2-4 ドッペルゲンガー
「雅、居たぞ!」
「うわあ……これは」
八雲の情報通りの暗い裏道に潜んでいた怪異を発見した空は即座に警戒するように神経を集中させるが、雅はというと怪異の姿を目撃した途端怖気を感じて引き攣った声を出した。
「蜘蛛、とか」
「大丈夫か?」
「……多分」
異能者の匂いに釣られたのか、空達がやって来ると我先にとばかりに建物の影に潜んでいた怪異が姿を現す。全部で五匹、全て蜘蛛のように多くの足を持って這い回る怪異に雅は思わず後ずさった。
空のように炎で攻撃するならまだしも、雅は直接攻撃しか手はない。しかも素手である。
「さっさと燃やせば終わりだ」
空は雅を庇うように彼女の前に立つと自分達を守るように前方に炎の壁を作る。それから個々の怪異を攻撃しようと、片手に炎を溜めて狙いを付けて飛ばし始めた。然程移動も早くない怪異は炎の塊の直撃を受けて一体は炭化して消え、そしてもう一体は体の半分を焼かれて耳障りな奇声を上げる。
「空!」
自分達に近付かせない為に前方に壁を作った空だったが、その所為で全ての怪異を視界に捉えるのが困難になっていた。雅の声に弾かれるように振り返った空は、いつの間に移動したのか、傍の電柱に掴まって上から糸を吐き出した怪異を完全に見落としていた。
「うわっ何これ!」
「雅!」
腕にべちゃりと怪異が吐き出した粘着質のある糸が絡みついた雅は、まるで釣りをされているかのように糸に引っ張られて急に体が上に引き上げられるのを感じた。
彼女は負けじと自分にかかる重力を何倍にも増やすが、引き上げられるのは止まったものの宙吊りの状態で動けなくなってしまった。重力を増やした所為で体を支えている腕に掛かる力は非常に強く、腕が千切れそうな程痛い。しかし元に戻せば蜘蛛の元まで引き上げられてやつらの餌食になるだろう。
「今助ける!」
空が焦りながら雅の腕に着いた糸を溶かそうと火を付ける。しかし耐火性があるのかじりじりと燃えてはいるものの中々千切れない。
焦れた空が火力を上げようと糸に神経を集中させたその時、まるでその時を狙っていたかのように彼の背後に残りの二体の蜘蛛が飛び掛かった。予め作ってあった炎の壁は糸に意識を割いている所為で揺らぎ、そこに隙が出来てしまったのだ。
そして宙吊りにされていた雅には、その光景が嫌と言うほどよく見えた。
「空っ危ない!」
叫んだところで避ける余裕などありはしない。雅の叫びでぎりぎり背後の怪異に気付いた空だったが、目を閉じるようにして痛みが来るのに耐える準備をするほか彼に出来ることはなかった。
「ぎぎ、があ」
「ぎぎゃあああ」
つんざくような悲鳴が何重にもなって聞こえたのは、その直後のことだった。
「え……」
目を閉じていた空はもとより、雅すら何が起こったのかよく分からなかった。何しろ、いきなり視界が全て真っ赤に塗りつぶされてしまったのだから。彼女の足元は異常な熱気が漂っており、それに気を取られていると突然体が地面に向かって急降下し始めた。
慌てて異能を解除しているうちに雅は尻餅を着きながら地面に落ちる。ぎりぎり解除が間に合った所為で大した怪我はないものの、僅かに間を置いてぼとり、とすぐ隣に蜘蛛の怪異が落ちてきたことに悲鳴を上げそうになった。
しかしそれもすでにこと切れていたのかあっという間に塵になる。腕に付いていた糸も無くなったことを確認した雅は、空の姿を探して熱気と炎に塗れた視界の中で必死に目を凝らした。
「空!」
「……い、ってえ、な」
僅かな声を聞き逃すことなく雅はその元へと掛ける。そこには全身に火傷を負った空が苦しそうに立ち上がろうとしており、雅はその姿を見て血の気が引いた。一目見てやばい、と判断した彼女が携帯に手を掛けた時、不意に今まで周囲を焼いていた炎がゆっくりと弱まっていくのを感じた。
「……まったく、冗談じゃねえよ」
知らない声だった。しゃがれたその声は雅達の正面、今は炎で阻まれたその先からはっきりと聞こえて来る。その瞬間、火傷の痛みとは別に空の表情が大きく歪んだ。
炎が消えていくにつれて、それは人影を作りゆっくりとその姿を鮮明にする。
「え」
そしてようやく、雅はその声の人物を視界にはっきりと捉えた。大きく目を見開いた雅の目に映るその人物は、彼女がとてもよく知っている人物にそっくりの顔立ちをしている。
空は動かない。ぴたりとその動きを止めたまま目の前に立つ人物――その男を瞬きもせずに見つめている。
男は腹立たしげに、しかしどこか懐かしげに、様々な感情を込めて目を細めぼろぼろになった空を睨み付けるようにして吐き捨てた。
「少し見ないうちに、憎らしいほど似てきやがった」
雅は信じられない光景を見るように空と男を交互に見つめた。
似ている。空と男は本当にそっくりなのだ。あえて言うなら男の方が十年ほど年を重ねた顔立ちであるだけで、まるで空が成長した姿を見せつけられているようだった。
「空が、二人……?」
「やっと、見つけた」
全身火傷を負っている空。当然痛みなど想像を絶するものであるだろうに、彼はそんなことお構いなしだとばかりに男を見つけて唇の端を釣り上げた。寒気がするような強い殺気を込めて。
「殺してやるっ!」
「じゃあ殺してみろ……殺せるものならな」
「言ってろ!」
そう叫び、先ほどまで立ち上がることすら苦労していたとは思えない動きで走り出した空は、両手に大きな炎を作り出して男に向かって叩き付けようとする。普段怪異と戦う時とは全く異なる火力に、無意識に雅は体を震わせた。
「……結局、この程度か」
「な」
「もう少しましになってると期待してたんだがな」
男に叩き付けた右手はいとも容易く掴み取られる。その手には煌々と炎が燃えがっているというのに、男はまるで何もないかのように易々とその手を掴み、そしてそのまま空を投げ飛ばした。
「空!」
雅の傍に転がった空は満身創痍であるのに関わらず、まだあきらめることなく上半身を起こし、自分とよく似た男を憎しみの目で睨み続けている。雅が止めようと押さえ込もうとするがそれさえも無理やり振りほどいて立ち上がろうとした。
「邪魔、するな」
皆はまだか。すでに緊急用の連絡は入れてある。このまま空が戦い続ければどうなるかなど分かり切っている。そして空の言葉を聞かずに雅が助太刀した所でとても勝てる相手だとも思えない。見たものに与える途轍もない威圧感、駆り立てられる恐怖心、圧倒的な力。雅は何の疑いもなく、この男が影の言った“炎”であると確信した。
「殺す……殺して、やる。俺の手で必ず……!」
「やってみればいい」
空を煽るように男が笑った瞬間、肌を焼かんばかりの熱が雅の全身を襲った。男に僅かに劣るか、それとも同等かという程の激しい炎を間近で見た彼女は、そのまま空が炎と共に燃え尽きてしまいそうに見えた。
地面を舐めるようにうねる炎を見た男もまた、先ほどからの余裕の表情を消し……そして何故か嬉しそうに笑みを濃くし、迎え撃つように両手を広げたのだ。
「さあ、来い」
「死ね!」
「ちょっと待った!」
空と男との間。ちょうど炎の隙間を縫うようにして突然その声は割り込んで来た。その声に咄嗟に空は攻撃しようとした炎を弱め、そして目の前に立ち塞がった男の背中を見る。
「久しぶりにどんぴしゃで移動出来たな」
「よりにもよってこんな炎の中にですけどね」
「雅! 高遠君!」
現れたのは男――八雲だけではない。事務所に残っていた恭一郎と菜月もぼろぼろに焼け焦げた空を見て驚愕の色を見せた。
すぐさま空の元へ向かう菜月、菜月を背に庇いながら炎を警戒する恭一郎、そして八雲は前方に立ち尽くしていた炎を見据え、その顔に僅かに驚きながら強く歯を噛み締める。
「うちのやつに随分酷いことしてくれた……お前が、炎ってやつだな」
「……邪魔が入ったな」
先ほどまで嬉しそうに笑みを浮かべていた炎だったが、八雲達が乱入したのを見ると途端に興が冷めたように表情を消して右手を前に出した。
瞬間、八雲の目の前に強大な炎の壁が立ちふさがり思わず顔を腕で覆う。目くらましかと壁の向こうへ異能を使って八雲が移動したものの、その時には既に炎の姿はどこにも確認することができず、彼は苦々しくため息を吐いたのだった。
炎の姿が見えなくなると空もまた異能の発動を止め、そして力が尽きたように膝を着いてしゃがみ込む。彼はまるで表情が抜け落ちたかのように無表情になり、雅が声を掛けても、菜月が治療を始めても空は何も話すことはなかった。
「……」
全員が事務所に戻るが、勿論とても誕生日を祝うような雰囲気ではない。空は無言でずっと俯いており、雅は彼の隣にいるものの何と声を掛けていいのか分からずに同じく黙り込んでいる。また菜月は元々風邪だった上に空の全身火傷を治して更に体調を悪化させて寝込んでいる。ただし彼女もまた空を心配して奥の仮眠室ではなく仕事場のソファに横たわって空の様子を確認していた。
この場にいる全員の脳裏には、先ほどの怪異――炎の姿が目に焼き付いている。空にそっくりな顔立ち、そして能力。
お互いを知っているかのような会話に加えて、殺意を露わにした空の姿を思い出した雅はたまらずに沈黙を破って空に話し掛けようとした。
「すみませんでした」
しかし彼女を制するかのように先に吐き出された空の声。それに反応して全員が顔を上げて彼を見つめる。
ずっと無表情だった空の顔には、まるで泣くのを堪えるような今にも崩れそうな自嘲の笑みが浮かんでいた。
「雅、戦いに巻き込んで悪かった。音羽、風邪引いてたのに余計に異能を使わせて悪かった。八雲さんも相馬先輩も、迷惑を掛けてすみませんでした」
ソファから立ち上がって全員を見渡した空は大きく頭を下げる。数秒掛けてゆっくりと頭を上げた彼は手を強く握り込み、そして何かを決意したように強い視線で彼らを射抜いた。
「もう二度と迷惑は掛けません、ここを出て行きます。……今まで、お世話になりました」
「空!」
返事は聞かないとばかりに言い終えるとすぐに踵を返して扉に向かった空に、雅は反射的に立ち上がってすぐさま空の元へ向かう。彼が扉を開く前に腕を掴んだ雅は困惑の表情を隠せずに空を見上げた。
「どういうことなの? ねえ、空!」
「悪い、雅。俺はもう一度あいつに会わないといけない。会って……俺が、あいつを殺さないといけない」
「何言ってるのよ、それなら皆で戦えばいい。辞める必要なんて無いじゃない! 空、私が前に一人で飛び出そうとした時だって止めた癖に!」
「あの時とは違う。これは全部、俺の問題なんだ。他の誰かを巻き込む訳にはいかない。……八雲さん」
「……なんだ」
「あの怪異の顔、見ましたよね」
不意に話を振られた八雲は、空の苦しそうな顔を見ながら怪異――炎の顔を思い浮かべる。容易いことだ、何しろそっくりな顔が目の前にあるのだから。
「ずっと騙していて、すみませんでした。俺はここに……異能者の皆と一緒に居ていい存在じゃなかった」
本当は、一人でいなければいけなかったのだと彼はずっと言えなかったその言葉を口にした。
「俺は、怪異側の存在だから」




