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幸運を招く木  作者: 彼岸花


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数多の幸運

 翌朝、沙綾は何時ものように高校へと向かっていた。

 沙綾は不良ではない。が、優等生でもない。むしろ劣等生寄りで、だからという訳でもないが、登校時間は割と遅刻ギリギリだ。学生も社会人も少ない時間帯で、住宅地をゆったりと歩く。


「あっ。信号青じゃん」


 その道中、歩行者用青信号がチカチカと点滅するところを目にする。

 横断歩道まであと三メートル。本来点滅した青信号の意味は「今から渡ろうとするな」なのだが、実情は「急いで渡れ」になっているのが現代日本社会。点滅中でも横断歩道に入ればセーフ、という誤ったルールがまかり通っている。

 登校時間ギリギリという事もあって、あまり止まりたくない。沙綾も一般的な日本人として駆け足で横断歩道に入ろうとした。


「あっとと!?」


 が、その時躓いてしまう。

 転倒には至らなかったが、何かを踏んだような気がしたので立ち止まって振り返る

 直後、甲高いスリップ音を鳴らす何かが沙綾の()()を通り過ぎた。


「……………」


 恐る恐る、沙綾は背後を振り返る。

 振り返った時にはもう何もなかった。しかし道路にはくっきりと、黒い線が二つ描かれている。

 沙綾は専門家でもなんでもないため、断言なんて出来ない。だがテレビドラマで見た、『ブレーキ痕』によく似ている気がした。

 だとすると今し方、自分が渡ろうとした瞬間急ブレーキを掛けながら突っ込んできた車がいたのか?


「っ……!?」


 ぞわりと、悪寒が走る。恐ろしい。何が恐ろしいかと言えば、ブレーキ痕は明らかに横断歩道を渡りきっている。

 つまりブレーキを掛けたのに、全然横断歩道の手前で止まれていない。

 もしも駆け足で横断歩道を渡っていたら、この車が突っ込んできた場所に立っていた可能性が高い。やはり専門家ではないので断言出来ないが、ブレーキ痕が残るような猛スピードだ。ぶつかったらただでは済むまい。

 大事故を、寸でのところで回避したようだった。


「ひ、ひぇぇ……つ、ついてる……?」


 『幸運』を感じて独りごちれば、ふと沙綾は思う。

 これもまた、神社のご利益なのか。

 きっとそうだと思った。横断歩道の前で偶々蹴躓くなんて、そんな事滅多にない。人生で一度もなかったとは言わないが、覚えがないぐらいには珍しい事で、それが暴走車が通った瞬間に起きるなんて幸運以外の何物でもない筈だ。

 ――――沙綾はオカルトなんて信じていない。

 信じていないが、この時ばかりはご利益というものに、なんの疑いも持たなかった。

 ……………

 ………

 …

 その後到着した学校でも、幸運に恵まれた。


「今日は抜き打ちテストをやるぞー」


 一時間目の授業である英語にて、教師から抜き打ちテストを告げられた。

 教室にいる生徒達からブーイングが起きる。沙綾も(ノリと本心から)ブーイングに参加。恐らく文句を言っていないのは、由香と千歳ぐらいだろう。

 いくら文句を言ったところで、先生がテストを止める訳もなく。ただ、慈悲なのかなんなのか、十分間の勉強時間は与えられた。

 与えられたところで、沙綾に何が出来るものではないが。


「(ぐぬぅおおお……! せ、せめて由香が近くにいればぁ……!)」


 由香はこの学年でトップの成績上位者。期末試験前などでは、何時も分かりやすく勉強を教えてくれる。

 しかし沙綾と由香の席は離れている。だから今、何処が出そうかなどは教えてもらえない。千歳も離れた場所にいるため、やはり相談も何も出来ない。

 仕方ないので、沙綾は一人で頑張るしかない。英語の教科書を開き、何かを覚えようとする。しかしテストで何が出るか分からない。期末なら(学年トップの由香曰く)「習った範囲を全部覚えりゃいいのよ」で済むが、抜き打ちテストにそんな時間はない。

 先週やった事はなんとなく覚えている……気がするので、先々週ぐらいの、何も覚えていない場所を開く。単語や文法など、何を覚えればいいかも分からないが兎に角目を通す。


「はい、時間だ。全員教科書をしまえー」


 無情にも時間は過ぎ去り、テスト開始が告げられる。

 色々覚えたような気もするが、何も覚えていない気もする。今この瞬間にも次々と忘れている実感だけはある。不安しかないが、やるしかない。


「ちなみに十点満点で、五点以下の奴は来週同じ問題で再試験だからなー」


 後から付け足された話に更なる不安を覚えながら、沙綾は配られたテスト用紙に名前を書き――――


「という訳で私は再試験を回避したぜ。ふふーん」


「わぁー。沙綾ちゃんすごーい」


 英語の授業が終わった後の十分休み。丸付けが終わった試験用紙を自慢気に掲げ、沙綾は胸を張る。その答案を見て、千歳は抱擁力のある優しい声色で褒めてくれた。


「回避も何も六点だからギリギリじゃない。単語の意味当てが全問正解で、書く方は一問しか合ってないし」


 なお、由香はきっちり現実を突き付けてくる。

 その言葉に多少のダメージがないとは言わないが、沙綾は成績上位者を目指していない。再試験を回避出来れば十分である。


「良いのよ、私はこれで。再試験さえ躱せれば」


「再試験にしても、今回と同じ問題なんだから楽勝でしょ……ああ、でも、珍しく単語の意味は全部答えられたみたいね」


「へっへっへっ。山が当たったぜ」


「いいなぁー。私はいまいちだった」


 千歳はそう言いながら笑う。いまいちと言いながら、七点を取っているので沙綾より上なのだが。

 ちなみに偉そうな事を言っている由香は当然のように十点満点。「こんなもの授業を真面目に受けていれば余裕でしょ」と、当たり前のように言うのがこの女である。


「山を当てても実力じゃないんだから、意味ないでしょうに」


「うっさいなー。優等生のアンタに私らの気持ちは分からないぜ」


「そーだそーだ」


「千歳はそっちの仲間入りでいいの? 言外に劣等生扱いされてるけど」


「人を劣等生ゆーな。ま、確かに運でどうにかしたけどさ。これもやはりあの神社のご利益かな」


 幸運を誇るように沙綾が言うと、由香は眉を顰める。


「……なんでも運で片付けんじゃないわよ。それがアンタの実力って事でしょ」


「え? 平均以上ってこと?」


「ギリギリ合格点ってこと。幸運に恵まれてるとか言って堕落したら、すぐ最底辺に落ちるわよ」


 由香の言葉に、沙綾はちょっとバツが悪くなる。その言い分は、確かに正論だ。今回は運良く合格点が得られただけで、その運があってようやく合格点程度とも言える。

 勉強については、努力を怠るべきではない。もうすぐ受験生(何処の大学に行こうかも決まっていないが)なのだから、ある程度の勉強はすべきか。

 ……それはそれとして。


「幸運なんて、得られるものじゃないんだから」


 幸運自体を否定されると、ちょっとムッときた。

 幸運に助けられたと感じる出来事もあったのに、と。


「うーん。でも今朝も運が良かったし、やっぱりご利益はあるんじゃない?」


「……ああ、車に轢かれそうになったけど助かった、ってやつ?」


「そうそう」


「それだって偶々でしょ。ハインリッヒの法則によれば、一つの重大事故の裏には三百の異常があるとされているわ」


「えっと……それはどういう意味?」


「車に轢かれて人が死ぬ前に、轢かれずに助かった人が三百人いるって事よ」


 大きな事故が起きる前に、事故にならないトラブルが多数起きているものだ、と由香は言う。

 暴走車の運転手も、意図的に人を轢こうとしない限り、早々交通事故にはならない。寸前で止まったり、回避したり、色々な理由で事故にならずに済んだ例がある。

 それでも何時か大事故を起こすだろうが、事故にならなかったトラブルの方が遥かに多い。沙綾が遭遇したのは、そんなトラブルの一例に過ぎないという。


「人間は想像力が豊かな生き物だから、色んな事を紐付けしちゃうの。神社にお願いする前から、危ない車に遭遇して助かった事例はあった筈。だけど神社にお参りしたから、ちょっと珍しい出来事を幸運だと思ってしまうの」


「ぐぬぅ。そこまで理詰めで説明せんでも……」


「というかこれ、霊感商法とかカルト宗教のやり方よ。良い事があったらお祈りのお陰、悪い事がお布施が足りないって言うの。別に、お布施もお祈りもしなくても幸運な人はいるし、不幸な人もいるのにね」


 きっちり反論されると、沙綾に反論は思い浮かばない。むしろ納得すらしてしまう。

 考えてみれば自分はオカルトを信じていなかった筈。昨日の財布の件を含めても、たった三回幸運に見舞われただけで神社のご利益を信じてしまうとは……と、自分の信じやすさに驚くぐらいだ。


「うう……そっか」


「もー。由香ちゃん、言い過ぎ」


「カルトに騙されるよりは、余程良心的じゃないかしら」


 反省しない由香に、千歳はぷりぷりと音が聞こえそうな、可愛らしい怒り方で抗議する。

 そうこうしているうちに休み時間は終わり、次の授業が始まる。由香と千歳も自席に戻り、沙綾も教科書などを机に出す。

 次の授業は数学。


「(本当に幸運なら、英語の小テストが当たるより、数学の授業が休みになってくれないかなー)」


 そんな事を思いながら先生が来るのを待つ。

 数学教師がインフルエンザで休みになったという話が来たのは、更に数分後の事だった。






 その日から、沙綾は幸運を自覚する時が増えた。


「ねーちゃーん。俺のスマホしらねー?」


 例えばある日の夜。家のリビングでソファーに座りながらテレビを見ていたら、弟がそんな事を言い出した。


「スマホ? 見てないけど」


「うーん。何処かなぁ」


「鳴らそっか? ……って、ありゃ。私のスマホもないじゃん」


 何処に行ったのか。自分の行動を頭の中で思い返しながら、沙綾は自室に戻って探してみる。

 その探す中で、本棚の裏に五百円玉があるのを発見した。金欠気味だったこの時の沙綾にとっては、びっくりするほど嬉しい発見だった。

 ちなみにスマホは一時間ほど探し回った挙句、ソファーの隙間に落ちていた。弟のスマホと仲良く並んでいて、「正に姉弟ね」と親から馬鹿にされたが。






 また別の日。通学途中の道にて、奇妙な人に出会った。

 三十代ぐらいの男だった。目が虚ろで、何処を見ているか分からない。ぶつぶつと独り言を呟き、ふらふらと歩いている。服装はパジャマのような、少なくとも外着ではなさそうなものだった。

 見た目で人を決め付けるのは良くない。そうは思うが、なんだか気味が悪い。生理的な嫌悪感に突き動かされ、沙綾は大きく通学路を迂回する。

 しかし沙綾は何時もギリギリ気味に登校している。迂回なんてすれば当然遅刻になり、先生にこっぴどく叱られた。宿題まで出されてしまった。

 ところがその後スマホに入ってきたニュースで、高校周辺で通り魔事件が起きたと入ってきた。学校でも教師達が忙しなくしていたが、犯人が逮捕されたという事で帰宅の制限などはなかった。

 そうして家に帰り、夕飯時に見たニュースで、犯人の顔が映された。

 沙綾が通学時に見た、奇妙な男だった。

 持っていたナイフで通行人二人を刺した、一人が死んだ、もう一人は意識がない……他人事のように伝えられるニュースだったが、もしかすると自分の事が話されていたかも知れない。

 あの時迂回するという考えに従えた事は、幸運と呼ぶ以外になかった。






 そんな訳で幸運を信じて、コンビニでやってた一番くじに挑んでもみた。欲しいのはA賞、人気キャラの三十センチフィギュア。

 ……五回やったところで、E賞ばかりだったので諦めた。財布にはまだ三千円ぐらい残っていたが、これを使い果たすと学校での昼食が駄菓子か水になってしまう。

 とぼとぼ歩きながら帰り、何気なくポケットに手を入れたところ、持ってきた筈のスマホがないと気付いた。落としたか!? と思ってあちこち服をまさぐる。

 まるでその隙をつくように、大きな手が沙綾の腕を掴む。

 驚いた沙綾は悲鳴も上げられず、路地裏へと引き込まれた。薄暗い中で藻掻き、遅れて叫ぼうとしたが、口も大きな手で塞がれてしまう。

 そして肩越しに聞こえる、荒々しい吐息。

 気持ち悪い。おぞましさに叫びたくなるが、口はがっちりと塞がれ、ます何も声が出せない。それどころか息も満足に出来ず、段々苦しくなってきた。手が大き過ぎて鼻まで塞いでいる。

 せめて息だけでもと必死に藻掻くが、暴れるほど口と鼻を塞ぐ力が強くなる。段々頭が回らなくなり、意識が遠退き……


「おい! そこで何をしている!」


 誰かが、大きな声を出してくれた。

 途端手は退かされ、何処かに逃げていった。沙綾は駆け付けてきた人達に助けられ、あれこれ聞かれたが、酸欠で上手く喋れない。

 その後警察や救急車が来て、色々と教えてくれた。

 暴漢が自分を襲おうとした事、沙綾がコンビニでスマホを落としていた事、そのスマホを届けに来た店員が大声で暴漢を威嚇してくれた事……もしも沙綾がスマホを落としていなければ、大変な事になったかも知れない。


「本当に運が良かったですよ」


 警察から伝えられた言葉に、心底沙綾は同意した。

 幸運。

 何処にでも幸運という言葉が付いてくる。恵まれているという感覚を、日々感じる。神様に愛されているという実感が、安心感を与えてくれた。

 沙綾は無宗教だ。神様なんて信じていないし、宗教なんて戦争やカルトの題材ぐらいにしか思っていない。

 だけど何かに守られている、愛されていると思うだけで、日常の不安が払拭された。これからもきっと毎日上手くいくと、前向きな気持ちでいられる。

 全て幸来神社のご利益のお陰だと、心から思うようになった。

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