第14話
涙を流して必死にしがみ付いているジェラールの姿に、心が締め付けられた。
そんなに長い時間を共にしたわけではないのに、そんなに思ってくれていると思うと、嬉しくて、そして、ちょっぴり胸がちりっとした。
1年という期間が長いと思うか、短いと思うか。私は早く兄ちゃんを安心させたいと思えば長く、ジェラールともっと一緒にいたいと思えば短く感じた。ジェラールは、1年を短いと感じるだろうか。
「すぐにいなくなったりしないよ」
「やっ、やーや」
頭を左右に振り、より一層力強くしがみ付く。
ジェラールがこんな風に泣くのも、子供らしく駄々をこねるのも初めてで、困惑の中にも嬉しさがあった。
「ありがとう、ジェラ」
涙に濡れた瞳が不思議そうに私を見上げていた。
なぜ私が、ありがとう、と言ったのか分からなかったのだろう。
「ありがとう」
もう一度そう言うと、それが別れの挨拶だと思ったのか、再びひっくひっくとしゃくり上げ始めた。
慰めて泣き止めさせることもせず、小さな背中をゆっくり撫でていた。
泣きたいだけ泣いていい。気が済むまで泣いたらいい。きっとずっと誰にも甘えられなかったんだから。
ジェラールは長いこと泣き続けた。脱水症状が現れるんじゃないかと、心配になるほどに。
結局ジェラールは、泣き疲れて、しがみついたまま寝てしまった。
「重いだろ? 俺が運ぶ」
「うわっ。エロイ、いたんだ?」
「お前がジェラールを見てろって言ったんだろ? 戻って来たと思えば、二人で泣き始めるし、一人で戻ろうと思ったが、ジェラールが寝ちまうと思ったから。寝ると、子供でも重いからな」
「ありがとう、エロイ。でも、多分無理だと思う。しっかりしがみ付かれてるから、離れないんじゃないかな」
がっちりと私の服を掴んでいる。
「なに?」
エロイが引き剥がそうと引っ張るが、がっちりと掴んだ手が離れることはなかった。
「いいよ、エロイ。ジェラが起きちゃうから。抱っこしてくから。ありがとね」
ジェラールを抱き上げて、歩き始めた。
覚悟はしていたが、地蔵を抱えているんじゃないかと思えるほど重い。
ああ、エレベーターが恋しい。
ジェラールを抱っこしての階段はかなりキツい。でも、世のお母さん方は何度も登ったりしてるんだろうな。
私の少し後ろをエロイが何も言わず、ただついてくる。
「エロイ? もう、大丈夫だよ?」
「ジェラールの手が弛むかもしれないだろ?」
そのためについてきてくれていたのか。
その気持ちは嬉しいが、リオとのことを詮索されるのは堪らない。一人にして欲しい気分だ。
「ホントにいいから」
察してください。今は、あまり人と話したくないんだよ。
そんな心の叫びをエロイが察するはずもなく、後ろに気配を感じる。
「お前、兄上とはどうなった?」
「さあね、どうにもなりませんよ。私はすぐに消える人間なんだから」
泣きだしてしまいそうになる。
リオのあまり見られない、無表情から広がりを見せる笑顔を思い出される。
リオは私なんかじゃない、この世界のご令嬢と結婚するのだろう。出来ればそれは、私が去ったあとならいいと願わずにはいられない。
「苛々する。なんで兄上なんだっ」
「へ?」
「なんで好きになるのが、兄上なんだ」
なんでだろう?
第一印象は、あまり良くなかった。無表情で冷静で冷たい人だと思った。でも違った。冷静に見えて、どこか抜けてて、無表情なのは照れ隠しだった。丁寧に話すのが癖みたいなもので、その会話のリズムが私には心地よかった。冷たいと思っていたのに、さりげなく優しくて、ジェラールのことも考えてくれていた。隣にいるだけで胸がドキドキして、痛いくらいだった。その反面、一緒にいると安心出来た。
「何でだろうね。そんなの私にだって分かんない。気付いた時には好きだった。もう、止められないくらい好きなんだ。どうしようもないじゃん」
私は好きでいることを止められないだろう。どんなに辛くても。この気持ちは消せない。
初めてなのだ。本気で誰かを好きになったのは。胸が締め付けられる想いも、理性では抑えられない想いも。
「エロイは、誰かを深く想ったことがある?」
「ああ、ある」
「誰かを心の底から想うって、結構しんどいんだね」
友達が恋をして笑ったり泣いたり惚気たり悩んだりしている姿を見て、眩しいと思った。羨ましいと思った。憧れていた。
好ましい人や憧れの人はいたが、恋い焦がれたことはない。誰かを想って胸を焦がしたこともない。真剣に想いを告げられたこともあるが、心は動かなかった。
「そうだな」
「エロイも好きな人いるんだ?」
「……完全な一方通行だ。俺のことなんか眼中にも入っちゃいない」
エロイってかなり良い男なのに、片想いなんだ。
「エロイも大変だね。でも、エロイって良い奴だもん。その子にもいつか分かって貰えるさ。頑張れ」
「……お前が言うか?」
ぼそりと呟いた言葉は私の耳には届かず、こぼれ落ちた。
「ん?」
「イヤ、何でもない」
「そう」
それきり会話は途絶えた。エロイは結局ジェラールの部屋まで送ってくれた。
「別に何もしてくれてはないけど、取り敢えずありがと」
ついてきただけで、しかも、傷に塩を塗り込むようにリオの話題をふったエロイは、憎らしいけれど、きっと心配してくれてたんだと思う。
だから一応のお礼は言っとかないとね。
私は扉の前でエロイを帰した。これ以上私たちに関わりすぎるのは、立場上良くないと思えたからだ。
ジェラールは私たちがある程度の声のボリュームで話していてもちっとも起きる様子がなかった。
ベッドに横たえた後も、私の服を掴んだ手は放さなかった。
「困ったねぇ。これじゃ、部屋に帰れないよ」
仕方がないので、しばらく見守ることにする。
大きすぎるベッドにちょこんと横たわる小さな体を見て、自身の幼い頃を振り返った。
鮮明に覚えているわけではない。けれど、ある程度の年齢になるまで、母親の布団に一緒に寝ていた。一人の布団が与えられた後も、両親と同じ部屋で寝ていた。一人で寝るようになったのは、一人部屋を与えられてからだ。確か小学生の高学年の頃だったと記憶している。それでも、夜に怖い番組を見てしまった日には、兄ちゃんや両親の部屋に潜り込んだものだった。
間違ってもこんな年齢で、一人で夜を明かすことなどなかった。
よく泣かないものだと感心する。私が知らないだけで、一人でこっそりと泣いているのかもしれない。
そうだとしたら、なんて不便なんだろう。
私がジェラールを見て感じる憤りは、同情なのだろうか。……そうかもしれない。可哀相な子だって心のどこかで思っている。だが、確かに守りたいと思う気持ちは、私の中に存在しているのだ。同情じゃない感情が確かに存在しているのだ。
ジェラールを見ているうちに、私は激しい眠気に勝てずに意識手放した。
私も今日は疲れていた。心も体も。
「良い夢を」
途切れかけた意識の中で誰かの声が聞こえた気がした。
ふんわりと揺れる安心感、心地好い気分、それらはただの夢だと私は推測した。