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最後の晩酌

 薄暗い部屋にまた、刹那の影が伸びる。稲妻が暗闇を照らし出しては轟音を響かせ、その度に古びた窓枠がガタガタと揺れた。

 天の泣き叫ぶ声が世界を震わせている。その涙が世界を丸ごと洗い流そうとしている。一体何を嘆いているのだろう。自分で世界を壊そうとしているくせに。泣きたいのはこちらの方だ、全く。


 コツコツと地を踏む音が近付いてくる。人の子一人の立てる音は、神の泣き声を誤魔化すにはあまりにも小さい。だが、確かに感じる。今部屋の前で立ち止まった、人一人分の気配。

 軋む扉の開く音。そこで再び視界に光を招き入れ、ゆっくりと顔を向ける。

 雨水の滴る熟年の男が一人、「よぉ」と片手を挙げた。

 意外な訪問であった。とはいえこんな夜だから、人と出会えたことにどこか安堵も覚えているのも確かだった。本心から微笑みを浮かべて返す。


「久しぶり。よく来たね」

「本当によく来たよな。全く馬鹿みてえだ」


 彼がびしょ濡れの上着を脱ぐと、さらに水が垂れて辺りの床を濡らした。それをハンガーラックに雑に引っ掛ける彼を横目に、こちらは台所へと向かう。


「酷い天気だね」

「山の高いとこからこの辺りまでずっと雨雨雨。下流の湖んとこはもう氾濫したとよ」

「最悪だね」

「ああ、本当に」


 戻ってきてコトリとグラスを置けば、彼はその前にどかっと身を投げる。

 

「城下町も無事ではいられないだろうね」

 

 瓶を傾け酒を注ぐ。空のグラスに一杯、それから、既に二割ほど入ったグラスにも注ぎ足す。


「城下町どころじゃねえよ。国中水浸しだ。この村もな」

 

 席に着く。稲光を合図に、片手でグラスを持ち上げ、乾杯。こちらが一口飲んでグラスを置くと、彼の喉を鳴らす音が聞こえた。しかし一息でグラスを空にした後のため息は、遅れて届いた低い雷鳴に呑まれて消えた。何を騒いでいるんだと口の中で尋ねるも、当然返事はこない。代わりに、向かいの彼が口を開いたのだった。


「どうやら、今夜世界は滅びるらしい」

「知ってるよ。雷雨如きで大袈裟だ」

「俺らにとっちゃこの国が世界そのものみたいなもんだ、何も大袈裟なことじゃない。お前だって結局、ただ強がってるだけだろ?」

「否定はしないよ」


 外国に逃れるなどという選択肢はない。不可能なのではなく、するつもりがない。だって、足掻いたところでどうにもならない。命運は神のみぞ知るところ。自分はそれをただ受け入れるだけ。もし本当にこの国が滅びるのなら、自分も一緒に泡となるだろう。


「どうだ、長いこと見守ってきた国が滅びると聞いた気分は?」

「悲しいよ。とても」

「そうか。泣いてもいいんだぞ」

「泣かないよ。子供じゃあるまいし」

「そりゃ残念だ。俺が慰めてやったのに」


 なんだ。ずいぶん優しいな。曖昧に笑って返す。せっかくなら甘えてもいい気分ではあるが、残念なことに泣けないのだ。涙が出てこない。鬱々とした気持ちが胸の中に溜まる一方で、吐き出す術がわからない。

 ぐっと一口酒を仰ぐ。グラスを置けば、濡れた髪の男がこちらを見つめていた。


「ところで君はどうしてここに来たの?」


 この豪雨の中、世界が滅びる前夜に、わざわざ。最期を共に迎える相手としてはなかなか渋いチョイスだと思う。彼は現在寡夫であり、子もいない。とはいえ仕事仲間だとか、故郷の旧友だとか、彼は多くの人に愛されていたから、最期を共に迎える人は他にもいるだろう。

 それに、長らく続けている彼との関係は、()()()()()()ではなかったはずだ。


「意外だな、聞きたいか?」


 彼がよく浮かべる、おどけた笑み。その間も彼は真っ直ぐにこちらを見つめていた。彼の昔からの癖。出会った当初は、こちらが異端な存在故に警戒しているからだと思っていたが、時を経てそうではないと知った。彼の観察力の理由がそこにあった。戦士として戦場を見極め、また兄貴分として仲間を守る、その礎となる習慣。僅かな異変も見逃さぬ視線。彼の強さの象徴。尚も健在であることに安堵を覚える。

 小さく頷いてみせると彼は、「ふ、」と柔和に笑った。


「理由なんてねぇよ、ただ会いたくなっただけだ」


 その言動に、刺される。その純粋な笑顔に混じった微かな寂寥が、しまったばかりの引き出しを開け、中を照らし出す。闇の正体が露になる。

 ああ、どうして。


「……ちょっと、解せないな」

「なんでだよ。喜ぶところだろうが」

「会いたいって気持ちだけで会うことこそ、もっと日常的なことであるべきだと思う」

「何言ってんだ、お前?」


 苛立つ。言うまでもなく、己に。ずっとずっと知っていたはずのことだ。長年の憂いの原因、生の苦しみそのものみたいなものだ。どうして、忘れていた。


「いつだって僕らが会うのは何かのついでだった」

「そうだな。俺がこの村の近くを寄った時とか、お前が旅先で俺の仕事場に遭遇した時とか」

「ただ他愛もない話をして、次に会う約束も作らず手を振った」

「ああ。俺らはそういうもんだろ」

「そう、そうなんだよ。ずっとそうやってきた。でもそれが崩れた」


 本来、会うことを特別視するべきではないのだ、と思う。理由などいらない、自分たちは古き友なのだから。会える時に会えばいい。最後に会った日から幾年幾月経ったかなど、日常の中ではほとんど考えない。それが当たり前だった。だって、その状態がいちばん心地良いから。でも。

 その前提には、「また会える」という確信がなきゃ成立しない。


「君が来てくれたからだよ。当たり前に慣れすぎて、会いたいって気持ちすら忘れてしまっていたんだ」


 世界だって同じだ。明日が来るのが当たり前の生活。終わりに出会って初めて、当たり前ではないことに気付く。己が生きているという事実も。そばにいる人に会えるという事実も。大切だってわかっているくせに、大切の仕方がわかっていない。ああ、悔しい。


「ありがとう。最後に君に会えてよかった」

「おいおいやめろよ、まだ終わっちゃいないぜ」

「そうだね。終わりまで付き合うよ」


 ぽつぽつと雨粒が窓を叩く。愚かな人々を憂い嘆く遠雷の音がする。湿気に満ちた部屋は暗くて、冷たくて。しかし体温が上がっているせいか、この温度が妙に馴染む。

 それは彼も同じだったようだ。先に寝落ちたのは彼の方だった。机に突っ伏して眠る彼の静かな息遣いが、雨音に混じって確かに鼓膜を揺らす。そうして耳を澄ませているうちに、間もなくこちらの意識も深い眠りへと落ちていったのだった。




 ――夢を見た。

 踏みしめる大地も、頬を撫でる風もない。深い深い海の底。身動きもままならない浮遊感の中で、不意に誰かに名前を呼ばれた。周囲を見回しても何も見えない。気配すらない。だが、確かに聞こえる。恐る恐る、口を開く。あなたは。ぷくぷくと(あぶく)が目の前を上昇していく。返事はただ、名を呼ぶ声だけ。それでも繰り返し、尋ねる。あなたは誰だ。どこに――。

 (あぶく)を目で追って、ふと顔を上げた。遠く見える水面から、屈折した光が差し込んでいた。カーテン越しに入り込む春の午後の日差しみたいに、ぼんやりと、あたたかく。

 気付けば、水を掻いて泳ぎだしていた。上へ、上へ。理由など、ただなんとなくそこに呼ばれている気がしただけだ。それだけで十分だった。水面が近付くにつれ息が苦しくなる。末端の感覚が痺れ、上手く身体が動かせなくなる。耳の奥で、己の体が脈打つ音が聞こえる。視界がぼやける。まだ、まだだ。足掻け。

 もう一度、名前を呼ばれた。

 お願い、引っ張りあげて。水上まで連れて行って。どうか、終わらせないで。

 手を伸ばす。揺蕩う光をすり抜けた指先が、冷たい水を纏って空気に触れる。



 

「――おい! 起きろ!」


 ビクリと身体を震わせて目を覚ます。薄汚れたテーブルに空のグラスがふたつ。視線を下に動かせば、濁った色の床が歪んで見えた。足を動かすと、そこを起点に波紋が広がる。


「おはようさん」

 

 声の主を振り返ると、窓を開け放ち日光を浴びる友が、眩しそうな顔で笑っていた。


「おはよう。様子はどう?」

「どうも何も、世界は滅びなかった。見ての通り、水浸しにはなったがな」


 世界は滅びなかった。人々の祈りが届き、天は泣き止み、小鳥がさえずりお日様の微笑む(あした)が訪れた。


「……ふ、」


 一度吹き出してしまうともう我慢ならなかった。なんだこれ。初めはくつくつと、やがて声を出して、狂ったように笑い出す。なんだこれ。


「おいどうした? 頭でもぶつけたか?」

「ふふ、いや、だって。僕らみんな揃いも揃って噂を真に受けて、馬鹿みたいだ」


 こちとら溺れて死に絶える覚悟でいたのに、こんな、ほんの川遊び程度の浸水で終わるなんて。なんてひどい仕打ち。あまりにも滑稽。昨晩の自分たちが可哀想だ。


「あの雨じゃ信じるのも仕方ないと思うけどな。結局、噂は噂だったわけだ」

「最高だね」

「ああ、本当に」


 笑いすぎて涙が出てきた。「おいおい」と呟く声が耳に届く。指先で目元を拭い、濡れた人差し指を親指と擦り合わせ、涙は揉み消す。

 呼吸を整えていると、窓の外から飛び込んできた風が古い窓枠をノックした。

 雨上がり特有の、大地の匂いがした。


「いい天気だね。散歩でもする?」

「呑気だな。ぐしょぐしょになるぞ」

「もうなってるよ」


 泥水を足で掻き分けて、玄関口へ向かう。友の小さな笑い声。後ろをついてくる足音。

 世界は終わらなかった。ならば、これからも見守り続けるとしよう。いつの日か終わるこの世界を、人々を。明日の存在を愛し、末永き未来を祈って。

日本滅亡、なんて言われていた頃に思いついたものです

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