第32話
私たちが警戒しているのを知ってか、王妃が不審な動きをすることはなかった。
毎日、平穏な日々を過ごしていると、ふと力が抜けてしまいそうになる。そういう時は、ハッとして気を引き締めるのだが、その日の私は本当に力が抜けていた。というのも、朝から少し熱っぽかったのだ。
昼の用意をするために立ち上がった私は、誰にも声をかけずに部屋を出てきてしまった。
いつもなら兄ちゃんが午前の訓練を終えて戻って来てから、二人で調理場に向かうのだ。この時間、メイヤは侍女としての仕事で部屋にはおらず、ジェラールはエロイと勉強をしていた。
熱で朦朧としていた私は、兄ちゃんを待たずに出て来てしまった。ジェラールかエロイが追って来ないのを見ると、二人は私の不在に気付いていないのだろう。
目前に男が立ちはだかった時、私は不味いと思ったが体は一つも動かすことが出来なかった。
目の前に霞がかかったようにぼんやりしているのは、男が何かをしたからか、それとも熱のせいか。
男の右手にはキラリと光る刃物――剣だろうか――が握られていた。
一歩一歩と歩くたびにその振動で矛先が揺れる。私はそれを不思議な気持ちで見ていた。
この男が私を殺す目的で近付いて来ているのは理解しているつもりでいた。だが、動かないのか動けないのか、私はただじっと男の動きを見ているだけなのだ。
男の顔が黒く見えるのは、マスクか何かで顔を隠しているからなのだろう。顔が見えないのに、その男が誰なのか私には分かった。
私は微笑んでいた。
久しぶりに会う男に笑いかけた。
一瞬、その男、リオが怯んだように見えた。
ああ、良かった。リオにはまだ心がある。
私はそう思った。
王妃は、自分への愛を証明するために私を殺して来いと命じたんだろうか。
その一瞬の迷いが、私への情がほんの少しでもあったということになるのではないか。
「私を殺したら、あなたはどうなる?」
心の声が口をついて出てしまった。私を殺したことで、リオの心が病んでしまわなければいい。
リオは完全に足を止めたが、口は開かず、ただ私を見ていた。
「あなたの心が傷付かないならいいの」
殺されてもいいなんて思っていない。ただ、傷付いて欲しくないだけ。
先ほどまで動けなかったのに、何故か足が動いた。先ほどまでとは逆だ。私が動くのを、リオがただただ見守っている。
「リオ……」
私は右の手でそっとリオのマスクを取り、頬をなぜた。
「放せっ」
リオが乱暴な言葉を使うのも、声を荒げるのも初めてのことだ。
「放したらリオは私を殺す?」
「放せと言ってる」
「私を殺してリオは満足できる?」
自分でもどうしてこんなことを聞いているのか不明だ。満足だから、リオはここに来たのだ。
「放せっ。黙れっ」
「ねぇ、答えられないからそんなに怒ってるの?」
リオは冷静な判断が出来ていない。私の手はほんの少し頬に触れているだけなのだ。一歩後ろに下がれば手は放れることに気付いていないのだ。
「迷いがあるなら止めたら?」
「黙れっ」
「可哀相なリオ。それが愛だと本当に信じてるの?」
私の意識が薄弱してきている。ちゃんと言葉が紡げているのかも、自信がない。もう、殆どうわごとのようなものだ。
「愛はそんなものじゃないよ?」
「……」
「リオ、お願いだから幸せになって……」
意識を保っていられるのは、これが限界だった。手がリオの頬からずり落ちていく。
足に力が入らず、たっていられなくなって崩おれた。
意識の遠ざかる狭間で、ジェラールの声が聞こえた。ホッとしたことでさらに力が抜けていく。
あの声は、大人版ジェラールの声だった。そして、咄嗟に私を抱き留めていたリオは、その声を聞いて逃げるように去っていった。
「リオには人は殺せないよ。私を殺すなら、人を雇うといい」
「君は馬鹿だ」
私もそう思うよ、リオ。裏切られたあなたを、助けたいと思ってしまうんだから……。
人の話す声で、私は目を覚ました。
左手が温かく感じ、動かすがぴくりとも動かなかった。
そちらに目を向けると、ジェラールが私の手をしっかり握ったまま、頭だけをベッドに預けて寝てしまっている。
「ジェラ」
意識を手放す前に聞いたジェラールの声は大人版のものだったが、今は子供の姿だった。
私は空いているほうの手でジェラールの頭を撫でた。
先日王の前で宣言したとおり、ジェラールが私を守ってくれたんだろう。大人版の姿で部屋の外を歩くのは、危険だというのに。
おそらく、リオにジェラールが大人の姿に戻れることを知られてしまった。それは、王妃にも知られたということなのだ。
「無茶してからに。おバカなんだから」
頭を軽く指で小突いた。
「痛いよ、あかり」
寝ているものだとばかり思っていたジェラールは、狸寝入りだったようだ。
「そんなに強くやってないでしょ? 無茶するジェラが悪いのよ。王妃に知られちゃったんじゃない?」
「そうかもしれないけど。それよりあかりの安全の方が優先だよ」
「あれっ。ジェラ、大きくなったよね? それに、言葉も……」
ジェラールの体はもう大人とたいして変わらない。推定14歳〜16歳くらいではないかと思われる。言葉に甘えた感じがなくなって、声も多少低くなっている。声変わりしたみたいだ。幼さと大人との微妙なラインにいる思春期の男の子だ。
「もう三歳のジェラじゃないんだ……」
「寂しい?」
「ううん。好きな人の子供の頃の姿まで見ることが出来て、その成長を目の当たりにする。それってお得じゃない?」
「え?」
「は?」
ジェラールの驚きの声に、自分が今した発言の重要性に気付いて驚愕する。
「え? あれ?」
「あかり、今のって……」
「あれ、待って。私、今何て言った?」
「俺のこと好きな人って、それってどういう意味?」
どういう意味ってこちらが聞きたい。私の発言を普通に聞けば、私はジェラールを恋愛対象として好きだと言っているように取れる。だが、私にその意識はまるでなかった。考えてもいなかったのだ。自然にぽろりと零れ落ちた言葉なのだ。
「私ってジェラが好きなの?」
「あかり、俺が聞いてるのに。どうして俺に聞くの? あかりは俺が好きなんだよ、って言えば好きになるの?」
「……なるかもしれない」
「じゃあ、言わない。それじゃ、俺が暗示をかけたみたいでイヤなんだ」
もう、今朝までのジェラールじゃない。まだまだ子供っぽさが残るけれど、一人の男と言ってもいい。
私はあの時、意識を失いかけて倒れた時、ジェラールの声を聞いてホッとした。誰の声よりもジェラールの声を望んでいたのだと痛いほどに感じていた。ホッとしたと同時に、涙が出そうなほどに切なかった。
ねぇ、いつから? いつから、私はジェラールが好きだったの?
そう考えてそれがあまりに馬鹿馬鹿しいことだと思った。いつからでもいい、私はジェラールを好きだったのだ。その事実の方が何よりも重大なのだ。
「……好き。私、ジェラのこといつの間に好きになってたみたい。今まで気付かないなんて……、私ってバカ?」
ジェラールに微笑みかけたその瞬間に涙がぽとりと零れ落ちた。
「俺は知ってたよ、あかりの気持ち」
「え? どうして?」
「俺の体がその証拠でしょ? あかりの気持ちが大きくなったから、俺の体も成長した。体の成長がこんなに嬉しかったことはないよ」
「どうして私より、ジェラの方が先に気付くのよっ。バカっ」
自分の知らない気持ちを知られていたことが恥ずかしくて、悪態を吐いて布団に潜り込んで隠れた。クスクスとジェラールの笑い声が聞こえて悔しさに涙が浮かぶ。




