1-4 失いたくない
「ねえ、またあいつ調子に乗ってるよ」
「先生に媚売ってホントに最低だよね」
「何で辞めないんだろ。部活の空気悪くしてるの分からないのかな」
「……」
部室で着替えをしている時に耳に入って来た言葉に、雅は胸が嫌な痛みを覚えるのを感じながら俯いた。
中学時代、雅は剣道部に所属していた。小学生の頃から続けて来た剣道が彼女は大好きで、小学校には剣道部が無かったのでずっとこの部活に入るのを心待ちにしていた。
だがしかし現実は残酷だった。楽しみにしていた部活の時間は彼女にとって苦痛そのもので、いつだって逃げ出したくて堪らないものになってしまった。入部する前から剣道を続けており、更に運動神経も抜群に良かった彼女は一年で唯一試合に出る選手に選ばれるようになり、それをきっかけに上級生からいじめを受けていたのだ。選手になるどころか上級生まで打ち負かす雅に二、三年生はこぞって彼女の悪口を聞こえるように話し、同級生も彼女に関わらないように遠巻きに見ていた。
雅はその現状をどうすることも出来ず、部活の時間はずっと俯いて耐え続けていた。雅に聞かせるように大声で話される悪口は、しかし「あいつ」「あれ」などのなどの言葉を使い決して雅の名前が口に出されることはなかった。だからこそ彼女が一度言い返した時も「はあ? あんたのことなんて話してないんだけど」「うわ自意識過剰」などと言われて取りつく島もなかった。
そんな状況を知っているか知らないのか――恐らく把握していただろう顧問は何も言うことなく、ただ雅に試合で勝つことだけを要求して来る。そして当然のように彼女が選手に選ばれて更に反感を買うという悪循環が出来上がっていた。
苦しくて苦しくて何度も辞めようと思ったが、しかし部活を休めば同じように悪口を言われ、辞めようとしても何かと理由を付けて顧問に辞めさせてもらえない。当時の彼女はいつ爆発しても可笑しくない状態だった。
「ねえ、確か同じクラスだったよね? 私も剣道部に入ったんだ、よろしくね!」
誰も雅に話し掛けることの無い部活中に、そんな声が聞こえて来たのは二年に上がってすぐのことだった。
「……え?」
「名前教えてくれる? 私は新見菫。知ってると思うけど今年から編入して来たんだ」
「く、日下部雅……」
「雅ね? ああごめん、馴れ馴れしかったかな。私のことは菫でいいからね」
始業式の日に雅と同じクラスに編入して来た彼女は、孤立している雅にまったく気付いた様子もなく明るく笑い掛けて来た。それが雅と菫の出会いだった。
その時は雅も少し嬉しく思ったが、けれど同じ部活に入ってしまえば彼女がいずれ自分と距離を置くことは分かっていた雅は、出来るだけ菫と接触することを避けた。仲良くなったと思い込んで裏で悪口を言われる方がずっと怖かったから。
それなのに菫は雅の意図を解することなく楽しげに話し掛けて来る。部活内で雅が苛められていることなどすぐに分かることなのに、それでも菫は彼女に接近することを止めなかったのだ。
「新見さん」
「菫でいいって言ったでしょ?」
「新見さん、分かってるでしょ。私に話し掛けない方がいいよ」
「何で? 私は雅と話したいんだもん。ねえ、何でそんなに剣道強いの? 私も結構自信あったのに、あっという間に負けちゃってすごかったよ」
「……」
今はまだ菫は孤立していないが、それでも他の同級生が雅を避けるように、先輩に目を付けられない様にと忠告しているのを彼女は知っていた。それに対して菫が何と言っているかまでは雅も知らないが、その忠告が無駄になっていることは明らかだった。
そしてその日もいつもと同じように部活が終わり、部員が制服へ着替えていた。少し違っていたのは、いじめを主導していた三年生が居なくなって少し落ち着いていた雅への悪口がこの日はとても酷かったということだ。その日はちょうど新年度になってから初めての試合の選手が発表された日だったということもあるだろう。あからさまに雅のことを当てこする先輩達に、とうとう爆発してしまったのだ。
雅ではない。菫が、である。
「先輩、いい加減にしてください! そんな風に雅を貶めて恥ずかしいとは思わないんですか!」
「はあ? 何言って……大体日下部のことなんて誰もしゃべってなんか」
「分からないとでも思っているんですか!? 自分の実力の無さを人の所為にして、ましてや全く謂れのないことで悪く言うなんて最低です! あなた達が先輩なんて思いたくもない!」
「に、新見さん!」
「雅、早く帰ろう!」
突然先輩達に向かって怒鳴り始めた菫に雅は慌てて制止しようとしたが、逆に菫に腕を掴まれて部室の外へ連れて行かれてしまった。酷く憤っている菫はそのままずんずんと大きな足音を立てて早足で歩いていたものの、学校の敷地内を出た所でようやく我に返り「ああああ、やってしまった!」と頭を抱える。
「あの、新見さん……」
「ごめんね雅! 私の勝手なお節介で余計に部活に居辛くさせちゃった……本当にごめん。でも、どうしても我慢できなくて……」
正義感は振り回せばいいというものではない。場合によっては更に火に油を注いで事態が拗れることもある。
今回の場合、被害が増えるのは雅だけではない。あれだけ真正面から上級生に刃向かった菫もきっと孤立してしまう。
「私はいい。でも今度は新見さんがいじめられたら」
「それは大丈夫、私結構図太いし……それにそうやって私のこと心配してくれる子もいる訳だしね?」
からっと笑った菫に先ほどまでの怒りの表情はない。
確かに菫のやったことは雅の現状を変えるどころか酷くする可能性しかないのだろう。現状は変わらない、それでも雅の心が彼女の行動によって救われたのも、また確かなことだった。
「ありがとう……菫」
目を開けた雅の視界に飛び込んできたのは薄暗い天井だった。まったく見覚えがないとは言わない、しかし見慣れたものではない天井は起き上がって周囲を見渡すことでどの部屋のものなのか把握することが出来た。
雅が眠っていたのは事務所の一室、主に八雲が寝泊まりする時に使用している仮眠室だった。彼女も何度か借りたことがあるその部屋をぼうっと眺め、そして少しずつ覚醒していく思考を巡らせて状況を徐々に思い出す。
菫が死んだと、そしてそれが怪異の仕業だと知った雅は一目散に志野山高校へ向かおうとして、しかしその前に空に止められた。今でもすぐに向かいたいという気持ちは残っているものの、けれど冷静になれない状態で1人飛び出した所で返り討ちに遭うだろうということも理解してしまっていた。
今は何時だろう、と雅が壁時計を確認すると、薄暗い中動いている時計が七時を指している。随分眠ってしまったように感じる頭が恐らく朝の七時なのだろうと結論を出した。
「雅? 起きたのか?」
彼女が立ち上がる拍子に音を立てたからか、扉の向こうからそんな誰かの声が聞こえて来た。雅はその声に驚いて一瞬体を跳ね上がらせ、扉に向かおうとした動きを止める。
「……空?」
「入っていいか?」
「ごめん、今は」
眠っている間も泣いていたのか目が痛い。きっと顔も酷いことになっているだろうと彼の言葉を断った雅はどうしていいか分からずにベッドから起き上がった状態で立ち往生していた。
「そうか」
淡々と短く返事をした空はそれから何も口にしなかった。自分で彼を拒んだ癖にあっさりと見捨てられたような気分になった雅が再び泣きそうになっていると、がたん、と不意に扉に何かが当たったような音が聞こえた。
一瞬扉が開けられたのかと思ったが違う。扉は依然と動く気配はなく、そして空が立ち去ったような音もしない。
「……空?」
「何だ?」
扉のすぐ近くで聞こえた声に、雅は彼が扉の前で座り込んだのだと理解した。まだ顔を合わせられなくて、けれど傍に居て欲しいと我が儘なことを思ってしまった彼女は釣られるようにふらふらと扉の前にしゃがみ込み、そして扉に背を向けるように座り込んだ。
ちょうど扉越しに背中合わせになった二人はしばらくそのまま黙り込み、暫しの時間を置いて雅が口を開いた。
「あのね、空。菫は私の友達だったの」
「ああ」
「大切な、大切な子だったの。……助けて、もらったの」
あれからいじめが無くなった訳じゃない。先輩が引退するまでそれは続き、辛い日々だった。けれど雅の隣には菫が居て、いつも彼女は笑っていた。そして彼女に影響されるように、先輩の居ない場所では少しずつ雅に歩み寄ってくれる同級生も居た。
いつの間にか、雅も少しずつ笑えるようになっていた。
「だけど、助けられなかったの」
「……ああ」
五樹は複数の怪異に食べられたと言っていた。想像も出来ないくらい怖かっただろう、痛かっただろう。雅は手を強く握り締める。自分は彼女に守られたのに彼女を守れなかったのだと。
二度とこんなことを繰り返す訳にはいかない。
「もう誰も失いたくない」
「……俺もだ。だから、俺“達”で怪異を倒す」
「うん」
異能者だけではない、この町に暮らす人達を守る為にこの事務所は存在する。もう誰にも、彼女と同じ思いをさせない為に。
雅は立ち上がって一度大きく拭うように腕で顔を擦ると、ゆっくりと扉を開けて空と対面した。無言で彼女を見上げた空も立ち上がり、そして雅の手を掴んでいつも彼らが集まる事務所の仕事部屋へと足を進めた。
「……お、起きたか」
扉を開けた先で二人を待っていたのは、仕事机に座って大きく欠伸をする八雲とその隣に立つ五樹。そしてソファで眠る菜月と、同じソファで新聞を読む恭一郎だった。
「え、皆……」
「昨日は皆日下部さんを心配してここに泊まっていたんだよ」
「先輩も?」
「……俺はこいつが残ると聞かなかったから仕方なく、だ。お前がいつ起きてもいいようにとか言ってずっと起きて待ってるつもりだったからな。まあ四時頃に限界が来て寝たが」
「で、それを知ってる恭一郎は一体いつまで起きてたんだろうなあ?」
「……」
八雲の突っ込みに恭一郎は黙り込みそのまま再び新聞を読み始めた。どうやら彼は徹夜していたようだ。机には空になったコーヒーカップが置かれたままになっている。
「ま、恭一郎も眠った菜月ちゃんの代わりになって起きてた訳だ」
「……すみません」
「俺は書類を片付けるついでになつの代わりになってただけだ。何か言いたいことがあるならこいつに言え。……まあ当分起きないだろうがな」
恭一郎に額を撫でられても微動だにせずぐっすりと深い眠りに落ちている菜月を覗き込んで雅はくすりと笑う。
雅を心配そうに見る五樹も、眠そうに目を擦る八雲も、小さく寝息を立てる菜月も、目の疲れを取るように目頭を押さえている恭一郎も、そしてしっかりと彼女の手を掴む空も。皆雅の大切な人だ。八雲がいくら余計なことを言おうが、恭一郎に嫌味を言われようが、雅が真っ直ぐ向き合える貴重な人達だ。
もう誰も失いたくない。全員を見回すように視線を送った雅は空の手を強く握り返しながら改めてそう心に刻み込んだ。




