第44話
一度は訪れたことのあるその部屋を、私は初めて訪れた場所のように感じたのは、前回の訪問であまりに余裕がなかったからだろう。
二人で座るには大きすぎるソファに促され腰を下ろすと、その正面にあるこれまた大きすぎる一人掛けソファに王妃は腰掛けた。
王妃付きの侍女は、茶を出すと速やかに部屋を辞した。私が手土産として持って来たマドレーヌがテーブルの上に出されている。
重苦しい沈黙が場を包み、茶で喉を潤すことすら憚れる。
ジェラールも王妃も口を開こうとしない。何をどう切り出せばいいのか考えあぐねているのだろう。
今日は傍観者と決めてきた私が、口を開くのもどうかと思われるが、誰かが何かを口に出さなければ何も始まらない気がした。
「え〜と? その後、王さまとは上手くいっていますか?」
話を振られて助かったと言いたげに、口が綻んだ。
「その話をされるのはあまり好きではないけれど……、滞りなく上手くいっているわ。あなたに教えて貰うまで本当に気付きもしなかった。今思えばとても簡単なことだったというのにね。……ジェラール。本当なら私があなたに会いに行くべきだった。もっと早くに。来てくれて嬉しいわ」
私に向けた言葉はとても自然であるのに、ジェラールへと向けられた言葉は驚くほどにぎこちない。王妃もまた緊張していることが窺える。
「いえ、俺はきちんと話をしたかったから」
ジェラールの方もぎこちない。まるで面接官と対峙しているようにも見えなくもない。
「謝りたかったの。あなたを陥れようと躍起になって、ひどい仕打ちをして傷付けてしまったこと。本当にごめんなさい」
別人のように頭まで下げる王妃を、ジェラールは茫然と見ていた。
私自身もここまであっさり王妃が頭を下げるとは思わなかったので、面食らっていた。そして、王を見直したのもこの時だった。案外やるじゃんと。
「俺はあかりが現われなければあなたを心底恨んでいただろうと思う。愛情を与えられず、駒として役立たないと分かると魔力を奪われ、部屋から外に出ることも出来ない毎日。あの頃、あなただけじゃなく神さえも憎いと思い始めていた。あかりが闇に呑まれかけていた俺に灯りを照らしてくれた。もう、あなたを恨まない。憎めない。もう、醜い争いは終わりました。それでいい」
初めて会った時のジェラールの姿を思い出していた。真っ暗闇の中、お化けと見間違えたほどに生気のない瞳をしていた。希望が窺えず、ただひたすら時が過ぎるのを待っているように見えた。生きながらにして、死んでいるようだった。その幼い子供の姿はもうない。
先ほどまでガチガチに緊張していたのが嘘のように、しっかりとした眼差しを王妃にぶつけ、強い声音で語った。
成長した我が子を見守るような気持ちでもあり、大好きな人の力強い姿に惚れ直したような気持ちでもあり、私の心中は複雑なものだった。
私は贅沢者なのかもしれない。普通、大好きな人の幼い頃の姿を拝める人はいない。アルバムの中の愛しい人の幼い姿に想い出話を聞きながら、想いを馳せるものなのだ。私は幼いジェラールを見て、触って、語らって、お世話をした。短い期間ではあっても、それはとても贅沢なものだったのだ。
王妃は立ち上がると、ジェラールの前まで歩み寄り、戸惑いがちに抱きよせた。
幼い頃に何度も体験した母の抱擁。だが、ジェラールにとって母の抱擁は、これが初めてのことだった。
「ごめんなさい。……ありがとう、ジェラール。愚かな母を許してちょうだい。これからはいい母であるように努めるわ」
「俺のことはいいよ。今更なんだか照れ臭いし。俺よりもいつか産まれてくる俺とあかりの子供に愛を与えてよ」
「あらっ。もうお腹の中に赤ちゃんがっ?」
「いえいえいえいえ、まだいませんからっ」
私に矛先を向け抱き付いて来ようとする王妃を寸でで止めた。
「いつかってことだよ。俺とあかりの可愛い赤ちゃんは、みんなに愛を貰って幸せになって欲しい」
ジェラールが言った。
私は首を傾げた。ジェラールは、私と兄ちゃんを連れて日本に行こうとしていたんじゃなかっただろうか。この発言では、赤ちゃんが産まれてもここに留まることを考えているように聞こえる。それとも、ジェラールの魔力をもってすれば、日本とここの行き来も可能だということだろうか。
「そう。楽しみねぇ。二人の子ならさぞや可愛いでしょうに」
残念そうに私のお腹を名残惜しげに見やる王妃に、苦笑を浮かべることしか出来なかった。
やっと全てが丸く治まった。
ジェラールの心配ごとはすべて払拭されたと考えていいだろう。あと残されているのは、日本に帰るということだけだ。
だが、ジェラールは何も言わない。そのことについて何も触れない。私からその話を振ることもなんだか出来なかった。話を振ることですぐに日本に発とうと言われるのが怖いからだ。
私は、この世界で一生を遂げたいと思っていた。
「なぁ、お前ら向こうに行くのか?」
一人でぶらりと散歩していると、いつの間に来たのかエロイが隣りを歩いていた。
「うん、多分ね。いつかは分からないけど」
「行かなきゃいいじゃねぇか。お前そんなに乗り気じゃないみたいだし」
「私はジェラと一緒にいたいの。ジェラと一緒ならどこでも幸せ」
これは本当だ。この世界でなくても、ジェラが一緒なら幸せにはなれるだろう。それでも、ここにいたいと願うのは、ジェラも幸せになるにはここにいることが望ましいと思うからだ。そして、ここの人たちが私は大好きだ。ここでなら大勢の家族が出来る。子供が産まれても寂しい想いをさせることはないだろう。
「お前はいつも、俺じゃない誰かのことばかり考えてんだな」
「えっ、そりゃそうだよ。だって恋人だもん。何? 私が羨ましいの? だったらあんたも好きな人つくりなさい。あれ、好きな人いるって言ってたっけ?」
「お前って結構残酷だよな。俺の気持ちなんか少しも気付いてないんだな。俺はなっ、お前が好きなんだよっ」
「へ?」
大声で投げつけられた言葉は、私の予想の範疇を超えていた。
いつも私とジェラールの周りをうろちょろしていたのは、暇だからじゃなく、私を好きだったからだと言いたいのか?
「ちょっと待ってよ。そんなそぶり一度もされた覚えはないし? そもそもいつから?」
「一目惚れだっ、悪いかよっ」
「何よそれ。だってエロイの態度っていつも酷かった。もしかして、小学生が好きな女の子にちょっかい出すあれなの?」
「お前がなに言ってるか、意味分かんないけど、とにかく俺はお前が好きなんだよっ」
「そっか、うん、ありがとう。気持ちは凄く嬉しかったよ。エロイがいたお陰で元気になれることもあったし、その赤い髪を撫でると癒された。私にとってエロイは弟みたいなものだった。私のこの気持ちはね、全てジェラールのものなんだ」
「知ってるに決まってるだろう、そんなこと。どれだけお前を見て来たと思ってるんだ。ごめん、なんていうなよ。俺が惨めになるだけだ」
顔を背けてそう言ったエロイに、私はなんて言えばいいんだろうか。
「俺の婚約者口説かないでよ、エロイ」
突然後ろから首に腕を回されパニックに落ちたが、すぐに頭上からジェラールの声が聞こえて、暴れるのを止めた。
「それから、俺達はここに残るから心配しなくていいよ」