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やり直せるのなら、もう二度と後悔はしたくは無かった。

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/08/20

最後に連載版の告知あります。

「リリアーナ。君との婚約を解消したい」


 結婚まで半年を切ったある日の午後、アルベルト・ローデンは、長年婚約者として隣にいたリリアーナ・フェルベールへそう告げた。伯爵家の応接室には穏やかな午後の日差しが差し込み、二人の前にはまだ湯気の残る紅茶と焼き菓子が並んでいる。いつもと何も変わらない光景だっただけに、リリアーナはすぐには言葉の意味を理解できず、ただ向かいに座るアルベルの顔を見つめていた。


「……婚約を、解消するということ?」

「ああ。突然こんなことを言って悪いと思っている。だが、これ以上君を騙したままでいるのも違うと思ったんだ」


 アルベルトは申し訳なさそうに眉を寄せている。その表情を見ただけで、リリアーナの胸には嫌な予感が広がっていた。それでも聞かないわけにはいかず、「理由を聞いてもいい?」と尋ねると、少しの沈黙を置いて彼の口から出てきたのは、リリアーナも知っている女性の名前だった。


「セシリアを愛しているんだ。彼女と結婚したいと思っている」


 胸の奥が冷たくなった。セシリア・モートン。アルベルトが数か月ほど前から親しくしていた子爵令嬢だった。夜会で二人が話しているところを見たことはあるし、最近になってアルベルトの口から彼女の名前が出ることが増えたことにも気づいていた。それでもリリアーナは、二人の関係を疑おうとはしなかった。アルベルトが友人だと言ったから、それを信じたかったのだ。


「もちろん、長い間君を待たせておいて、今さらこんなことを言うのが身勝手だということは分かっている。でも、気持ちがないまま結婚する方が、君に対して失礼だと思うんだ」

「……そう」


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。リリアーナにとってアルベルトは将来の夫になる人であり、それ以前に大切な幼馴染でもあった。彼が家を継ぐための勉強で忙しくなれば邪魔をしないように自分から会う回数を減らし、急に時間ができたから会いたいと言われれば、先に入れていた予定を変更したことも一度や二度ではない。アルベルトが疲れていれば何時間でも話を聞き、忘れ物に気づけば届け、頼み事をされればできる限り引き受けた。自分の誕生日を忘れられた年でさえ、仕事が忙しかったのだから仕方がないと笑って済ませた。それを苦しいとは思っていなかった。好きな人の役に立つことが嬉しかったし、いつか夫婦になれば、きっと自分も同じように大切にしてもらえるのだと信じていた。


「私では、駄目だったの?」


 聞くつもりなどなかったのに、そんな言葉が零れた。アルベルトは少し困ったような表情を浮かべ、しばらく考えてから首を振った。


「君に何か問題があるわけじゃない。むしろ君はしっかりしているし、何でも一人でできるだろう?俺がいなくても困らないと思う」

「……え?」

「セシリアは違うんだ。少し危なっかしいところがあって、放っておけないというか……俺が守ってやらなければと思うんだよ。君なら、俺がいなくなってもきっと大丈夫だ」


 アルベルトは励ますつもりでそう言っているのだろう。けれど、その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの胸を満たしたのは怒りよりも深い虚しさだった。寂しくても言わなかった。会いたくても我慢した。忙しそうなら自分から身を引き、困らせないようにしてきた。泣きたくなった時でさえ笑って「大丈夫よ」と答えてきた。その結果、アルベルトの中で自分は、何をされても大丈夫な女になってしまったらしい。


 リリアーナはそれ以上何も言わず、婚約解消を受け入れた。その日の夜、侯爵邸の自室へ戻ってからようやく涙が溢れた。アルベルトに捨てられたことが悲しかったし、抱き続けてきた恋が終わったことも苦しかった。けれど、泣きながら思い出したのはそれだけではなかった。友人から観劇へ誘われたのに、アルベルトから呼ばれるかもしれないからと断った日があった。母と一緒に行きたかった店も、アルベルトが興味を示さなかったから行かなかった。本当は食べてみたかった菓子があったのに、彼の好みに合わせて別のものを選んだこともある。どれも些細なことだった。けれど、それが何年も積み重なっていた。


 どうして、もっと自分の気持ちを大切にしなかったのだろう。嫌なら嫌だと言えばよかった。寂しければ寂しいと言えばよかった。会いたい時には、素直にそう伝えればよかった。それでもアルベルトが自分を大切にしてくれないのなら、その時に初めて離れればよかったのだ。けれどリリアーナは、愛されるためには自分が我慢しなければならないのだと思い込んでいた。


 婚約解消から数日後、両親の勧めもあり、リリアーナはしばらく王都を離れて領地で過ごすことになった。しかし、彼女を乗せた馬車が領地へ着くことはなかった。激しい雨の中、山道を進んでいた馬車の車輪が大きく滑り、御者の叫び声と馬の嘶きが聞こえた直後、リリアーナの体は座席から投げ出された。何が起きたのか理解する間もなく強い衝撃が襲い、急速に意識が遠ざかっていく。


 最後に思い浮かんだのはアルベルトの顔ではなかった。もっと好きなことをすればよかった。もっと友人と笑えばよかった。もっと、自分が何を望んでいるのかを考えればよかった。もし、もう一度だけやり直すことができるのなら、今度こそ自分の気持ちを大切にしたい。


 ――もう二度と、後悔はしたくない。




 ◇




「お嬢様、そろそろ起きてくださいませ」


 聞き覚えのある声に呼ばれ、リリアーナは目を開いた。最初に見えたのは、自室の天蓋だった。ゆっくり瞬きをし、それから勢いよく上体を起こす。目の前には見慣れた侍女が立っているが、その姿も、自室の家具も、妙に懐かしく感じられた。


「……今日は、何日?」

「どうなさったのですか?」

「いいから教えて。今日は何年の、何月何日?」


 侍女から告げられた日付を聞いた瞬間、リリアーナは言葉を失った。二年前だった。アルベルトから婚約解消を告げられる、ちょうど二年前。鏡へ目を向ければ、そこには十八歳だった自分より少し幼い顔が映っている。夢なのではないかと何度も疑ったが、頬を抓れば痛みはあるし、窓から見える庭も、侍女との会話もあまりにも現実そのものだった。


 混乱したまま朝食を終えた頃、アルベルトから手紙が届いた。


『急だが、今日の午後に時間ができた。いつもの店で会わないか』


 その文章を見た途端、リリアーナははっきりと思い出した。一度目の人生でも、まったく同じ手紙を受け取っている。そしてその日は、学生時代から仲の良い友人たちとの茶会へ行く約束をしていた。それでもアルベルトに会えることが嬉しくて、友人へ謝罪の手紙を送り、約束を取りやめたのだ。


 リリアーナは便箋を前にしたまま、長い間動けなかった。アルベルトのことは、まだ好きだった。未来で裏切られた記憶を持っていたとしても、十年以上積み重ねてきた気持ちまで一瞬で消えてしまうわけではない。むしろ二年前に戻ったのなら、今度こそ関係を変えられるのではないかという期待さえ、胸のどこかには残っていた。


 けれど、それならなおさら、以前と同じことをしてはいけない。


 リリアーナはペンを取り、『今日は先約があるの。また別の日にしましょう』と書いた。たったそれだけの文章なのに、書き終えるまで随分と時間がかかった。断ったら気を悪くするのではないか。嫌われるのではないか。そんな不安が次々と浮かんでくる。それでも手紙を送り、その日は予定通り友人たちの茶会へ向かった。


「珍しいわね、リリアーナ。今日はアルベルト様と会わなくていいの?」


 友人の一人に冗談めかして言われ、リリアーナは少しだけ苦笑した。


「今日はあなたたちとの約束が先だったもの。急に予定が空いたからと言われても、毎回そちらへ合わせるわけにはいかないでしょう?」

「まあ、随分変わったことを言うのね。前のあなたなら、アルベルト様から呼ばれた瞬間に飛んでいきそうだったのに」

「私、そんなふうに見えていたの?」

「かなりね。悪いとは言わないけれど、たまにはこちらを優先してくれてもいいのにとは思っていたわ」


 笑いながら言われ、リリアーナは返す言葉を失った。自分ではそこまでのつもりはなかったが、周囲から見れば明らかだったのだろう。それでも、その日の茶会は思っていた以上に楽しかった。他愛もない話をして、菓子を食べ、最近読んだ本の感想を言い合う。それだけの時間なのに、帰りの馬車の中でリリアーナは不思議なほど心が軽くなっていた。


 翌日、アルベルトから再び連絡が来た。いつもの店で向かい合うなり、彼は不満そうに眉を寄せる。


「昨日はどうしたんだ? 以前なら予定があっても来てくれただろう」

「友人との約束が先に入っていたの。だからそちらへ行っただけよ」

「別の日にしてもらえばよかったんじゃないか? せっかく俺の時間が空いたのに」


 あまりにも自然に言われ、リリアーナは思わず彼の顔を見つめた。一度目の自分なら、きっと「そうね、ごめんなさい」と謝っていただろう。しかし今回は首を振った。


「先に約束していたのは友人の方よ。あなたが急に時間が空いたからって、そのたびに予定を変えてもらうのは失礼でしょう?」

「……まあ、それはそうかもしれないが」


 アルベルトは少し納得していない顔をしたが、それ以上何も言わなかった。怒鳴られることもなければ、嫌われることもない。ただ断っただけで、何も壊れなかった。そのことに気づいた時、リリアーナは自分がどれだけ勝手に恐れていたのかを知った。


 それから少しずつ、自分の希望を口にするようになった。アルベルトと出かける日にも、毎回彼の行きたいところへ合わせることをやめた。


「今日はいつもの店でいいだろう?」

「今日は別のところへ行きたいわ。前から気になっているお店があるの」

「ここからだと少し遠いぞ。いつものところでいいじゃないか」

「だったら今日は別々でもいいわ。私はそちらへ行ってみたいもの」

「そこまで行きたいのか?」

「ええ。行ってみたいわ」


 アルベルトは不思議そうにしながらも、結局その日はリリアーナが選んだ店へ付き合った。母から買い物へ誘われれば一緒に出かけ、友人から観劇へ誘われれば予定を確認した上で返事をする。「アルベルトから誘われるかもしれない」という理由だけで何日も予定を空けておくこともしなくなった。彼が興味を示さないという理由で読むのをやめていた本も、再び手に取るようになった。


 どれもほんの些細な変化だった。それでもアルベルトは、次第に違和感を隠さなくなっていった。


「最近の君は付き合いが悪くなったな。前ならもっと俺の予定に合わせてくれただろう?」


 ある日の帰り道でそう言われ、リリアーナは足を止めた。


「あなたの予定に何でも合わせなくなっただけだと思うけれど」

「そういうところだよ。以前ならそんな言い方もしなかったじゃないか。少しわがままになったんじゃないか?」


 一瞬だけ胸が痛んだ。やはり嫌われるのではないかという昔の恐怖が顔を出す。それでもリリアーナは以前のように謝らなかった。


「そうかもしれないわね。でも、私は今くらいの方が好きよ」

「自分のことを?」

「ええ。少なくとも、何でも我慢していた頃よりは好き」


 アルベルトは理解できないというように眉を寄せたが、リリアーナはそれ以上説明しなかった。自分を大切にすることを、誰かに納得してもらう必要などないのだと、少しずつ分かり始めていたからだった。




 ◇


 

 レオンハルト・クラウゼルと知り合ったのは、それから半年ほど経った頃だった。友人に誘われた茶会でのことで、一度目の人生ではアルベルトから急に呼ばれて参加を断っていたため、その場に彼がいたことすら知らなかった。


 公爵家の嫡男であるレオンハルトは、立場の割に気取ったところのない青年だった。華やかな話題を振りまくわけではないが、人の話をよく聞き、相手が話し終える前に遮ることもない。初対面のリリアーナに対しても必要以上に距離を詰めることはなく、友人たちを交えた会話の中で自然に言葉を交わした。


「その本、面白いのか?」


 彼が指したのは、リリアーナが持っていた本だった。


「ええ。まだ半分くらいしか読んでいないけれど、私は好きよ」

「どういう話なんだ?」


 尋ねられ、リリアーナは少し驚いた。アルベルトに同じ本の話をした時には、「そういうものはよく分からない」とすぐに別の話題へ移られたことがあったからだ。もちろん興味がないものを無理に聞いてほしいとは思わない。それでもリリアーナが簡単に内容を説明すると、レオンハルトは最後まできちんと耳を傾けた。


「それなら俺も読んでみようかな。君が随分楽しそうに話しているから、少し気になった」

「無理に読まなくてもいいのよ?」

「無理にではない。俺が気になったから読むだけだ」


 たったそれだけの会話だった。それなのに帰りの馬車の中で、リリアーナはその言葉を何度も思い返していた。


 その後も社交の場で何度か顔を合わせるようになった。ある時、街に新しい菓子店ができたという話になり、リリアーナが「友人から評判だと聞いたの」と口にすると、レオンハルトは何気なく尋ねた。


「行ってみたいのか?」


 リリアーナは一瞬、答えに詰まった。以前なら最初に考えただろう。アルベルトは甘いものがあまり好きではない。ならば行っても仕方がない、と。だが今回は、自分がどう思っているのかを考える。


「……ええ。行ってみたいわ」

「なら行こう」

「……そうね、行きましょう」


 思わず笑うと、レオンハルトも少しだけ笑った。その後、共通の友人たちと一緒にその店へ行った。選んだ菓子は想像していたより甘かったが、それでも楽しかった。


 少しずつ、リリアーナの中で「自分がどうしたいか」を考えることが当たり前になっていった。


 だからといって、アルベルトへの気持ちがすぐに消えたわけではない。婚約する前から好きだった人なのだ。彼が珍しく花を贈ってくれれば嬉しかったし、昔二人で遊んだ庭の話をされれば懐かしい気持ちにもなった。もしかすると、今度こそ大丈夫なのではないか。そんな期待も捨てきれなかった。


 けれど、自分を大切にするようになったからこそ、以前には見えなかったものも見えるようになった。


「来週は母上と観劇へ行くの。随分前から楽しみにしていたのよ」

「その日は俺も空いているんだ。せっかくだから会わないか?」

「なら別の日にしましょう。母とはもう約束しているもの」

「母上には別の日にしてもらえばいいだろう。俺と会うより大事なのか?」


 何気なく言われたその言葉に、リリアーナは静かにアルベルトを見つめた。


「比べるものではないでしょう?先に約束している方を優先するだけよ」

「婚約者なのだから、俺を優先するものだと思っただけだ」

「だったら、あなたも私をいつでも最優先にしてくれるの?」

「それは、その時々の予定によるだろう」

「私だって同じよ」


 アルベルトは納得していない様子だった。また別の日、リリアーナが体調を崩して予定を取りやめた時には、彼から届いた手紙の最初に書かれていたのは『具合は大丈夫か』ではなく、『今日の予定はどうする』という言葉だった。その後には心配する文章も続いていたから、アルベルトが冷酷なわけではない。ただ、自分がリリアーナから優先されることに慣れすぎているのだ。


 それを一つずつ目にするたびに、胸の中にあった長年の恋は少しずつ形を変えていった。




 ◇




 二度目の人生でも、アルベルトはセシリアと出会った。


 初めて二人が並んで話している姿を見た時、リリアーナの心臓は大きく跳ねた。忘れていたわけではない。この日が来ることを、ずっと恐れていた。セシリアは明るく、よく笑う女性だった。アルベルトが彼女へ向ける眼差しを、リリアーナはよく知っている。一度目の人生でも何度も目にしたものだったからだ。


 その夜、リリアーナはなかなか眠れなかった。このままではまた同じことになるのではないか。もっとアルベルトに会った方がいいのかもしれない。以前のように彼の予定へ合わせ、好きなものを用意し、セシリアと過ごす時間がなくなるほど自分が傍にいれば、今度こそ未来を変えられるのではないか。


 翌朝、数日前に友人から届いていた誘いの手紙を手に取った。その日はアルベルトから声をかけられるかもしれないから、空けておいた方がいい。一度はそう考え、断りの手紙を書きかけた。しかし途中で手が止まった。


 以前も、そうだった。愛されるために自分から何かを捨て、一つ一つは大したものではないと言い聞かせながら、何年もそれを繰り返した。その結果、最後に残ったのは後悔だった。


 リリアーナは書きかけの手紙を破り、改めて参加すると返事を書いた。アルベルトが誰を好きになるかを、自分には決められない。セシリアを責めるつもりもなかったし、彼女さえ現れなければ二人が幸せになれたとも、今では思えなかった。もし自分が何も我慢しなければ続かない婚約なのだとしたら、それはいつかどこかで終わっていたものなのだろう。


 それから一年ほど経ち、アルベルトとセシリアは一度目と同じように親しくなっていった。一方で、リリアーナとレオンハルトが話す機会も増えていた。ある夜会でレオンハルトと談笑していたところへ、アルベルトがやって来た。


「随分楽しそうだな。さっきからずっとクラウゼル公爵令息と話していただろう」

「あら、アルベルト。来ていたのね。気づかなかったわ」

「俺が気づかれないくらい話が弾んでいたということか」


 少し棘のある言い方だった。レオンハルトは二人の空気を察したのか、軽く挨拶してその場を離れていく。それを見送った後、アルベルトは不満そうに眉を寄せた。


「最近、彼と随分親しいようだが、君には婚約者がいることを忘れていないか?」

「もちろん覚えているわ。普通にお話ししていただけでしょう?」

「そうは言っても、あまり親しげにしていると変な噂が立つかもしれない」

「それなら、あなたも気をつけた方がいいわね。セシリア様と随分親しくしているもの」


 アルベルトの表情が固まった。


「彼女とはそういう関係じゃない」

「そう。なら私とレオンハルト様も同じよ」

「何が言いたいんだ?」

「そのままの意味よ。私は婚約者がいることを忘れていない。だからあなたも忘れないでね、と言っているだけ」


 リリアーナはそれ以上追及しなかった。


 少なくとも、彼とは社交上の健全な関係でいた。やましい事など一切無かった。


 アルベルトは何か言いたそうにしていたが、結局黙り込む。その顔を見ながら、リリアーナは不思議に思った。どうして自分が他の男性と話すことには不満を覚えるのに、自分がセシリアと親しくすることは何とも思わないのだろう。以前ならそれすら、自分が我慢すればいいと思ったはずだった。


 今はもう、そうは思えなかった。



 ◇



 そして、二年前と同じ日が訪れた。


 呼び出された場所も同じだった。窓から差し込む午後の日差しも、目の前に置かれた紅茶も、不思議なほど記憶と重なっている。アルベルトの表情まで、あの日とほとんど同じだった。


「リリアーナ。君との婚約を解消したい。セシリアを愛しているんだ。このまま君と結婚することはできない」


 二度目に聞くその言葉は、一度目ほど衝撃的ではなかった。それでも胸は痛んだ。ここまで来ても、どこかで違う未来を期待していたのかもしれない。


「そう」

「本当に申し訳ないと思っている。君には長い間待ってもらったし、俺のこともずっと支えてくれた。それなのに――」

「分かったわ」


 アルベルトが目を見開いた。


「……分かった?」

「ええ。婚約解消を受け入れるわ」

「それだけなのか?」


 思わず出たらしい言葉に、リリアーナは少し首を傾げた。


「それだけって?」

「いや、君はもっと……俺を責めたり、考え直してくれと言ったりすると思っていた」


 泣いて縋られると思っていたのだろう。自分を愛していることだけは疑ったことがない。そのことが、今になってよく分かった。


「悲しくないわけじゃないわ。私、あなたのことを本当に好きだったもの。子どもの頃からずっと、いつかあなたと結婚するのだと思っていたから、今だって何とも思っていないわけではないの」


 アルベルトの表情が僅かに緩んだ。けれどリリアーナは、そのまま続けた。


「でもね、アルベルト。あなたに選んでもらうために、自分を捨てるのはもうやめたの」

「……どういう意味だ?」

「そのままよ。あなたがセシリア様を選ぶなら、それを止めるつもりはないわ。でも、だからといって私があなたに愛してもらうためだけに、以前のように何もかも我慢するつもりもないの。あなたが自分の気持ちで相手を選ぶのなら、私も自分の気持ちでこれからを選びたいの」


 アルベルトはしばらく何も言わなかった。リリアーナはゆっくり立ち上がる。


「今までありがとう。楽しかったことまで忘れるつもりはないわ。セシリア様とお幸せに」


 一度目の人生では、捨てられたと思った。自分だけが置いていかれたのだと思って、何日も泣いた。けれど今は違う。アルベルトがセシリアを選んだのと同じように、リリアーナもアルベルトのいない人生を選んだのだ。


 屋敷へ戻った後、一人になって少しだけ泣いた。それでよかった。好きだった人との関係が終わったのだから、悲しくて当然だった。ただ、二年前とは違い、その涙の中に自分自身への後悔はなかった。




 ◇




 婚約を解消したアルベルトは、ほどなくしてセシリアとの交際を公にした。最初のうちは順調だった。セシリアは明るく素直で、アルベルトもそんな彼女と過ごす時間を楽しんでいた。


 しかし、しばらくすると小さな違和感が積み重なるようになった。


「今度の休日、街へ出ないか?久しぶりにゆっくりできそうなんだ」

「ごめんなさい。その日は友人と約束しているの。あなたとは次の休日でも会えるでしょう?」

「別の日にしてもらえないのか?」


 当然のように尋ねるアルベルトに、セシリアはきょとんとした顔をした。


「どうして?ずっと前から約束していたのよ。急に変更したら友人に悪いでしょう?」


 その答えに、アルベルトはどこか居心地の悪さを覚えた。別の日には、彼がいつもの店へ行こうと誘うと、セシリアから「今日は違うところへ行きたいわ」と言われた。


「ここからだと少し遠いだろう。いつものところでいいじゃないか」

「でも私はあちらへ行ってみたいの。いつもあなたの行きたいところではつまらないもの。今日は私に付き合ってくれてもいいでしょう?」


 どれも、ごく普通のやり取りだった。それなのに、アルベルトは妙な違和感を拭えなかった。リリアーナなら、自分が行きたいと言えば一緒に来てくれた。急に会いたいと誘っても、できる限り予定を空けてくれた。自分が好きな料理も苦手なものも覚えていて、疲れていれば話を聞いてくれた。以前は、それを特別なことだと思ったことがなかった。婚約者ならそのくらい当然なのだと、どこかで考えていた。


 だがセシリアと過ごすうちに、少しずつ分かってきた。


 こういった彼にとっての当たり前は当然ではなかったのだ。それは、リリアーナが、自分を好きだったからしてくれていたことだった。


 決定的だったのは、セシリアとの約束をアルベルトが忘れた時だった。仕事が立て込んでいて、約束そのものが頭から抜け落ちていた。翌日になって慌てて謝ると、セシリアは怒りを抑えながらもはっきりと言った。


「今回はもういいわ。でも次からは気をつけて。楽しみにしていたんだから、忘れられたら悲しいわよ」

「そんなに怒ることか? 一度くらいなら――」


 そこまで言って、アルベルトは言葉を止めた。かつてリリアーナの誕生日を忘れたことを思い出したからだ。翌日に気づいて慌てて謝った時、リリアーナは笑っていた。


『忙しかったんでしょう? 気にしなくていいわ』


 その言葉を聞いて安心した。そして、本当に何とも思っていないのだと思った。けれど違ったのかもしれない。あの時も傷ついていたのに、自分を困らせないように笑っていただけなのではないか。


「……リリアーナなら」


 無意識に名前が零れた。

 セシリアの表情が変わった。


「今、何て言ったの?」

「いや、違う。そういう意味じゃない」

「最近ずっとそうよね。何かあるたびにリリアーナ様ならどうだったかって考えているでしょう?」

「そんなことはない」

「あるわよ。あなたが私を選んだんでしょう? それなのに、どうして今さら前の婚約者と比べるの?」


 アルベルトは何も言い返せなかった。それから二人の関係は少しずつ冷えていき、やがてセシリアの方から別れを告げられた。彼女を責めることはできなかった。自分で選んだ相手と過ごしながら、失ったリリアーナのことばかり考えるようになったのはアルベルト自身だったからだ。




 ◇




 その頃、リリアーナは以前よりずっと穏やかな毎日を送っていた。婚約解消直後こそ社交界で噂されたものの、時間が経てば人々の関心も薄れていく。友人たちと出かけ、本を読み、母と買い物へ行き、好きな菓子を食べる。何も予定のない日には、部屋で一日ゆっくり過ごすことさえあった。


 そしてレオンハルトとも、変わらず会っていた。


「次の休日は空いているか?」

「午後なら大丈夫よ。何か予定があるの?」

「いや。君が行きたいところがあるなら、そこへ付き合おうと思っただけだ」


 リリアーナは少し考え、それから笑った。


「新しくできた庭園へ行ってみたいわ。季節の花が綺麗らしいの」

「では、そこにしよう」

「あなたは行きたいところはないの?」

「ある。ただ今回は君が先に言ったからそちらでいい。次は俺の希望に付き合ってもらう」

「それなら公平ね」


 何でも自分に合わせてくれるわけではない。レオンハルトにも希望があり、嫌なことには嫌だと言う。リリアーナが意見を言えば、彼も自分の意見を返してくる。ただ、どちらか一人だけが我慢することを当然とは思っていない。その関係が、リリアーナには心地よかった。


 そんなある日、アルベルトが侯爵邸を訪れた。応接室へ入ったリリアーナは、久しぶりに見る彼が以前より少し疲れていることに気づいた。


「突然来てすまない。少し話がしたくて」

「構わないわ。それで、今日はどうしたの?」


 アルベルトはすぐには答えなかった。膝の上で手を握り、何度か言葉を探してからようやく口を開く。


「君に謝りたかったんだ。君が俺にしてくれていたことを、ずっと当たり前だと思っていた。俺が誘えば来てくれることも、予定を合わせてくれることも、何か忘れても笑って許してくれることも、全部……婚約者なら当然なんだと思っていた」


 リリアーナは何も言わず続きを待った。


「違ったんだな。君が俺を大事にしてくれていたから、そうしてくれていたんだ。俺はそれを一度もちゃんと考えなかった」

「……そうね」

「セシリアとは別れた。彼女が悪いわけじゃない。俺が、何かあるたびに君と比べてしまったんだ。自分で彼女を選んでおいて、最低だと思う」


 アルベルトは自嘲気味に笑い、それからリリアーナを見た。


「勝手なことを言っているのは分かっている。それでも、もう一度やり直せないか?」


 胸がまったく揺れなかったと言えば嘘になる。目の前にいるのは、長い間愛した人だった。一度目の人生では最後まで手に入らなかった言葉を、今は彼の方から差し出している。


「今度こそ君を大切にする。君の予定も、君の気持ちもちゃんと考える。以前みたいに、自分に合わせてもらって当然だとは思わない。だから、もう一度だけ――」

「アルベルト」


 リリアーナは静かに彼の言葉を止めた。


「ありがとう」


 その一言に、アルベルトの顔へ僅かな期待が浮かんだ。


「あなたがそう思ってくれたことは嬉しいわ。私、あなたを好きだったことまで後悔しているわけではないの。子どもの頃から一緒にいて、楽しかったことも本当にたくさんあったもの」

「だったら――」

「でも、戻れないわ」


 アルベルトの表情が固まった。


「……どうして?」

「あなたが嫌いだからではないの。ずっと、あなたに選んでもらうことばかり考えていたわ。あなたが喜ぶなら私が少しくらい我慢してもいい、あなたが忙しいなら私が予定を変えればいい。そうやって何年も過ごしているうちに、自分が何をしたいのかさえ分からなくなっていた


「もうそんなことはさせない。今度は俺が――」

「分かっているわ。今のあなたなら、きっと以前とは違うと思う」


 だからこそ、責めるような言い方はしたくなかった。


「でもね。もし今ここであなたのところへ戻ったら、私はきっといつか考えると思うの。あの時、自分で前へ進むと決めたのに、どうして戻ってしまったんだろうって」


 アルベルトは黙ったままリリアーナを見ていた。


「私、もう二度と後悔はしたくないの」


 静かな声だった。


 けれど、それだけで十分だったらしい。アルベルトはしばらく何も言えず、やがて小さく息を吐いた。


「……そうか。本当に、遅かったんだな」


 リリアーナは答えなかった。きっと、そうなのだろう。アルベルトが悪人だったとは思わない。自分もまた、何も言わず何でも受け入れることで、二人の関係を歪ませてしまった部分はあった。それでも、一度壊れたものを必ず元に戻さなければならない理由はない。


「幸せになってくれ」


 帰り際、アルベルトがそう言った。

 リリアーナは少しだけ微笑んだ。


「あなたもね」


 それが、二人が婚約者だった時間の本当の終わりになった。




 ◇




 数日後、リリアーナはレオンハルトと王都の通りを歩いていた。よく晴れた午後で、通りには多くの人が行き交っている。


「今日はどうする?」


 そう尋ねられ、リリアーナは少しだけ考えた。以前なら、きっと相手へ聞き返していただろう。あなたはどこへ行きたいの、と。自分はどこでも構わないから、と。


 けれど今は、ちゃんと答えが浮かぶ。


「前から行ってみたかったお店があるの。今日はそこへ行きたいわ」

「分かった。どこだ?」

「この先よ。ただ、少し歩くけれど大丈夫?」

「それくらいなら問題ない。だが次は俺が行きたいところに付き合ってもらうからな」

「あら、どこへ行くつもり?」

「まだ秘密だ」

「変なところだったら帰るわよ」


 何でもない会話をしながら歩いているうちに、リリアーナは自然と笑っていたのだった。

連載を始めました! かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)


『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』

https://ncode.syosetu.com/n9992mo/

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― 新着の感想 ―
アルベルトは最後まで解ってないし、たとえ復縁しても以前と同じだろうと思う。リリアーナの意志を尊重し気遣う気が有るなら、セシリアと別れずセシリアに同じようにできたはず。なのに自分の意思や予定を優先したセ…
好かれてるから精神的にも立場も優位だ、と思い込み ながらずっと一緒に成長してしまう事の危険さを、 大人は監督しないといけないね。人格に関わるから、 歪んでから自分で気づくのは難しい。お互いにね。 でも…
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