追憶
何か欲しいものはあるか。
立ち上がるのに借りた手を繋いだまま、嗄れた声でその老爺は言った。命を助けてくれた礼に、欲しいものを一つ差し上げよう。其方が望むなら、儂の知っている魔術を伝授することもできる。
思い当たることはただ一つ。迷う余地などなかった。
「過去を鮮明に思い出す魔術を教えてください」
じっ、と老魔法使いを見つめる。だが彼は、繋いでいた手を放してゆるゆると首を振った
「残念だが……。師匠が知っていたときいたことがあるが、儂には使えん」
「じゃあ、もう忘れないようにできる魔術とか」
「儂が欲しいくらいじゃ。最近は物忘れがひどくてのぉ」
カカッと笑う老爺の横で、ううむ、と唸って考える。直接その術がなくても、使える術の組み合わせを捻れば似たようなことはできるかもしれない。何を使える。何が必要。
「人は忘れる生き物よ」
老爺が手元の分厚い本に視線を落とした。目線を向けてみたが、そこに綴られているのは、魔術に関する記述ではないようだった。
肩を落として、ゆるゆると首を振る。
「どうしても、忘れたくない記憶なんです」
本当はわかっていた。忘却は生物にとって必然の機能だ。どれだけ足掻いても逃れられない。わかっていて、どうしても受け入れられなくて。
――あの人の声を、笑い方を、言葉を、匂いを、思い出せなくなった。
あんなに毎日反芻して、思い出さない日などなかったのに。不意に自分の記憶に不安を覚えてしまって、そうしたらもう、流れ出して止まらなくなった。早く、早く掻き集めないと。手繰り寄せるほどあの人が泡沫のように消えていき、安らかに眠ることさえ怖くなった。
「お主にとって、記憶とはなんじゃ?」
記憶。体験した過去。それを覚えているということ。
「思うに、記憶と過去は等しきものではない。前者は、人が勝手にでっち上げたものだと思うんじゃよ」
パタンと本を閉じて、老爺はこちらを見上げた。長い無精髪の隙間から、鈍く光る黒い眼が覗き、念押しするようにこちらを見つめた。
「現に、人は過去を正確には覚えていられぬ。都合よく塗り替え、美化し、それを大切に抱えている。なぜならそれが記憶の本質だからじゃ。美化することで人は過去から自身を守る。わかるかね」
ああ。わかる。よく知っている。だから煩わしいのだ。
「なら、僕が欲しいのは記憶じゃなくて過去そのものです。自己防衛の補正で歪んでしまう記憶なんか、持ってたって意味がない」
綺麗な記憶じゃなくていい。もう既に美しくなりつつある記憶を、当時の辛い痛いぐちゃぐちゃの感情で壊してしまっても構わない。過去の傷がこの身を蝕んでも、いっそ噛みついたままずっと痛みを残していてほしい。
そうしたらそれを、原動力にするから。寂しさすら痛みすらそのままに愛してみせるから。
「――儂は、過去を記す術を知っておる」
顔を下げて、ポツリと老爺は呟いた。彼の手元の書物が目に入る。まさか。
「しかしそこには、絵も音もない。ただ文字化しただけの過去じゃ。其方は、この術に魅力を感じるか?」
欲を言えば、文字じゃ足りない。なぜなら言葉だと齟齬が生じるから。補正機能が記憶を歪めるみたいに、誤読が理解を歪める。果たしてこの術は、どれだけ正確に世界を言語化できるのか。そして自分は、どれだけそれを正確に読み取れるのか。
本当は、視覚も聴覚も触覚も何もかも、感じた過去のまま知りたい。歪んでない記憶とやらがあるならそれが一番いい。
でも。今は、これで十分だ。
「はい。とても、欲しい」
「……そうか。ならば、儂はこれを伝授するとしよう」
すまんな、と彼は言った。
いいえ、と答えておいた。
確かに、本当に欲しかったものは得られなかった。でも、自分が求める術がこの世に存在することがわかっただけ前進だ。
それに。もし本当に記憶を鮮明に覚えていられるなら、いよいよ自分は狂ってしまうだろう。記憶自体の美化補正がなくても、いや、ないからこそ、痛みと幸福の挟間で心が乱高下して、感情に振り回されて、正常な判断もできなくなるかもしれない。愛しい思い出に狂えるならそれもそれで悪くないと思えど、まだ少し早い。まだ、早まるべきではない。
これで良かったのだ。必要になれば、また探しに出かければいい。
今は、そう思っておくことにする。
忘れたくなる辛い思い出も多いけれど、それよりも忘れたくない大事な思い出の方が強い




