女性だった。彼女は僅かに苛立った様子で口を開くと、鞄からローテーブルにいくつかの書類を広げ始める。

 硬い表情が崩せぬまま恭一郎は彼女の対面に腰を下ろし、そして何年振りかに見た母親の顔をそっと窺った。



「久しぶりね、恭一郎」

「はい」

「電話でも話したけど本題よ。――ようやく、離婚したわ」



 女性――恭一郎の母親は、何の感慨も躊躇いもなく息子にそう告げた。





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