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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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赦しⅠ――潰える幻想

 ゾラの棲家での生活は、ある種の奇妙なリズムで成り立っていた。日の光を避けて眠り、夜が全てを覆う頃に起き出す。そして夜が深まった頃、日常の決まった一幕として、それは行われる。

 吸血行為――

 ヴァンパイアにとってそれは生命の根源に触れる行為であり、単なる生存を超えた特別な意味を持つ。

 特に、相手がただの獲物でない場合。そこには剥き出しの信頼と、命の共有という、深淵にも似た繋がりが生まれる。

 ミハイルにとってゾラから与えられるそれは、“儀式”と呼ぶには静かすぎ、“習慣”と呼ぶには深すぎた。

 彼女の血が喉を落ちていく一瞬だけ、世界の輪郭が変わる。

 あれは、彼にとってだけ密やかに形を変えるひどく私的な時間だった。

 ゾラの部屋の扉を開ける。許されているとはいえ、この瞬間はいつも――試練に似ていた。

 ミハイルは静かに足を踏み入れる。

 室内は冷ややかで。けれど、肺が痛くなるほどに甘い。

 薄衣のゾラが寝台に腰かけ、脚を組んでいる。まるでこれから行われることがただの定例業務だとでも言うように。

 彼女は本を閉じ、ふと目を伏せる。

「……時間ね」

 それは機械的な確認のように。

 ――契約の条件。使い魔への、施し。頭では理解していた。

 これはゾラがミハイルに与える、定期的で形式的な報酬。彼女にとってはただの給餌に過ぎなかった。

 彼の思い描くような儀式めいた重みも、親密さも、本来はどこにもない。

 だが、それでも。

 理由なんて分からないのに、胸の奥が決まって熱くなる。

 ミハイルはゾラの前に膝をつき、彼女を見上げる。その瞳は彼を見ているようで、違う。遥か遠く――何もない虚空を見つめている。

 喉の奥で息を殺す。心臓が、喉が張り裂けそうなほど鳴っている。

 この行為は何度繰り返しても慣れることはないだろう。緊張と、期待と、畏怖が入り混じった感情の奔流に身体が震える。

 ゾラは細い指で髪をかき上げた。抵抗も、警戒もなく。絶対的な無防備がそこにあった。

 露わになる首筋――その白さの中に、かつて彼が穿った牙の痕が、残酷なほど鮮やかに焼き付いていた。

 彼の世界の全てを支配する魔女が、最も脆弱な部分を今、使い魔であるミハイルに預けている。

 ――信頼?

 それは確かに信頼とも言えるだろう。だが、それだけではない。

 この瞬間、主従の力関係は奇妙な形で逆転しかねない。

 彼女は無防備。そしてミハイルは、彼女の命の源に直接牙を立てようとしている。

 震える手で、彼はゾラの滑らかな首筋に触れる。ひやりとした皮膚の下で脈動を感じる。強く、規則正しい生命のリズム。その脈動が、ミハイルの血を沸騰させるようだった。

 支えるように、或いは逃さないように……彼女の腰にそっと腕を回す。

 逸る本能のままに腰を浮かせ、長い背中を丸めて、小柄な主の懐へと縋り付く。

 細い首筋に牙を立てる。少しの抵抗感の後に皮膚が破れ、温かい血が口の中に広がる。

 ゾラの血。あの夜、彼を救い上げた……甘美な味。

 身体に火が灯るような感覚。魂の器に、熱が注ぎ込まれるような。

 ――ドクン。

 その瞬間、喉の奥で鈍い音がした。それは彼女の血流か、それとも彼自身の本能か。

 このまま深く咬めば、彼女を殺せてしまう――

 たった一滴の毒のような考え。その考えにミハイルの全身が凍り付く。心臓が止まりそうだった。

 ゾラを殺す? ありえない。考えたことすら、冒涜だ。そんなことは望んでいない、望むはずがない。

 それでも、牙を立てた者だけが持つ()()()として、確かにそれは存在してしまった。

 ミハイルの指先が僅かに震える。

 喉を過ぎる血の温かさは、彼にとって魂を洗われるようなものだった。それが自分に注がれる唯一の“恵み”であると知っていたから。

 それを汚すことなど、決して許されてはならない。

 ――信頼に応えなければ。

 圧倒的な力を持ちながら、この瞬間、僕に命を預けてくれた彼女の信頼に。僕の牙は彼女を傷つける為ではなく、彼女から「与えられる」為にある。

 快楽が再び五感を支配する。血の熱、体の奥底からの疼き。

 これは儀式だ。ゾラが選び、ミハイルが仕える。流れ込む血は、その繋がりを形にしたもの。

 彼女の体温、匂い、味――それらが彼の世界をゆっくり満たしていく。理性が沈み、思考はただ「ゾラ」という音に吸い寄せられる。

 ゾラは微動だにしない。痛みも快感も、何も存在しないかのように、ただ静かにそこにいる。

 まるでこの行為が自分とは無関係な遠い出来事であるかのように。

 彼女はミハイルの心の嵐に全く気付いていない。

 満たされる身体。そして、それ以上にじわりと温度を帯び、満たされていく心。

 ゾラは、僕を必要としている。信頼している。そして、最も大切な命をこの僕に預けている。

 ――これは愛に似た赦し、そう錯覚するまでに。

 ゆっくりと牙を抜く。ゾラの白い首筋には、赤い痕が残る。血を拭うように舐め取り、名残惜しげにミハイルは彼女から離れる。

「……済んだ? なら、もう行きなさい」

 その声は温度を含まない、事務的な響き。ゾラは立ち上がり、もう彼に用はないとばかりに別の場所へと歩き出す。

 後に残されたミハイルはその場に膝をついたまま、身体中に漲る力と、ゾラという存在との“繋がり”を感じる幸福感に打ち震えていた。

 胸の奥に、あの一瞬脳裏を掠めた恐ろしい衝動の残滓が、氷のように冷たく張り付いている。

 けれどミハイルは、その冷たさを熱い血の昂りで強引に塗り潰した。

 余計なことは考えなくていい。今はただ、この与えられた熱だけが真実だ。

「……ゾラ……」

 恍惚とした呟きと共に、彼はその場に倒れ込む。

 頬に触れる床の冷たさと対照的に、胸の奥は焼き切れるほどに熱い。幸福で満たされて……もう他に、何も要らない。

 ゾラに愛されている。ゾラに必要とされている。それだけで――

 深く、息を吐いた瞬間だった。

 パンッ、と乾いた音が室内に響く。

「ああ、鬱陶しい」

 視線の先にはゾラが居た。ゾラの掌には、潰れた蚊の死骸。そこにはまだ真新しい鮮血が滲んでいた。

 ミハイルには何が起きたか、理解出来ていない。何でも無いことのように掌を拭うゾラは、その視線を床に転がったままのミハイルへと向けた。

「蚊ですらこうして血を求めてやってくるというのに。あなたは、狩りすら満足に出来ないという……情けない」

 その言葉にミハイルは息を呑む。さっきまで甘美な錯覚に浸っていた心が、一瞬にして氷点下へと叩き落される。

 しかし、突きつけられた事実に反論する気さえなく、妙に納得するのだった。

「その結果死ぬことになろうと。そんな覚悟も持てないのがあなた、かしら」

「……あぁ。そう……、ですね」

 そうだ。そう考えたなら、自分なんてのは――この蚊以下の存在かも知れない。彼らはまだ、本能に従ってそれを遂げるのだから。

 自分はそれすら出来ない。いくら飢えようとも、ただ与えられるのを待つしかない。彼女の言うように、本当に情けなくて……乾いた笑いさえ出るほどに。

「でも、それでいい。誰かを傷付けずに済むなら、自分はそれで……良いんです」

 身を起こしたミハイルは、床の一点を見つめたままそう答える。

「どこまでも甘いのね」

 ゾラは心の中で笑った。愉快だった……どこに獲物のことを心配する吸血鬼が居たものだろうか? いや、今目の前に居る。

 他の吸血鬼共に聞かせてやりたかった。ミハイルというこの吸血鬼は、彼らの矜持を否定するような存在だったが為に。

 腹を空かせた狼が、獲物の兎に情をかけたりはしないだろう。可哀想だから殺さずにおこう、なんて気持ちは持たないはずだ。

 しかし人間に対し、その気持ちを持ち合わせているこのミハイルという男は……どこまでも温く、そして吸血鬼的に言えばどこまでも“落ちこぼれ”なのだと、ゾラは感じた。

 そしてその弱さこそ、彼女が使い魔に求める資質であり、条件だった。

「あなたは、そのままでいて」

 不意に呟いた言葉は、ミハイルには意外に聞こえるのだった。

 責められ、或いは……嘲られているのだと思っていたから、肯定されるような言葉に少しの違和感を感じた。

 しかし、それで良いと肯定するその言葉は存外に、心地良く響いたものだった。たとえ、そこに感情も彼女の本心も見えて来ないものだったとしても。

 それが今の彼に与えられた、唯一の「赦し」だったのだから。

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