第38話
メイヤが私の部屋を後にして、しばらくしてから私はいそいそとベッドから抜け出した。
メイヤには、ジェラールと私が恋人同士だと知られているわけだから、別にこそこそする必要はないのだけれど、やはり知られるのは恥ずかしい。
これからジェラールの部屋へ向かおうとしていた。
流石に夜着だけで外に出るのは抵抗があるので、肩にガウンをかけた。
私がノブに手をかけ自室の扉に出ようとした時、何者かに行く手を阻まれた。私は顔面をぶつけた先が人の胸であることに気付いた。そして、それが誰の胸であるのかも。だから私は慌てたのだ。嫌なことを思い出して、瞬時に身を退けた。だが、それを遮るように手を取られ、引き戻された。
「ジェ……」
最後まで口を開くことを許されなかった。
「駄目ですよ、あかり。こんな時間に大きな声を出しては」
口を塞がれたまま、目だけを上げて声の主であるリオを睨み付けた。
「どうして私がここにいるのか不思議ですか?」
私がぶんぶんと頭を縦に振れば、優雅とも取れる笑顔を振りまきながらとんでもない台詞を吐いた。
「あなたを奪いに来たんです。ジェラールから、ね」
不穏な光がリオの瞳に見えて、私は身を捩って抵抗するが、男の力に叶うはずもなかった。
「私は今夜、あなたを犯します。ジェラールの手に完全に落ちる前に」
まるで今夜ジェラールとそうなるのを阻止するために現れたかのように感じた。
なんとか声を張り上げようとするが、リオの手はそれを完全に塞いでいた。
引き摺るように寝室に連れていかれ、乱暴にベッドに投げ出された。その隙を見てジェラールの名を口にしようとするが、それすらも許されず、唇で塞がれてしまった。
じたばたと手足を動かすが、リオの体は少しもぐらつくことはなかった。
「ん、イヤッ。ジェラ」
「そんな声でジェラールに届くと思いますか?」
蚊の鳴くような声しか出せない自分が情けなくて、悔しかった。こんな声じゃジェラールに声など届かないだろう。
「ど……して?」
「あなたがいけないんですよ? 私に気付かせてしまったんですから」
いったい何を?
恐怖のあまり声が上手く出せない。
「私の母上への愛が偽りだと気付かせてしまった。そして、私が求めているものが何かを同時に気付かせてしまったんですよ」
リオは饒舌だった。私の体をしっかりと固定して、私を見下ろしながらなおも語る。
「私が本当に欲しいのはあかり、あなたです。あなたを騙すために近付いた私が、あなたの魅力に惹かれてしまった。ミイラ取りがミイラになってしまったんですよ。可笑しいでしょう?」
リオの瞳には、ジェラールが私を見るときと同じような情欲が浮かんでいた。
今の私には、聞きたくない言葉だった。
「あなたが好きだ。愛している。あなたの心が手に入らないなら、この体に忘れられない傷をつける。そうすれば、ジェラールに抱かれる度にあなたは私を思い出す」
私は首を左右に振った。その振動で目尻にたまっていた涙が飛び散った。
「リオは、絶対に後悔する。私を傷付けたことで、自分自身を責めるようになる。リオが笑えなくなるのはイヤ」
擦れた弱々しい声しか出て来なかったが、一生懸命に伝えた。
確信があったから。そんなことをしたら、リオの心が壊れてしまうと。一時的な感情で自分自身を傷付けて欲しくない。
「あなたはいつもそうだ。自分のことより、人のことばかり案じてる。そんなことを言われて私が、止めると思っているんですか?」
「思ってる。思ってるよ、リオ。私が知ってるリオはいつも優しかったもの」
お願いだから、自分を落とさないで。あなたには、これから幸せな未来が待っているんだから。
「欲しい。あかりが欲しい。欲しいんだ」
心が痛んだ。その切実な想いに私は応えることが出来ないのだから。
「リオ。放して?」
「イヤだ。放さない。あかりは私のだ。私を愛してくれていたはずだ。もう一度私の元に戻って来てくれ」
駄々を捏ねる子供みたいに首を振るリオを妙に醒めた目で見ていた。落ち着いてリオを観察していた。
「恋人には戻れないのよ、リオ」
「イヤだ戻って来て……、母上」
最後の言葉に目を瞠った。
リオは私と亡くなった母親を重ねて見ているのだ。よく見れば、リオの目は虚ろだ。私を見ているようで見ていない。夢と現実の狭間にいるのだと思った。
「大丈夫よ、リオ。あなたは一人じゃないのだから」
混乱し始めたリオの頭を優しく撫でた。母が小さな子供にするように愛情をこめて。
その時、勢い込んでジェラールが部屋に入ってきて、私たちを見付けると固まった。
ああ、あの夢と酷似している。けれど、リオの状態が少し違っていた。
リオはあんなに大きな音がしていたのに、ジェラールが入室したのに気付いてさえいなかった。
「母上……」
うわごとのように呟くリオの様子を見て、ジェラールも首を傾げた。
ベッドに横になっている私たちを見て、飛び掛かろうとしていたジェラールは、動きを戸惑いながら止めた。
私は目でジェラールに語り掛けた。大丈夫だからと。
「リオ、あなたは一人じゃない。大丈夫、大丈夫よ」
拘束の手が放れ、リオが顔を覆って肩を震わせた。
体を起こした私は、リオを頭の上から覆いかぶさるように抱き締めて、背中を擦った。
「ごめんね、リオ。あなたを残して先に行ってしまって。でも、あなたを愛しているから。いつでも見守っているから。幸せになって」
リオが声を上げて泣き始めた。
リオはいつ泣いていたんだろうか。心細い夜、誰に甘えていたんだろうか。
私は、思う存分リオを泣かせた。溜め込んでいた分を全て吐き出させた。
やがてリオから寝息が聞こえ始めた頃、私は自分のベッドにリオを寝かせ、茫然と立ち尽くしているジェラールに歩み寄った。
「ジェラ。ありがとう」
「なんで、ありがとう?」
「耐えてくれたでしょう? 本当はリオを殴り倒したかったんでしょう?」
「今でも本当は殴りたい。でもあかりは止めるんだろう?」
私を分かってくれているジェラールに感謝した。
「リオに必要だったのは母の愛だったんだよ。これで前を向けるようになってくれるといいけど……」
「大丈夫だよ。俺だってリオのことは心配なんだ。父上だってきっとそう。リオを見捨てる人なんていないよ」
「うん。……ジェラ、残念だったね?」
「そうだね。でも、俺たちはこれからずっと一緒だから……ていうのは痩せ我慢。本音を言えば、今すぐ押し倒したい。無理だって分かってるよ、けど、キスは拒ませないよ」
抱き締められて、キスを受けた。リオに無理矢理されたキスが浄化されていくようだった。
今頃になって、恐怖が襲ってくる。涙がたらりと零れ落ちた。
私がリオにしたように、ジェラールは私の背をなぜ、大丈夫だ、と何度も囁いた。
ジェラールがいなければ、こんなに気丈には振る舞えなかった。ジェラールが見ていてくれていると分かっていたから、リオを抱き締めることが出来たのだ。
「ジェラ、好き。大好き」
何度も何度も口ずさむ私の言葉に、ジェラールはいちいち全部応えてくれていた。私もリオと同じようにジェラールの胸の中で泣き、泣き付かれてそのまま寝てしまったようだ。