酒は憂いの
外を見ると、湖面に月が反射していた。窓辺に寄りかかって一人晩酌をしていた夜。そのまま視線を上に上になぞっていくと、地面に広がっていた夜空は途切れ、更に上を向けば、遠く聳え立つ城までがはっきりと見える。些か呑気すぎる空模様。腹が立つ。せっかく心を落ち着けていたのに、これでは結局雑念の餌食じゃないか。
思い立って、酒瓶を左手に、ふらふらとバルコニーに出てみた。こちら側ならば城も見えまい。月が見えなくなったのは癪だが、まぁ良い。
ところが先客がいたようだ。柵に背を預けて、どこか遠くを見つめていた深緑の瞳がこちらを捉える。見覚えのある顔だった。当然だ、今日の宿の受付は自分が担当したのだから。つい数時間前に見た宿泊客の顔を忘れるほど歳をとった覚えはない。
「飲むかい、兄ちゃん?」
目が合ったから微笑んでみた。が、言った後で、グラスがないことに気がついた。酒飲みに絡まれたその青年は、随分と穏やかな表情で微笑み返す。
「遠慮しておきます」
「酒はいいぞ? おかげで夜もぐっすりだ」
元々酒は好きな方だった。暇を持て余すようになってからは、飲む量も頻度もぐっと増えた。最近はもはや日課に近い。身体に障るとはわかっているが、もう十分傷物の肉体だ、今更早死したところでどうってことはない。
「嫌いではないんですけど、僕は酔うと些か感傷的になりすぎてしまうので」
彼の隣に行き、柵に片肘をかけて村を見下ろす。
今日は城の騎士団の一行が村に来ている。南の方の魔獣討伐から帰る途中だそうな。今頃、村人共々どんちゃん騒ぎしているはずだ。酒場の窓から漏れる灯りがひどく眩しかった。
「気が合うな。俺も割とそっち系だ」
夜が来ると、なんとなく腕が軋む感じがする。しかし癒しを求めて酒を飲むと、センチメンタルな自分が心を蝕む。だからいつもは酒を腹に流し入れて、気絶するように眠りにつく。
ところが、今夜は酒場で宴。宿の主の夫妻はそちらに出掛けているから、帰ってくるまでは自分が当番をしていなければならない。どうせ今から来る客などないけれど。
「……その右腕は、いつから?」
そっと背に手を置くときのように、躊躇いがちに、青年が尋ねてきた。素面の癖にもう繊細さが垣間見えていて、好感を覚える。
「もう十月くらい前かな。戦争中に落としてきた」
つい半年前まで続いていた戦乱の最中、利き腕を失った。今、自分の右肘から下には空白がくっついている。欠けた部分を探して平原を歩いても、もうどこにも見つからないだろう。
「痛いですか?」
「まさか。今となっちゃ不便なだけだよ」
「……痛かったですか?」
「そりゃもう。長いこと眠れない夜が続いてね」
思えば、酒で眠るようになったのもそれが理由だった気がする。斬られた直後よりその後の痛みの方がずっとずっと苦しかった。絶えず痛みに魘され、眠れなければ心まで参ってしまって、気高く生きていた騎士の精神も、脆くなってどこかに消えてしまった。
「でも、生きてる限り、人生は続くんだよなぁ」
くだらない戯言だった。そんなの、当たり前だ。当たり前すぎて、誰も考えやしないようなことだ。なのに、片腕を失くしてからここ最近ずっと、頭にこびりついて離れてくれない。
生きている限り人生は続く。片手しか使えない生活、退屈な宿当番、毎晩訪う憂鬱、眠るために飲む酒。生きている限り続く。
「そうですね。生きている限り、人生を満喫しようがある」
彼のその一言で一気に気分が落ちた。
「なんだよ、アンタは憂う側じゃないのかい」
人生を満喫、なんて。未来に希望ある者が言う台詞だ。酒を飲んで感傷的になっている奴には皮肉のような言葉だ。気遣い上手のくせに、真意を読み取るのは下手ってか。まさか、そんな訳。
「だって、せっかくここまで頑張って耐えて生き延びてきたのに、結局救われる前に死んでしまったら、過去の自分になんて言い訳したらいいんですか」
別に、何も。仕方がなかったとしか。元々生き延びた理由だって、本能として生きることに必死だっただけで。未来に救われる保証なんてどこにもなくて。頑張って生きてきて尚苦しむ自分を楽にしてやってもいいんじゃないか。むしろ頑張った結果がこれなら仕方がないとすら。
――胸が痛む。どこかに消えたはずの強き気高き精神が、まだ隠れていた、心の奥底で叫んでいる。
全く。仕方がないはずなんてないだろう。
彼の言う通りだ。ここでくたばってどうする。何のために今まで頑張ってきたんだ。救われたかったんだろう? 死にたくなかったんだろう? だから足掻いて来たんだろう? 自分で過去の自分を無碍にしては元も子もないじゃないか。
「僕だって憂いは尽きません。当たり前に、生きるのは大変です。でも、いずれ然るべき時は来るんだから、それまで人生を謳歌するのも良いんじゃないかなって、思います」
もうどうしようもない自分だが、今までどうにか足掻きながらも生きてきた自分のことは肯定してあげられる。それは決して決して、絶望の最中に漂う死のことではない。そんなもの、全くもって救済などと呼べやしない。
諦めたくないと、幸せになりたいと祈った自分を大切に守り抜くのだ。その結果、今を肯定してあげられるようになれば。そうすれば、きっと。
「強いな、兄ちゃん」
「それほどでも」
「ありがとな」
持っていた酒瓶を右腕で抱え、自分に唯一残っている手を差し出す。
目の前には、悠々穏やかな、しかし心から嬉しそうな笑顔。その口から発せられた、頼もしい「どういたしまして」が耳に残る。握った手からはまめの凹凸を感じた。
きっと、彼も過去の傷を抱えてきたのだろう。数えきれない夜を越えてきた答えがそれなんだろう。
「あれ、先輩!?」
突如響いた聞き覚えのある声に、心が揺れる。
振り向けば、酒場の前でかつての後輩が、赤い顔をして手を振っていた。
「元気でしたか!? 全然音沙汰ないから心配してたんすよ!」
彼のよく通る声に、続々と中から他の騎士たちが顔を覗かせる。こちらに気付くと皆揃って「先輩!」と陽気に笑った。
「先輩なんでそんなとこで酒飲んでんですか! 一緒に飲みましょうよ!」
それだけでもう、泣きそうになった。今までの憂いを思えばこんなことでと思うのに、馬鹿みたいに、心が尻尾を振って喜んでいるのを感じる。
きっと、それくらいが良いのだろうな。簡単なことではないけれど。
「待ってろ、すぐ行く」
宿の当番のことが頭に過ったが、別に良いかと知らんふりすることにした。宿の主人に何か言われたら、忘れてたとでも言えば良い。
「兄ちゃんも来るか?」
「いえ」
「そうか。じゃ。ゆっくり休めよ」
「はい。楽しんで」
また話したいな、と思った。でもきっと、酒を飲み尽くして宿に戻る頃には、もういなくなっているだろうと思った。仕方ない、彼にも彼の人生があるのだから。再び相見える日が来ることを願うとしよう。
酒瓶を左手にぶら下げて外に出ると、賑やかな騎士の面々が出迎える。背後からなんとなく視線を感じたけれど、振り返ることはなかった。




