頭の中は花畑
あの後。導かれるまま、彼女の棲家へと向かった。
ここが、新しい家? 僕と、ゾラの……。
床は冷たい石。掛けられた毛布は粗末だが、それすらもゾラが“用意してくれた”もの。
それが嬉しかった。たとえ寝る場所が暖炉の前の隅であっても。
ぐらぐらとする頭。ぐつぐつと煮え滾る胸の奥。焼け焦げるような高揚感に、頬の筋肉が勝手に弛んでいくのが自分でも分かる。
――契約した。ゾラと。
あのゾラと。魔女と。焦がれた少女と。夢に見て、妄想して、勝手に罪悪感すら抱いていたあの存在が。
この、自分の……名前を呼んだ。“ミハイル”って。
あの白く細い指で顎を持ち上げて、あの目で。冷たくて、でもどこか熱を孕んだ金色の目で、見てきた。
もうそれだけで、死んでも良いくらいに幸福だった。
いや、違う。
これが、生きるってことか――!?
「っふ。ふは、はは……!」
笑いが漏れる。気味が悪い? うるさい。ゾラもきっと寝てるだろう、今だけは許される。
「僕は……僕が、ゾラの。使い魔……」
呟くだけで胸が熱く、痛い。
かつて誰にも本当の意味で必要とされず、ただのお荷物だった存在が、今は“彼女のもの”だ。
ああ、何かをしてあげたい。役に立ちたい。褒めてほしい。
……それ以上に、呼ばれたい。もっと名前を、たくさん――ゾラの声で。
ミハイルは毛布に包まったまま、顔を両手で覆った。
熱が籠もった頬の下で、抑えきれない笑みがどうしようもなく広がっていた。
その頃。リュセリエ家の城では、ニカエラが鏡の前に立っていた。
救出の準備ではない。演出の確認だった。
乱れた髪を掻き上げ、泣き腫らしたように見える角度を探す。
ミハイルを抱き起こす腕の形。頬に触れる指の位置。
そして最も重要な、台詞の練習。
「もう大丈夫よ、姉さんが来たわ」
……その声音まで。
鏡の中の自分に微笑む。
完璧だった。完璧な“姉”だった。
ミハイルを助けることなど二の次。彼を助ける瞬間の“自分の姿”こそが大事だった。
彼の依存を育てるなら、欠けたところの一つもあってはならない。
完璧に姉を演じ切らなくては、と彼女は本気で思っていた。
――だから遅れた。
ニカエラが地下へ続く階段を駆け下りた時には、全てが終わっていた。
空気が、まず鼻を刺した。
血の鉄臭さに、汗と、浅ましい欲望が混じった空気。
ここにいた者たちの下卑た呼吸音が、まだ壁にこびりついている気がした。
ニカエラはひとつだけ眉を寄せた。
視線の先には血の跡と、解かれた鎖。
彼女は一歩だけ踏み出し、止まった。
胸の奥で、何かが軋む音がした――
次の朝、ミハイルは目を覚ます。石の床の上で寝たせいか身体の節々が痛い。
「起きた? 庭の手入れ、しておいて」
ゾラは台所に立ちながら言う。背は向けたまま、視線も寄越さない。
しかしミハイルはその言葉に胸を打たれる。
命令された――!
つまり、自分が存在して良いということ。必要とされているということ。
「はい……! わかった、ゾラ」
浮かれた声で返事をして、すぐさま庭へ――
扉に手をかけた瞬間、眩い光が差し込んだ。
「っ、あ……! あぁ……」
反射的に飛び退き、扉を閉める。心臓が跳ねる。
危なかった。
既に日は昇り、この庭仕事が命懸けであることを――ともすれば、それが最初で最後の仕事になってしまうことを、彼は思い出す。
馬鹿だ。馬鹿だ、僕は。
でも――ゾラに命令されたことが、嬉しくて、嬉しくて。
つい忘れてしまっていた。
「あの、ゾラ。……ごめん」
しゅんとした様子で引き返し、ゾラに声をかける。
「どうしたの」
「太陽が……」
流石にゾラも振り返り、納得したようにああ、とだけ呟いた。
「じゃあ夜にでもやって。今は寝てるか、好きに過ごして」
「うん。じゃなくて……、はい」
とぼとぼと暖炉のある部屋まで彼は帰っていく。その後ろ姿をゾラは見ていた。
「……まるで子犬みたいね。そう思わない?」
は、と気付く。そう言ってしまってから。それは誰かに向けたような言葉だったが、その相手は既にここには居なかった。
自分の右隣に“それ”が居ないことに気付く。
あの蒼い光は……昨晩、いつの間にか消えていた。
仮初めの使い魔。別の存在と契約を結んだ時点で消滅する――ただ、それだけのもの。実体を持たない、不安定な存在。
あれに対する情なんてものは、持っていなかった。けれど、隣に在るのが当たり前になっていた。
「ああ……暫くは慣れないわね、これは」
自嘲気味に呟き、手元に視線を落とした。慣れない手つきで具材を切っていく。
その間にも考えていた。“子犬”のことを。拾いはしたが、どう世話したものかなどと。
彼は日の光に弱く、日中に行動させるのは危険だろう。かと言って夜に何をさせるか、庭仕事にしても……どうなのだろうか。
そもそも、大事な薬草を彼に任せても大丈夫なのだろうか、とも考える。
(最初から期待なんてしてなかったはずじゃない。あんな弱いんだもの)
昨晩の悍ましい光景が過るが、それをすぐに記憶の端へと追いやる。
「ええと、ゾラ……ちょっと相談があって」
再び振り返る。そこには申し訳無さそうな顔でミハイルが佇んでいた。
彼の訴えによるところ、使い魔とした彼は……所謂貴族階級に当たる、由緒正しいヴァンパイアの家系なのだという。当然、その暮らしぶりは優雅なものだろうとゾラにも想像出来た。
では。何が不満かと言えば――床に寝ること。
ゾラとしても、ペット同然に床に寝かせておくことに少々の後ろめたさを感じないでもなかった。
「それなら昼間は……あなたが私のベッドで寝ればいいわ」
その一言に、ミハイルの胸が軽く弾けた。いや、逆か。
“私の”ベッド――でも、それは何だろう、悪夢のような引力を感じる。
城ではベッドで眠るのが当たり前だった。でも今は、この毛布と石の床が彼にとっての現実だ。
その提案に他の意味が含まれているわけではない。
「……わ、分かった。ありがとう」
言いながら、彼はふと罪悪感を覚えた。
どうしても心が反応してしまう事から、目を逸らすことが出来なかった。
彼女のベッド。そこに横たわるというのは、彼にとってどこか壊れた欲望が燻る瞬間だった。
ゾラの部屋の扉を前にして、彼は長いこと立ち尽くしていた。
ノブに手をかけるのが、どうしてこんなにも怖いのだろう。
これは許されたことだ。ただ横になるだけの話だ――なのに。
彼女の匂いがするかもしれない。寝返りの跡が残っているかもしれない。あの髪が、あの体温が、布団に染みているかもしれない……。
期待と罪悪感が綯い交ぜになり、足元がふらつく。
ああ、最低だ。こんなこと思っていいはずがないのに。
それでも彼は扉を開けた。
部屋のカーテンは締め切られたまま、きちんと整えられたベッドがそこにあった。寝具は冷たいのに、彼の鼓動だけが異様に熱い。
彼女が眠っていた場所に、自分が横になる――それだけの行為に、彼はうっすらと興奮すら覚えていた。
気持ち悪い。そんな自分が、気持ち悪い。でも、抗えない。
ここに居て良い。ここにいていい。ここにいて、いい……。
彼女が許した。だから、“居て良い”んだ。……そのはずだ。
その反復が、まるで自分で自分を溶かしていく呪文のようだった。
ここはゾラの部屋。ただそれだけで、世界は眩し過ぎた。外の太陽よりもずっと眩しく、ずっと毒々しく誘惑してくる。
ベッドの縁に触れた指先が震えた。触れただけで、脳の奥底で何かが溶ける音がした。
入ってはいけない。入れば戻れなくなる。
そう分かっているのに、指が勝手に布団を掴んだ。
横になったまま、視線だけが忙しく動き回る。
どうにも落ち着かない。
ベッドのサイズが明らかに小さく。足を伸ばせず、身体を丸める形でようやく収まっていた。
微かな甘い香りに、これは彼女のものだろうか? ……などと考え。
柔らかい枕を抱き締めれば、彼女の香りに包まれるのではないかとも考える。しかしそれを実行するには勇気が必要で。
ワードローブの中身も気になった。中にはどんな服がある? 彼女はどんな装いを選び、どんな時間を過ごしていたのか。
机にあるペン、椅子に掛けられた上着、床に落ちた紙屑……すべてが彼女の気配を宿している。
見てはいけないのに、見てしまう。触れてはいけないのに、手が疼く。
だが結局、全ての意識はただ一点に集束していく。
……このベッドそのものへと。彼女の眠りを吸ったその寝具に、自分の身体が沈んでいるという事実。
悶える。激しく意味もなく、寝返りを打ちたいほどに胸が苦しい。だが実際には指一本動かせない。まるで、金縛りのように。
罪悪感と悦楽の間で脳が痺れている。
動けない。けれど、逃げたくもない。――彼女の温度の残滓に、殺されてしまっても構わないとさえ思っていた。
冷たい汗が背を伝う。それが彼女のベッドに染み込むことが、どうにも耐え難く。
自分の匂いがそこに残ってしまわないだろうか。どこか、汚してしまうことがとてつもなく背徳的に思え。
ガバッと起き上がり、上体を起こす。呼吸を整えようとすると、逆にそれが速くなる気もして。
ただ少し振り返ると、彼女の枕を手に取る。
……誘惑に勝てなかった。そのまま、抱き締め――目を細める。
彼女の髪に顔を埋める感覚だった。甘い香りが肺にまで満ちるようだった。
深呼吸をし、そのままベッドへと倒れ込む。枕は手放せなく、抱き締めた形で。
まるで、禁忌の温度に触れたようで――それがたまらなかった。
そしてようやく、何故だか、再び眠ることが出来たのも束の間……。
頬を軽く叩かれる感触。
目を開けると、彼女が薄明かりの下で冷ややかな目を自分に向けていた。
「交代の時間よ」
……ただ、それだけ。
「っ! ごめん……」
枕は腕に抱いたまま、咄嗟にミハイルは謝っていた。顔が熱い。恥ずかしさと、それ以上の何かで。
しかし彼女は特に言及はせず。
――こんなにも心が乱れたのは自分だけだったという事実が、どこか虚しかった。




