0-2 幼馴染
「いっくん、いらっしゃい!」
菜月は家に帰る――流石に今日は大通りを通って――と着替えを済ませ、インターホンが鳴るのを今か今かと待ち望んでいた。そんな娘を見る母親は酷く冷静である。当然だ、いつものことなのだから。
そしてとうとう、待ちに待ったインターホンが鳴ると菜月は急いで玄関へ向かい目的の人物を迎えた。玄関の扉の先にいたのは、菜月よりも年上の眼鏡を掛けた長身の男である。
「邪魔する。……なつ、お前宿題少しは自分でやったのか?」
「ちょ、ちょっと?」
「……ちょっとも、やってないんだな」
はあ、と彼女に見せつけるかのように大きくため息を吐いたその男は、相馬恭一郎という。菜月の家の近所に住む大学生で、元々親同士が知り合いだったこともあり菜月がまだ赤ん坊の頃に相馬家がこの町に引っ越してきた。彼の両親が多忙で殆ど家を空けていた為、恭一郎は子供時代の殆どを音羽家で過ごしており、菜月もよく面倒を見てもらって来たのだ。
流石に大学生になった今、以前よりもずっとこの家に来る機会は減ったのだが、こうして菜月に勉強を教える為に今も時々訪れている。
「恭一郎君、先にご飯食べなさいね」
「ありがとうございます」
そして彼が勉強を教える日は大抵夕飯を音羽家で食べることになっている。家庭教師の報酬のようなものである。
「今日はグラタンだよ! 早く手洗って」
「少し落ち着け」
はしゃいでしまうのは仕方がないことだ、と菜月自身もう諦めている。何せ彼女は物心ついた時からずっと恭一郎に片思いをしているのだ。
今日はまだ父親が帰って来ていないので食卓を囲むのは三人。食事中に騒ぐと怒られるのでこの時ばかりは菜月も見た目通りの大人しさだ。それでも終始和やかな雰囲気で会話が続き、その場にいる誰もが楽しんでいるように感じる。
しかしそれが間違いであるということに菜月は気付いていた。
彼女はちらりと恭一郎の横顔を窺う。昨晩のテレビの話をする母親に相槌を打ちながらマカロニを口に運ぶ様子はなんてことのない日常の光景だ。しかしふっと会話が切れると、彼は良く観察しなければ分からないくらいの一瞬、酷く冷めた表情を浮かべた。
ああ、まただ。と彼女は気付かれないように息を吐く。
今日だけのことではない。菜月と二人の時はそんなことはないが、こうして家族で食卓を囲む時、彼は決まってそんな表情を浮かべる。いつからそうだったのかは分からないが、その眼鏡の奥の温度が下がるのを見る度に彼女は胸が痛くなる。
「ねえ、おばさん達、次はいつ帰って来るの?」
夕食、そして食後のケーキを食べた後、菜月はリビングで勉強を見てもらいながら隣にいる恭一郎にそう問いかけた。家族団欒の場で彼があんな顔をするのは、自分の両親と比較しているのではないかと思ったのだ。
「……というか、今どこにいるの?」
「さあ。この前はシンガポールだったかな。今は知らないし、帰って来る予定もしばらく無いんじゃないか? 急にどうした」
「別にー」
恭一郎の両親は仕事人間だ。菜月だって彼らを見たのは片手で数えられるくらいの数しかなく、相馬家がこの町に引っ越してきたのだって恭一郎の世話を音羽家に頼む為だったと言っても過言ではない。実際に、ずっと彼らは恭一郎に見向きもせずに海外を飛び回っているのだから。
「いっくん寂しくないの?」
「今更だろう。何年会ってないと思っているんだ」
「そうだけど……」
「いいから早く問題を解け。無駄口を叩く暇がある程余裕なら俺は帰るからな」
「解きます、解くから!」
恭一郎の言葉に、彼女は慌ててシャーペンを握り直して問題集へと目を向ける。……向けるが、うんうんと唸り声が増えただけで一向にノートに数字が書かれることはない。
ちらりと問題集から視線を横に移すと、案の定恭一郎はとてつもなく呆れた表情を全面に押し出していた。
「……なつ」
「ご、ごめんなさい」
「こんな調子でよく入学出来たな。どうせ毎日居残りでもさせられてるんだろ」
「毎日、ではないけど……」
「やっぱり」
確かに昨日は居残りだったけど……とそこまで考えた所で、彼女の脳裏に不意に赤く燃え上がる炎が蘇った。そう、居残りさえしていなければあの変な化け物に追われることもなかったし、あの炎を見ることもなかったのだ。
「……」
「なつ?」
「え?」
「どうした、顔色が良くないが」
あの時のことを考えていたからだろうか、彼女自身は気が付かなかったが恭一郎は怪訝そうに菜月の顔を覗きこむと、僅かに青ざめた頬に触れる。
「い、いいいいっくん!?」
「……良くなったみたいだな」
触れられた所為で急激に顔が熱くなり赤みが戻ったのだろう、慌てる菜月を尻目に恭一郎は何事もなかったかのように手を放すと「元気になったんならさっさと終わらせるぞ」と先ほど彼女太刀打ちできなかった問題の解説を淡々と始めた。
そんな彼に不満げなのは勿論菜月だ。彼はいつもこうなのである。彼女は思ったことがそのまま顔に出る性分である為誰が見ても菜月の気持ちはばればれであるのに、恭一郎はそんな彼女を相手にしない。
これまでにも何度か好きだと勇気を出して告げたことさえあったのに、その時ですら彼は「知ってる」という一言で流した。
女として見られていないのかもと落ち込んだこともあったが、しかし長年の片思いがそう簡単に諦められるはずもなく、結局今の今まで菜月は彼女なりに必死にアタックしてきたのである。結果はともかく。
結局、宿題は終わったものの殆ど答えを聞くだけの状態であった。菜月はそれでもあまり反省はしていないものの、恭一郎にしても「いつものこと」と既に半ば諦めている。
どんなに理解できなくても粘り強く根気よく教えてくれる彼に菜月は申し訳なく思いながらも、嬉しかった。大学にバイトにと忙しい彼が自分の為に時間を作って一緒に居てくれるのが、本当に嬉しかったのだ。
玄関まで見送ろうと然程長くもない廊下を二人で歩いていると、恭一郎といることで浮かれて注意力が散漫になっていた菜月の足に何かが当たった。それは母親が通販で購入した掃除機の段ボールで、完全に気の抜けていた彼女は思い切り段ボールの隅に足をぶつけ、そして痛みによろめいた。
「おっと、大丈夫か」
「う、うん」
ぐらりと傾いた彼女の体を軽く受け止めた恭一郎はそう声を掛け、しかし次の瞬間、顔を見ていなかった彼女は知らなかったが、彼は表情を酷く強張らせていた。
「なつ、お前……」
「ん?」
「……太ったか」
「いっくんの馬鹿!」
ケーキは止めておけばよかったと心底後悔した。
次の日曜日、菜月はどこへ出掛けることもなく自宅でのんびりと過ごしていた。
「ひまー」
「そんなに暇なら宿題でもしたら? あんまり恭一郎君を困らせたら駄目よ」
菜月がソファに寝転がってそんなことを呟けば、買い物から帰ってきた母親が通りすがりにそう言い残す。
とはいえ、暇だから宿題をするということが出来ていれば彼女は居残りなどさせられていない。いつもぎりぎりになってようやく手を付けるものの、しかし最後までは終わらないのだ。
恭一郎の家に行っても日曜日は彼が居ないことを知っているので体は動かない。彼は税理士事務所でバイトをしていて、夜遅くまで仕事をしているのか日曜日に会った試しがなかった。会計事務をこなし数字に強い恭一郎は勿論数学も得意中の得意で、菜月が最も苦手にしている教科を教えるのに最適であった。というよりも菜月が宿題を放り投げる教科は数学だけである。
頑張ったらいっくんも驚いてくれるかなあ、と思いながらも菜月が手に持っているのは教科書でもプリントでもシャーペンでもなく、携帯である。
雅は暇かな、とメールを送りつつテレビを見ていると数分後には色よい返事が来たので、菜月はいそいそと外出する準備を始めた。
「雅、お待たせ! 急にごめんね」
「こっちも暇だったから大丈夫だよ」
菜月が待ち合わせ場所の駅に到着すると、雅は既にのんびりと携帯をいじっていた。
それから映画を見てカフェでおしゃべりに興じていれば、あっという間に時間は過ぎていく。映画の話も終え、雅がバイト先の愚痴を言い始めた頃には日が傾き始めていた。
「それでさー、そこの先輩がすっごい嫌味なの! ちょっと年上だからってねちねち煩くて。空もよく酷いこと言われてるし」
「そういえば高遠君と同じバイトなんだっけ」
菜月がそう尋ねると、興奮気味に話していた雅は力一杯頷く。雅と空はそもそもバイトで最初に知り合ったのが最初であるらしい。
あれから更に数日たったものの、菜月は未だに空を時折観察している。しかし彼は以前とまったく変わった様子もないし、いつも通りクラスメイトと楽しそうに笑い、そして雅と痴話喧嘩を繰り広げている。
「他の人はその先輩に注意したりしないの?」
「何度も言ってるんだけど『あいつはしょうがないなあ』で済ませちゃうの! 頼りにならないんだから……あ、携帯」
白熱していた雅の勢いを止めたのは彼女の携帯の着信音だ。相手ごとに音を変えているのか、雅は画面を確認するまでもなく眉を顰め「はあ……ちょっとごめん、バイト先から」と席を立って菜月から離れた。
菜月は暫し電話をする彼女の後ろ姿を眺めていたが、やがて不機嫌そうな顔で雅が戻って来るのを視界に捉えると、またか、と小さく息を吐いた。
「ごめん……ちょっと行かなきゃいけなくて」
「ううん。もう夕方だし、突然呼び出したのに付き合ってくれてありがとう」
「本当にごめん! 今度何か埋め合わせするから!」
それじゃ、と早口でそれだけ言った後、雅は荷物を持って走り去って行った。この店の会計は注文時に払うタイプなので大丈夫だが、例えそうでなくても支払いを忘れてしまっていそうなほど、彼女は急いでいた。
雅が遊んでいる途中や学校帰りに急にバイト先に呼び出されるのは珍しいことではない。しかしこんなに何度も呼び出されるバイトなんて何で続けているんだろうと菜月は常々疑問だったが、多分それは空が居るからなんだろうな、と一人で納得した。
のんびりとアイスティーを飲み干した後菜月は店を出る。夏が近いとはいえ夕日もそろそろ沈みそうになっている。この前のことを思い出し、彼女は足を速めて帰路を進んでいた。
しかしふと、大通りを歩く彼女の視線が路地に向く。あの恐ろしさを忘れるはずがない、路地なんて一生入ってやるものかとすら思っていた彼女がそちらに視線を向けたのは、見慣れた人物が世にも恐ろしいその路地へと足を踏み入れようとしていたからだ。
「雅と、高遠君?」
先ほど別れたばかりの雅と、そして彼女と一緒に居る空が酷く真剣な表情で狭い道へと姿を消していったのだった。