きみの名を呼ぶ夜
※この話には、暴力描写・性的暴行を示唆する描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
薄汚れた酒場の片隅。油に塗れたテーブルには、幾枚かの金貨と、指紋で曇ったグラスが散らばっている。
その中央で、声だけが濁って浮かび上がった。
「成功すりゃ、女帝様が自ら施してくださるんだとよ」
誰も笑わなかった。ただ、喉の奥で唾を飲む音がした。
「弟が犯される様を見たいんだとさ。“その場”にも立ち会ってくださるって話だ」
杯を傾けた男が、ねっとりと舌で唇をなぞる。
「正気じゃねえ。けど――あの女帝様らしいっちゃ、らしいか」
沈黙の中、一人が椅子を蹴って立ち上がる。
「俺はやる。チャンスは一度きりだ」
にやりと笑ったその顔は、熱に浮かされたようだった。
「あれの弟なら、美形だろうしな。目を閉じりゃ……なあ?」
他の男たちが顔を顰める。だが、誰も否定はしなかった。
「なあ、ミーシャよ」
レオナールがミハイルの部屋を訪ね、ドアの隙間から声をかける。
「なんです、兄さん」
ただ、淡々と返事は響く。どこか距離感の掴めなさを滲ませて。
「姉上からの言伝だが。お前にお使いを頼みたいそうな」
「……」
それは夜が訪れてすぐ、彼らの時間の始まりに。
「姉上がお気に入りのワインを切らしたらしい。お前に買ってきて欲しいんだと」
ただミハイルは無言で聞いていた。そして思うのだった。
これは昨日、彼女を拒絶した自分への当てつけだろうか、と。
それも、自分からは言いに来ないでレオナールを使った。よっぽど嫌われたか、よっぽど怒っているか……そのどちらか。或いは、どちらとも。
「伝えてくれますか、姉さんに。その……、今から買いに行きますって」
そしてレオナールに向かって自嘲気味に微笑むのだった。
「いくら役立たずでも、お使いくらいはやれるってことを」
「それすら無理なら、お前はもう……どうにもならない落ちこぼれだろうな」
彼をなじるレオナールの言葉にはどこか、哀れみの感情が滲んでいるようだった。
黒い外套に身を包み、城の外へと踏み出した。
夜の空気は良いものだった。暗闇の中、月だけが自分を見ているように感じられた。
空気は澄んでいて、森の霧もこの時間だけは晴れており……朝も昼も立ち込めるそれは、まるで自分たちを日の光から守るように機能していて。
それでいて、自分たちの時間にはそれを邪魔しないように、立ち消える。
それがどうにも心地良く、彼はそんな森の中を歩くのが存外に好きだった。
全てが寝静まったように、なんの気配も感じはしない。
街へと歩みを進める中で、彼はあの夜のことを思い返していた。
ただ、詳細に思い出そうとすればするほど、その何もかもが全て曖昧になっていく感覚に囚われる。
こんな夜の道を不用心に歩いている、少女の姿。ああ、金色の月のような髪をしていたか。それともそれは、瞳の色だったか。
ただその血だけは、どうにも……忘れられやしない味だった。
考えるうちに、いつしか街に差し掛かる。
――賑やかだった。
店が立ち並び、人間たちで溢れる。夜だというのに、どこか祭りのような活気さえ漂っていた。
この光景を、普通のヴァンパイアなら、獲物に満ちた夢のような情景と映すのだろう。
けれど、自分の目にはただの喧騒にしか映らない。血の匂いすら、どこか五月蝿くて煩わしい。生きている彼らが眩しすぎて、ただ遠くに感じられるのだった。
その喧騒を背に、指定された店まで歩を進める。次第に人がまばらになり、人々の声は薄れ、やがて完全に遠ざかる。
(こんな所に店なんて……ある、のか?)
人気のない路地に踏み込んだその時だった。
突如として鈍い痛みが襲い、彼は意識を失った。
次に目に映ったのは、どこかも知らない天井だった。
蜘蛛の巣が張る、古びた木の天井。傾いて吊るされたシャンデリアは既に過去のもので、そこに明かりの一つすら灯って居らず、その機能は完全に失われていた。
何が起きたのかは分からなかった。両手首、両足首になにか冷たいものを当てられているように感じる。
思わず手を引き寄せるが、それは重く。金属質な音が響き、途中で引き留められる。
拘束されていると理解するまで、そんなに時間はかからなかった。
そしてそこに、何者かの気配を感じる。それも一人や二人ではなく、少なくとも……四、五人は居る。それが、どこか遠巻きに自分を取り囲んでいるのを感じた。
後頭部に残る鈍い痛みと、嫌な汗の不快感。これから何が起こるのかは分からないが、ただ……この状況は、絶対的に悪い予感しか感じさせなかった。
微かに話し声が聞こえた。
「徹底的にやるように、ってのがオーダーだからな」
「悪く思うなよ」
じりじりと近付いてくる気配は人間のものだった。本来なら、獲物である彼ら――だがこの時、獲物だったのは自分と彼らのどちらだったのだろうか?
足音が近付く度、身体の芯が冷えていく。
けれど、不思議と恐怖は湧かなかった。
それよりも――ああ、またか、という諦念に近い感情が、心の底からじんわりと滲み出てくる。
こんなものは慣れていないはずなのに、どこか既視感すら覚えるのは何故だろう。
「おい、兄ちゃん」
誰かの手が頬を乱暴に叩いた。
「起きてんだろ。目、開けな」
目を閉じたまま、ミハイルは呼吸だけを整えていた。
無抵抗でいることが時に生き延びる最善であることを、本能が告げていた。
夜は深く、霧は消え、月は空の中央で静かに睥睨していた。
金色の髪の少女――ゾラは、静かに廃墟へと足を踏み入れる。
使い魔を探していた。今日こそは、と心に決めていたのだ。自己を魔女たらしめる、その証を手に入れようと。
けれど、導かれるように歩を進めた先、この建物に漂う気配は――あまりに生臭かった。
「気分が悪いわ」
その言葉に、付き従う蒼い光は不安定に揺れながら明滅を繰り返す。
「消してしまえばいい? そうね。それには同意する」
溜め息とともに、少女は歩を進める。
……徐々にそれは近付いてくる。
下品な笑い声、浅ましい喘ぎ、血と汗と……欲望の匂い。
それが耳障りで、鼻についた。
「こいつらは違う、けど――」
そこに居たのは、人間。複数の男、その中心には微かな魔性の気配。
それは彼女の想像とは違った光景だった。彼女はこの気配を、魔性のものと思っていたのだが……実際はそうでなく、ただの下劣な行為を行う人間の男達だった。
少女の姿に気付いた一人の男が、歓喜の声を上げた。
「これが噂の女帝様か?」
その声に一斉に男達は振り向いた。
下卑た視線がゾラに向けられる。服の下の肌を、値段を、用途を――測るような目。
「いや、違うんでないか?」
声を潜め、一時思案する男達。だがゾラの耳にはその全てが届いていた。
それにしては若すぎるだの、迷い込んだだけじゃないか? だの……そして果てには、「運が良い」だなどと。
虫唾が走る思いだった。
「へへ、俺やっぱ女がいいわ……嬢ちゃん、一緒に楽しもうや」
一人の男が立ち上がり、ゾラに近づこうとしたその時だった。
真空の刃が男の腕を切り落とした。どさり、と重い音を立てて落ちたそれは、床に赤黒い染みを作り出す。
その場の誰もが、何が起きたのか把握出来はしなかった。ただ、恐怖だけがその空気を支配する。
男達の顔を、一瞥する。
その目は冷ややかに、何の興味も示さずに。
価値のない石ころの群れを数えるように――否、それ以下だった。
だが、その中心。ただ一人、汚され横たわる青年の存在にだけ彼女の目が僅かに細まる。
「……あの時の」
ゾラはようやく得心がいったように、息を吐く。
まるで、欠けたピースを見つけたかのような声音で。
「生きていたのね、飢えたワンちゃんは」
その言葉に、ミハイルの目は見開かれた。そして視線だけでゾラの姿を捉える。
「あ、……ぁ、あの……夜の」
震える唇は、弱々しくそう呟く。
「本当にどうしようもない位、弱いのねあなた……普通なら、食べちゃえるはずなのに」
彼女に付き従う蒼い光が、ミハイルの元へと飛んでいく。そしてその周りをふわふわと浮遊する。まるで、彼を品定めするかのように。
「ええ、決めたわ……悪いけど、ここであなたとはさよならね」
それは独り言のようでいて、ただ視線はその蒼い光へと向けられていた。
彼女の登場により、先程までの異様な熱に浮かされた欲望と狂気は、もうそこには存在しなかった。
誰ともなく悲鳴を上げた。そして、惨めな姿のまま一人、また一人ともがくように逃げていく。
そして誰かが叫んだ――魔女だ、と。
「そう、悪い? 私は魔女・ゾラ――そこの駄犬、生きたいなら私の名を呼びなさい」
鎖に繋がれたままのミハイルは、その言葉が自分に向けられたものとようやく理解する。
ああ、これは。
この状況を見られてしまったことを酷く惨めに感じた。曖昧な記憶の中にいた、焦がれた少女がそこにいた。
一部始終、見られてしまっただろうか。それでも、再び会えたことに嬉しさを感じずにはいられなかった。
……自分は果たして、生きたいのだろうか? 違う、そんな理由でなくて。
何故かは分からない。言葉に出来ない。
けれど、彼は初めて自分で選ぼうとしていた。
ただ、彼女の名を呼びたかった。それだけで声を上げようとしていた。
「ゾラ……」
それが彼女の名前。呟くように。
「ゾラ……、ゾラ……!」
求めるように、叫んでいた。
「あなた、名前は?」
それは淡々と。
「ミハイル……僕は、ミハイルだ」
「じゃあミハイル。これより、あなたを私の使い魔にしてあげる。この血で――契約を」
ゾラは、ミハイルの上に覆い被さる。そして、首筋を彼の口元に差し出すようにした。
白い肌に、ミハイルの牙が食い込んでいく――そして血は溢れ、彼の中に流れ込んでいく。甘く、熱く、異質な悦びを伴ってミハイルの喉奥を満たした。
彼女の血は、生きたまま煮えたぎる魔力そのものだった。
肉体の奥底に、火が灯るような錯覚。乾きが潤されていく度に、失っていた何かが蘇っていくような気がした。
空白だった魂の器に、熱を注がれる。
それが快楽であることを、彼は否応なしに理解していた。
「……ッ、く……あ、あぁ……っ」
その存在を、塗り替えられるような感覚だった。ただ、それは嫌悪するべきものには感じられず、抗うということすら思い起こさせはしない感覚。
ゾラの白い指が、彼の顎を掴んだ。その瞳に浮かぶのは、情でも慈悲でもなく――ただ、少しの期待感を映していた。
「良い子ね。これであなたは私のもの。使い魔として……ちょっとは期待してあげる」
彼女は少し微笑むと、ゆっくりと立ち上がる。
周囲には既に、人間の気配など残っていなかった。逃げ去った者も、そうでなかった者も、例外なく。
静寂の中、月光が二人を照らす。
そこに居たのは新たな魔女と、それに付き従う使い魔の姿。
先程まで浮遊していた蒼い光はもうそこにはなく、ただ二人だけがその青白い光に照らされているのみだった。




