第21話
珍しいものでも見るように不躾にぶつけられる視線を、兄ちゃんは真摯に受け止めていた。
この世界に来た時に、私のいでだちを見ていたリオやエロイ、メイヤは驚きはしなかったが、兄ちゃんを見てのジェラールの驚きは大きなものだった。
「ジェラ、私の兄ちゃんだから怖くないよ」
警戒してメイヤの足に手を回し、隠れてちらちらと様子を窺うジェラールのもとに兄ちゃんはずかずかと近寄り、ジェラールの目の前にしゃがみ込んだ。
「俺は光。あかりの兄ちゃんだ。お前がジェラだな? よろしくな、ジェラ」
ジェラールの頭の上に大きな手を置くと、わしゃわしゃと掻き回してニカッと笑った。
ジェラールはびくりと体を強張らせたが、私の様子を窺い、私が笑顔であることを確認すると顔を上げた。
「あぁりのにちゃ。よーちくっ」
「おおっ、偉いなジェラ」
兄ちゃんは声が大きいから、褒め言葉も大袈裟に聞こえる。でも、それが子供には嬉しいことのようである。私も何度も褒められているから分かる。兄ちゃんは褒め上手なのだ。
くすぐったそうに身を捩っていたジェラールが、おずおずと兄ちゃんの服を掴んだ。
心を開いてくれたと感じた兄ちゃんは、ジェラールを抱き上げた。急に抱き上げて内蔵が浮いた感覚を味わったのか、ジェラールが奇声を上げている。
「さすが兄ちゃん」
「どんなもんだっ。よーし、ジェラ。今日から俺はお前の兄ちゃんだぞ」
「あぁりのにちゃ、ジェラのにちゃ?」
「そうだぞぉ」
ジェラールが小首を傾げると、あまりの可愛らしさにやられたのか、兄ちゃんが頬擦りしている。それがくすぐったいのか、キャッキャッと声を上げる。
「兄ちゃん、とにかく座ろうよ」
「ああ、ジェラの可愛さに翻弄されたぞ」
ジェラールを抱いたまま椅子に座り、ジェラールを膝の上に乗せた。
兄ちゃんの隣に私が腰掛け、向かい側にリオ、そのとなりにエロイが座った。
「光殿、それからあかり。一体何があったか教えてくれませんか?」
まず、私から夢に出てきた魔法使いとのやり取りを話した。
いささか非現実的なことではあるが、魔法使いならやりかねないと、リオもエロイも納得しているようだった。
「兄ちゃんも魔法使いが夢に出てきたの?」
「イヤ、俺が魔法使いに会ったのはトイレの鏡の中だったよ。用を足して手を洗ってふと鏡を見たら、チャラい兄ちゃんがいるから驚いたよ。しかも会社でさ。他に誰もいなかったから良かったけどな」
魔法使いは魂だけを地球に飛ばしたんだろうか? 夢や鏡に自分の姿を映し出す。実体を地球に移すのは難しいのだろうか。
「魔法使いはなんて言ってたの?」
「ねぇ、あかりちゃんに会いたい? あかりちゃんはね、この世界とは異なる世界にいるんだよ。あなたにこの世界を捨てる覚悟があるなら、連れていってあげてもいいよ。どうするぅ? てな」
「うわっ。そっくりでムカつく」
兄ちゃんの物まね混じりの語り口調は夢で会ったあのチャラい魔法使いにそっくりで私をイラつかせるのに十分だった。
「確かにそっくりですね」
「ああ、そっくり過ぎて殴りたくなるな」
「ねぇ、兄ちゃん。本当にそう言ったの?」
ああ、と兄ちゃんが答えるのを見て、私は顔を歪めた。
「それだと、私たちは二度と日本に戻れないみたいな感じに聞こえるんだけど?」
「そういうことだろう? 俺は会社を辞めてきたんだ」
待て待て、そんな話は聞いていないぞ。
もし兄ちゃんがこちらに来たとしても、次に魔法使いが来た時には、二人同時に日本に帰れるんだとばかり思っていた。
「じゃあ、兄ちゃんは一生ここで暮らす覚悟で来たって言うの?」
「部屋も解約してきたし、友人たちにも別れの挨拶をしてきた」
兄ちゃんは覚悟をして、準備周到でこちらに来たのかもしれないが、私は何も覚悟がないままこちらに来てしまったのだ。
「お父さんとお母さんのお墓は?」
「叔母さんに頼んできた」
叔母さんは親戚中の中で唯一、私たちを気に掛けてくれていた人たちだ。あの叔母さんなら、お墓参りもしてくれるだろう。
私のこの気持ちはどこに行くんだろう。感傷も何もないままここにきて、わけもわからぬままここにいる。兄ちゃんがここにいる今、強い未練はない。ただ、故郷を完全になくしたような消失感がしこりのように残っているのだ。
せめて、私がここで生きていく意味があれば、そういう感情も薄れるかもしれない。
「そうなんだ」
強い視線を感じ、目をあげるとリオのそれと出会った。私を案じてくれているのだろう。安心させるように微笑むことしか出来なかった。
自分が大丈夫であるのか、私自身が理解できていないのだ。
「えっと、リオ。俺をここにおいて欲しいんだ。俺に出来る仕事は何でもするからさ」
兄ちゃんは強い。
強くなければ、両親を失い私を養うことが出来なかったのだろう。
兄ちゃんはまだまだ若かった。これから大学に行って、サークルに入って、遊んで、可愛い彼女を作って。楽しい時はこれから、という時だったのだ。
私の存在を鬱陶しい、憎らしいと思ったこともあったに違いない。
どうして、いつも犠牲にするの? 私のためにそんなに簡単に全てを投げ出さないでっ。
ぶつけたくても、ぶつけられない想いをまた今日も呑み込んだ。
「あかりの兄上殿ですので、住んでいただく分には何の問題もありません。ですが、しばらくは働かずにこの世界に慣れてみてはいかがでしょうか?」
「気遣いありがとうな。だが、俺は働いてないとこう体が疼いて仕方ないんだ。仕事しながらこの世界にも慣れていきたいんだ。ダメか?」
「いいえ、光殿がそれでよろしいなら」
「兄ちゃんは器用だから何だって出来ると思うよ。料理は私より巧いし、腕もたつから近衛兵にだってなれるかもね」
兄ちゃんは幼い頃から何だって出来る優れた才能を持っていた。それを公にせず、ある程度手を抜いていたのを私は知っている。煽てはやされるのを好まないのだ。特別扱いを嫌う。
それに対して私は本当に不器用な子供だった。
ただ、兄ちゃんの深い愛の前には妬むことすら出来なかった。兄ちゃんが兄ちゃんだったから、私はひねくれずにここまで生きてこれたのだと思う。
「では、一度城内を見学しつつ興味のあるものには体験してみる、というのはどうでしょうか?」
「そうしてくれるとありがたい。なにからなにまでありがとな、リオ」
「いいえ、あかりの兄上殿ですので」
珍しく私の前でないところで頬を染めるリオ。とっても新鮮だが、他の人には見て欲しくないという独占欲が沸き上がり、私を居心地悪くさせた。
「おお、惚れられてんなぁ、灯里」
ばしばしと私の背中を叩く兄ちゃん。頬が赤くなるどころか背中が赤くなってしまいそうだ。
「灯里は世界一可愛いだろう? 俺の自慢の妹なんだ。分かっているだろうが、泣かせるようなことがあれば俺が黙っちゃいないからな」
幼い頃、大好きな人にフラれて泣いていた私を見て、私がいじめられたのだと思いこみ、その男の子を殴り飛ばしてしまった、という話は私たちを知る人たちには語り継がれる伝説のようなものになっていた。男の子はその後、私を見ると怖れ慄くようになってしまった。
その事件後、私は兄ちゃんの前では泣かないように心掛けていた。
リオをそんな目に合わせたくはない。だから私は泣かない。