第3話
ふぅぃ、すっきりすっきり。
と、トイレから戻ってきた私を再び出迎えた6人の視線は大方同じようなものだった。
女のくせにはしたない。
心の声が聞こえてきそうな軽蔑とも呆れとも取れる眼差しが否応なく注がれる。
「しょうがないでしょ? 出るもんは出るんだから。出すもん出さなきゃ病気になっちゃうでしょうがぁ」
え、そういう問題じゃない?
痛い。あからさまな軽蔑の鋭い視線が刺さる。
「女じゃないな」
私の中で確固たる地位を築き上げたこの男。
お前とは頼まれたって口きかねぇ。
憤慨していると、オジサンがじりじりとにじり寄って来ていた。獲物を狙う猛獣のように。じりじりと逃げるように等間隔を維持するよう努めた。
堪り兼ねたように走りだしたオジサンに恐怖をなし、私は涙目で逃げる。逃げるといってもあまり広い部屋でもなく、グルグルと同じところを回っているだけなのだが。
「無理ぃ。来ないでぇ、変態っ」
私がこれだけ騒いでいるというのに、傍観している残り5名に少なからずの殺意を抱いた。
私の危機を救ってくれたのは私の愛猿チェスだった。キーと一声鋭く喚くと、オジサンの顔にへばりつき、ガリガリと両前脚で爪をたてた。
5本の爪痕がバッテンの形で綺麗に描かれている。正直痛そうで見ていられないが、同時にざまあみろとも思っていた。
「取り敢えず、私どもと来ていただけますか、姫様」
眼鏡の冷徹長男が今繰り広げられた出来事などなかったかのように淡々と言葉を紡ぐ。
「だから、姫じゃないって。私は帰るって言ってるじゃ」
「いらしてください」
眼鏡の奥がキラリと光った気がした。途中でさえぎられた言葉が、口の中で消えていく。
この人に逆らうのは賢明じゃない。
私の中の直感がそう諭している。
「……ハイ」
チェスに引っ掻かれたオジサンに目をくれる者はおらず、多少の同情が滲む。
だが、そう思うだけで言葉をかけるにはいたらない。また抱き付かれるのも困る。
ぞろぞろその部屋を出ていく一向に私はやむを得ず従うことになった。
彼らの両親であろう二人が前に立ち、その後ろを私、そしてその後ろを子供たち、とまるで私が逃げ出さないように囲まれているような気がするのは、私の気のせいだろうか。
先ほどいた部屋でも私が逃げ出すための道はなかった。壁ちゃんがいたあの通路に続く扉はすぐに消えてしまったし、あの部屋の扉は眼鏡長男が立ちはだかるように塞いでいた。
こんな人たちとお近づきになりたくない私は、呑気なフリをしつつも逃れる術を探していたが、その全ては彼らに塞がれていた。
どうしても、私を帰すつもりはないようだ。
この状態に早くも気詰まりを感じていた。
大きなソファなんかじゃなくて、1人ずつコジャレた椅子に座っているのだが、その並びがまずおかしかった。私を中心点にして半円を描くように座り、12この目が襲い掛かる。
「私、帰りたいんですけど……」
「無理だろ」
吐き捨てるように言い放ったのは、ムカつく次男坊だった。
「無理とは?」
ムッとしながら聞き返した。
「あの扉はもう開かない」
「どういうこと?」
「まあ、落ち着いて頂けないでしょうか、姫様。私たちがあなたをここに喚んだんです。ですから、私たちはあなたを還すわけにはいかないのです」
長男坊の落ち着き払った態度が無性に癪に触る。帰れないと言われて冷静でいられるほど、大人じゃないのだ。
「こことは? ここは一体何処なんですか? なぜ私が喚ばれて、なぜ還れないのか、きちんと説明して下さい」
「ここはエリアスフィアという世界のクリムゾンレイク大陸にあるアルナボルディ王国の王都、クリムゾンソール。その中心である王城のなかに今あなたはいます」
カタカナだらけの国名やら何やらを一度に言われても覚えられない。だが、ここが地球じゃなく日本でないと言っていることは分かった。しかも、ここが王城であることも。
まあ、俄かには信じられないが。
「ここが地球じゃないってことですか? そんな、ファンタジーなことを私に信じろと?」
これは全て佐々倉さんと兄ちゃんが考えたどっきりなんじゃないだろうか。
兄ちゃんが佐々倉さんと組んだなら、これくらいのことやってしまいそうだ。
だが、いくら待っても手製のプラカードを持って現れる兄ちゃんをみることはなかった。
ムカつく次男坊は、仏頂面ですくっと立ち上がると、私の腕をむんずと掴むと強引に引っ張る。
乙女な私が殿方の力に叶うはずもなく、引き摺られるように連れていかれた先はバルコニーで、私は咄嗟に突き落とされると判断しぎゅうっと目を閉じた。
「おら、お前の目で確かめろ。これを見てもお前が住んでいた世界だって言えるのか?」
優しさの欠片も感じられないその声に従って、目を開けなければならないことが耐えられないほどにイヤだった。だが、そうしないといつまでたっても捕まれた腕が解放されないのを知っていた。
などと余計なことを考えているが、本当のところ怖かったのだ。見てしまえば、肯定せずにはいられないことも知っているから。壁ちゃんの存在を認めた時から、非現実を受け入れてしまっていたのだから。もう既に兄ちゃんたちがいる世界とは違うところに迷い込んでしまったことを。
私は、ゆっくりと緊張を解いた。
長男坊が言うところの王城のバルコニーから広がるその世界は、私が知っている世界とは違った。しかし、全く知らないかと言えばそうでもない。それらの様子を私は見たことがあった。世界史の教科書で。
この世界は、私が高校の時に習った世界史の教科書で見たようなひと昔もふた昔も前の様子に似ていたのだ。
「ここは地球じゃないって言ったよね?」
「そうだ」
信じられないことだが、同じ地球でも違う時代にタイムスリップしてしまったんじゃないかと思ったのだ。それもまた非科学的なことだが、別世界にいるというよりは信じられたかもしれない。
突きつけられた現実は、あまりに非現実的で信じろと言われても容易く信じられる類のものではなかった。
「ここで私に生活しろって言ってんでしょ? もう、絶対に地球には戻れないの? これってつまりは異世界トリップってやつなんでしょ?」
何だか少し奇妙だった。
私が知ってる異世界トリップは、例えばブラックホールが出現して吸い込まれたとか、ドアを開けたら異世界でしたとか、起きたら異世界でしたとか、そんな感じ。
何で私だけ、地道に何時間も歩いて異世界入りしなければならなかったのか。もっとパッと召喚してくれれば良かったんじゃなかろうか。
「戻れるかもな。早くて1年後には」
「なにそれ、1年後? あのねぇ、そんなに時間たっちゃったら私は元の世界じゃ失踪扱いされるだろうし、折角就職決まったとこなのに内定取り消しになっちゃうでしょうが」
イヤ、兄ちゃんはきっと私の帰りを信じて待っていてくれるだろう。だが、就職先が私を待ってくれているとは思えない。
くっ、苦労して内定貰ったところだったのに……。
「ねぇ、私を召還したんでしょ? 召還したんだったら、この世界には魔法が存在するってことだよね。どうにかもう一度あの扉を開けてよ」
「魔法は存在する。だが、高度な魔法を操れるのはこの世界ではたった一人だけだ。その存在がこの国に訪れるのは約1年に一度だ」
「今すぐそいつを連れて来いっ。さもなきゃシバくぞ、てめぇら」
その怒声は城下にまでおよび、国民たちは王城で獣が暴れていると勘違いし、武器を片手に押し寄せたそうだ。
それを私が知ることはなかったのだが。