三題噺「寺・万年筆・モノローグ」
『大きくなったら、何になりたい?』
誰もが一度は尋ねられるであろう、その問いかけへの返答の種類は星の数ほどある。いや、もっと多いかもしれない。
そしてここにも一人。その"星"の一つを追いかける少女がいた。
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『大きくなったら、何になりたい?』
小さい子に聞くと、ほとんどの子がためらいもせずに、思い思いの夢を大っきな声で口にする。
それでいて体が大きくなると、声は小さくなるどころか『わからない』『まだ考えてる』といったお茶を濁すような言葉を返すようになるのだから不思議なものだ。
冗談じゃない!
自分の夢は自分だけのもの。自分が諦めたらそこで未来に輝いたかもしれない"星"は誰にも知られることなく消えてしまうのに。
あたしは絶対に諦めたりしない。今日まで夢を見て生きてきた自分の人生を、寂しく見返されるだけの、思い出の中の一コマにはしたくない!
「お見事。気持ちのこもった力強い独白じゃった」
懐かしい、老人の声にはっとして振り返る。しまった、途中から声に出てしまっていたか――もしかしたら最初からなのかもしれない。いや、それよりも気になることが。
「お久しぶりです、和尚さん。わたしの演技を褒めてくれるのは昔から和尚さんだけです」
「久しぶりじゃの。それはお前さんが人前で演技をしないからであろうに、それともまだ人前に出るのは苦手かな?」
友人の誰よりも付き合いの長いこの老人には全ておみとおしのようだ。
「恥ずかしながら。学校の授業で指名されただけであがってしまうのに、お芝居なんてもってのほかなんです」
わたしの夢は役者さんになることだ。
小学校にあがるよりも前であるが、父が仕事の同僚からお芝居のチケットをもらったので連れられて見に行った。そこで見た主役の女性があまりにもかっこよく、美しく、それでいてかわいく感じられたわたしは、まさに恋に落ちたと言っても過言ではない。
その当時、仲がよかった友人には男女問わずお芝居を観よう、しようと声をかけまくった。ごっこ遊びの延長みたいなものだし、よく一緒になって遊んでいたことを憶えている。
そんなとき、事件は起こった。
小学校二年生のとき、学芸会でのことだ。わたしのお芝居好きは皆に広く知られていたし、クラスで劇の出し物をすることになったときも主役に当たり前のように推薦され、わたし自身もそれを予見していたし、二つ返事で承諾した。
問題はそのあとだ。
本番になって、舞台に立ったわたしの目に映ったのは、見渡す限りの人、人、人。公立の小学校だし規模も小さかったため、冷静に考えればせいぜい六百人にも満たないと頭では分かっているのだが、今でも大勢の前に立つと頭が真っ白になる。そして、その光景にわたしは足がすくみ、のどは震え、毎日10回ずつ読んで完璧に覚えていたセリフさえも頭から飛ばしてしまった。挙句、ひと言も発することなく過呼吸で倒れてしまい、同クラスのみんなに迷惑をかけてしまった上に、肝心なところで役に立たない己のメンタルをいやと言うほど思い知らされたわたしは、それ以降みんなの前でお芝居の話をしたり、演技をすることもなくなった、というわけだ。
眼前の和尚さんを除いて、だが。
「惜しいもんじゃ。あれほど明朗にお芝居の練習をしていた子が、まさかあがり症だとは夢にも思わなんだ」
「和尚さんも特別ですが、この場所も特別だったのかもしれません。ところで、どうして今になってこちらへ…?」
そう、どうしてここに和尚さんがいるのか。声をかけられてすぐに不思議に思った。
和尚と呼んではいるがそれは昔の話だ。わたしが今もなお夢を諦めきれず、かといってあがり症であるのはどうしようもないためもっぱらモノローグが半分以上をしめるのだが、ずっと練習場所として使わせてもらっているこのお寺。その管理者、和尚さんはわたしの演技を見続けている唯一の人だったのだが、五年前に体を壊してしまい入院することになってしまったのだ。さらに言えば退院したという話も聞かないため、まだ入院しているのではないだろうか。しかも今は夜だし、周りは田畑に囲まれているため、偶然通りがかるということもほとんどない。
「なに、ここのところ調子がよいのでな。今日一日外泊許可をもらってきただけのこと。会ってみてほしい人がいるんじゃが、不都合はないか?」
「わたしにですか?それは構いませんが、どうしてこの時間にここにいることが分かったのでしょうか。夜にここへくることはほとんどないのですが」
その問いかけに答えたのは若い男の声だった。
「それは本当に偶然ですよ。時間が遅くなったので、祖父が行ってみたい、と言わなければ帰っているところでした」
歳は二十代半ばくらいだろうか。和尚とは頭一つ身長が違うほど背が高いが、どことなく老人の面影を感じる。それに、先の発言。
「お孫さん、ですか?わたしよりはだいぶ歳上に見えますが」
「はい。和尚の孫です。二年前に大学を卒業しました。あなたのことは祖父がよく話しています」
どうやら血縁者で正しいらしい。目元がとてもそっくりだからそこは特に疑っていなかったのだが、なぜわたしに会わせようとしたのだろうかが腑に落ちない。いや、正直に言うと演劇絡みなのだろうということは察しがつくのだが、万が一違った場合に、舞い上がってしまったようで恥ずかしい目に遭うのは避けたい。そんなことを考えながら、わたしは和尚さんに疑問の目を向けた。
「余計なおせっかいかもしれんが、演劇についてじゃ。そこの孫が昨年、新しく劇団を立ち上げての。ワシがお前さんのことを話したら、ぜひとも勧誘したいと言うので、こうして会いにきたというわけだ」
「祖父さん、気が早いよ。まだ学生さんなんだから会って話をしてみたいと思っただけさ」
青年が笑って言う。
「でも、そうですね。お話をしてすぐに勧誘、というのは性急すぎるので、もしよろしければ見学にでもきていただけないだろうか、とは思っていました」
「いや、でも、わたしは」
ひどいあがり症で人前に立つことができないんです。そう言いかけたわたしの声を遮るように、彼が問いかける。
「大きくなったら、何になりたい?」
「っ!!」
なぜ、即答できなかったのか。その理由がわからず、必死に考えを巡らせる。否、わからないはずがない。
小さい頃に抱いた夢を、成長して現実が見えるにつれてごまかすようになる。そんな人たちを『そうはありたくない』と遠ざけていた。
けれどそれは、自分の心に宿る不安と、決して目を合わせないようにとわたし自身をごまかしていたのだ。
わたし自身、心のどこかで夢を信じられなくなっていただなんて!
動揺するわたしに、引き続き問いかけを続ける。
「じゃあ、お芝居は好きですか?」
「それは、もちろん」
これだけは自信を持って言える。わたしはお芝居が好きだ。
衣装を変えるとどんな人物にもなれる。全身で感情を表現する役者さんを見ていると、同じように嬉しくなったり、悲しくなったりできる。ひとの心を動かす、という口にするよりもずっと難しいことをやってのける!
「では、もう一度聞きます。あなたは何になりたいですか?」
「わたしは…」
そうだ。ずっと、かつてのわたしがそうさせられたように、自分の演技で観る人に感動を与えたい。それが、わたしの夢の原点であり、原動力そのものになっている。それは、学芸会で醜態をさらしてからも、変わってはいない。でも…。
黙っている間、青年も和尚も、わたしに答えを促すことなく、静かに待っていた。
二、三分の後。
風が、さあっと吹き抜けていった。まるで、背中を押されたような気がして。
「わたしは…役者になりたい、です」
そう、告げた。
「その気持ちだけで、十分です」
青年が嬉しそうに笑って言う。
「夢を口に出すということは、並大抵な思いでできることではありません。あなたの中のほんものを、大事にしてあげてください」
「はい。…ぜひ、見学にも伺わせてください」
「ええ。きっと皆さん、歓迎してくれると思います」
和尚さんにも、お礼を言わなくては。
「ありがとうございます、和尚さん。道を示してくれて」
「気にするでない。わしもお前さんのことは気にかけておったのだ。それに、大変なのはこれからじゃろう?」
「そうですね、でも…」
ひと呼吸。
「想像もできないくらい充実した毎日が、これから待っていると思うんです!」
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もう遅いので家の近くまで送る、という青年の申し出をありがたく受けることにしたわたしは、三人で歩いていた。
「そうじゃ、忘れておった!」
パン、と手を打つ和尚さん。
「若者の門出じゃ。お前さんに餞として渡すものがある。受け取りなさい」
長さは手のひらよりも少し長く、幅と厚さは握る手が一周するくらいの小包。目で促されさっそく開けてみた。
「わ、ありがとうございます。これは…」
…万年筆?
青年が呆れとも苦笑とも取れない顔をして言う。
「祖父さん…高校生の女の子に万年筆渡したってすぐには使わないと思うよ…」
「なに?そうなのか!?」
自信満々に差し出した品にツッコミを入れられ慌てる和尚さん。
そんなやりとりに、わたしもつられて笑う。
空を見上げると、とてもたくさんの星がそこにある。
いつか、あの星に届くように。
いつか、あの星になれるように。
こころに地図を持ち、あらんかぎり手を伸ばす。
彼女がゆく道筋は。そして、その果ては―――まだ、誰も知らない。