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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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春を待つ

「あら、お気遣いどうも」

 エヴァンジェリンの前に、ティーカップが差し出された。

 ゾラは自分のと彼女のと、二人分の紅茶を淹れた。

「けれど。私たちにこれの味は分からないのよ」

「失念していたわ。……悪いことをしたわね」

 そのカップを下げようとした手を、エヴァンジェリンは制した。

「いいの。香りだけなら愉しめるから」

 その言葉にゾラは一瞬、目を丸くした。


 奇妙な光景だった。彼女達の間に面識はなく。

 ただ、ミハイルの主と、一方は彼の姉という――ミハイルを介してのみ、辛うじて繋がるだけの関係性。

 互いに口数も少なく、そして同じような年頃のように見える二人が、同じ卓に着いていた。


 レオナールがゾラを奪おうとした、あの夜。

 死の淵にあった彼を、間一髪のところで連れ帰った少女が居た。

 去り際のほんの一瞬、ゾラと視線を交えたこの少女こそが、リュセリエ家の当主なのだという。

 彼女には一見敵意がない。だからこそ、エヴァンジェリンがここに来た目的が何なのか――ゾラはその意図を計りかねていた。

「……で。あなたの目的は?」

 ゾラの声には僅かながら警戒が滲んでいた。思い浮かぶのは、つい先日相対したレオナールのこと。そして、以前ミハイルを連れ戻そうとやってきた、ニカエラのこと。

 あの姉と兄なのだ。この少女も、相応に狡猾なのかも知れない。

 そう考えたのなら、目を逸らすことも出来ず――まるで客人のように棲家に招き入れてしまったこと自体が間違いだったのだろうか、とも感じ始めていた。

「そんなに身構えなくても結構。ただ私は責任を果たしに来ただけだから」

 対してエヴァンジェリン。警戒されていることは感じ取っているようだが、その声は何といったこともないように涼やかだった。


「それにしても」

 部屋の中を見渡した後、その碧はゾラの姿を真正面から捉えた。

「……こんなにちんちくりんな魔女だったとはね」

 呆気に取られながらも、その形容を思わず口に出して反芻するゾラだった。

「あなたも人のこと、言えないんじゃない?」

 少しの棘を持った言葉だった。沈黙が落ちる。

 けれど、耐えきれなくなったのかエヴァンジェリンは笑いを漏らした。

「っ……、あ。ふふ、ごめんなさい。いえ、もっと怖い魔女だと思ってたから」

 ゾラはこのエヴァンジェリンという少女のことをいまいち掴み切れないでいた。

 どこか自分と共通項を抱えていそうではある。

 同じような年齢で、時間が止まってしまっている肉体。語り口も静かで、けれど些細なことで笑いを零す。

 目的は未だ不明だ。ただ、責任を果たすと彼女は言った。

「ニカエラが壊されて帰ってきて。ミハイルがあんな――だったから。もっと、恐ろしい存在かと」

 再び視線をゾラに戻し、エヴァンジェリンは淡々と語り始めた。

「あなたがミハイルを変えたのね」

 その声は決してゾラを責める類のものではなかった。

 ただ、事実を並べた末の静かな確認のように。

「……どうかしら」

 返事は曖昧だった。変わった、と言われてもゾラにその実感はなかった。

 思えば彼の事をあまりよく見ては居なかったのだから。ただ彼は最初からずっと弱くて、情けなくて。

 むしろ変化があったのは、私の方なのかも知れない――

 そう思った、次の瞬間だった。

 廊下の方から足音がし、ゾラとエヴァンジェリンは同時に扉の方を見た。

 現れたのはミハイルだった。彼は、凍りついたようにその場で立ち尽くす。

 エヴァンジェリンが、ここに居る。

 たったそれだけのこと。だがその事実だけが、彼の意識を強く捉えた。

 あり得ない光景を前に、思考が一瞬の空白を作る。

 彼女はティーカップを手に、まるで昔からの友人のようにゾラと向かい合っていた。

 あまりにも日常的なその様子に、ミハイルは状況を呑み込めずにいた。

 襲撃でもなく、脅迫でもなく、ただのお茶会のような光景。

「おはよう」

 ゾラの声は穏やかで、まるで何事もなかったかのように柔らかく落ちる。

 その落ち着きが却って場の空気を歪めていた。

 そして間を置かず、

「あら、お目覚め?」

 問いかけるエヴァンジェリンのその表情と声音には、敵意の欠片もない。

「ここで……何を、してるんですか」

 ミハイルの声は、混乱と困惑を隠し切れていなかった。

 それは夜の帳が落ちた頃、静かなはずの二人の時間に。

 ようやく掴んだものが、指の間から零れ落ちていくような感覚。その焦燥だけが、ミハイルの胸に重く残った。


「座ったらどう? ずっと立ってるつもり?」

 姉は促した。自分の家でもないのに、まるでそうであるかのようなその態度。そこにミハイルは彼女の尊大さと、自分に向けられた棘を感じ取っていた。

 理解が追いつかず、納得も出来ない。けれど促されたままに、ミハイルは着席する。

 誰も何も言わない、奇妙な沈黙。ミハイルだけがゾラとエヴァンジェリンの間で視線を彷徨わせていた。

(どういう状況なんだろう、これは……)

「で。あなたの果たすべき責任って?」

 先に口を開いたのはゾラだ。

 問われたエヴァンジェリンは、ゾラとミハイルの顔とを一瞥する。彼女への警戒が明らかな表情の彼に向け、微かに微笑む。

「あら、怖い顔して。あなた――変わったわね」

 一見皮肉のように落ちたエヴァンジェリンの言葉に、ミハイルは顔を上げた。

「あの頃のあなたなら、兄様に立ち向かうことすら出来なかったでしょうに」

 続くその声は軽蔑でも嘲りでもなく、ただ事実を告げているだけのように響いた。

 ミハイルは何も答えられなかった。

 あの夜。意識を失い、何かに支配されたまま兄を圧倒した。

 何をしたのか、彼自身にも分からない。

 そして――

(いや……)

 ミハイルは思考を振り払った。

 あの後のこと。目覚めた時、彼女の傍に居たこと。触れ合った温もりを今ここで思い出すのは、不適切だとして。

「あの魔力。あれが、あなただったのね」

 どこか冷ややかでありつつも驚きを滲ませるその言葉に、ミハイルは即座に否定した。

「違う。あれは……その。ゾラが与えてくれたもので……自分は、そんな」

 しどろもどろになりながら言うミハイルを見つめながら、エヴァンジェリンはティーカップを持ち上げた。

 紅茶から立ち上る湯気の香りを愉しむように一つ息を吸い込んで、けれどそれに口をつけることはしなかった。

「それでも。ニカエラの言いなりだった頃より、幾分かマシになった」

 ニカエラの名が出され、彼の身体が一瞬強張った。

「そう、でしょうか」

 ミハイルの声は、思ったより強く響いた。

「僕はあの夜、力に呑まれそうになっていました。身体の主導権を、何かに奪われそうになっていた」

 自分を責めるかのように、悲痛な面持ちで言う――けれど。

「でも抗ったでしょう? あなたは止まれた……自分を保っていた証拠よ」

 口を開いたのはエヴァンジェリンでなく、ゾラだった。

 あの瞬間、レオナールを殺せなかったこと。彼を庇うエヴァンジェリンの前で止まれたこと。

 そこに彼自身の無意識の甘さが、衝動のような殺意に歯止めをかけたのだとゾラは感じていた。

「ゾラ……」

 二人は見つめ合った。

 私的な空気が場を占めたことに、エヴァンジェリンは小さく咳払いをした。

「それで。本題、だけど」

 淡々とした声に、二人はエヴァンジェリンへと向き直る。

 ミハイルは息を呑んだ。その言葉の続きがどんなに恐ろしいものだろうかと想像するのであれば、仕方のないことでもあった。

「ミハイルを追放するわ。あなたには今後、リュセリエを名乗らせない」

「……っ」

「どこで野垂れ死のうと、好きにすればいい」

 姉の言葉は冷ややかだった。

 けれどそれは、彼女なりに許しを与えようとする言葉でもあった。

「今後一切リュセリエに関わらないこと。それを約束するのなら、どうしたって構わない」

 最後まで聞き届けるミハイルだったが、その反応は一歩遅れる。

 拍子抜けしたように言葉を失ったかと思えば、安堵からかその顔が僅かに綻ぶ。

「エヴァ……それって」

 実質的な“許可”だと、ミハイルは受け取った。エヴァンジェリンなりの、分かり難くも不器用な祝福だと捉えた。

「さて、お喋りはおしまい。夜が明ける前には帰らないと」

 言うと、エヴァンジェリンは立ち上がった。

 ミハイルは言葉を探していた。何と言えば良いのか――けれど、彼女が去る前に一言なにか、言わなければならない気がして。

「……ありがとう」

 口をついて出たのは、純粋な感謝の言葉だった。

 エヴァンジェリンは何も答えない。ただ、僅かに頷いただけだった。

 そんな二人をゾラは黙って見ていた。

 ミハイルの表情、エヴァンジェリンの冷徹さ――その裏にある、解放と決別。

 そこに自身の入り込む余地はなく、けれど確かに安堵を感じていた。

(これで、彼は本当に自由になる……のね)

 思いながら、玄関に向かう彼女の背中を眺めていた。

 扉を開く直前、その背中が一度だけ振り返り、ゾラの方を見た。

「それと、あなたのお茶。悪くない香りだった」

 それだけ言い残した少女の顔はどこか、柔らかくも見えた。

 エヴァンジェリンが去り、暫く。二人は顔を見合わせることすらせず、彼女が去っていった玄関の方をずっと見つめたままでいた。


 玄関を出、歩を進める途中、一度だけ棲家の方を振り返った。

 目に留まったのは、ゾラの庭。エヴァンジェリンは僅かに眉を動かした。

 彼女の足は、気付けば庭の方へ向いていた。

 一見すれば、何もない。冬枯れの土が広がり、彩りらしい彩りはどこにも見当たらない。

 枯れた茎は無秩序に折れ伏しているのではなく、根元でまとめられ、必要以上に触れられていない。

 低く伏せた薬草の葉は、冬を越す為に切り揃えられ、霜除けの藁が丁寧に被せられている。

 ――死んでいない。

 ふと、彼女は一角で枯れたまま残された花の跡に気付く。

 既に色を失った茎。だが掘り返されてもいないその場所は、春を待つ為の余白のように静かにそこにあった。

(眠っているだけね)

 エヴァンジェリンは目を伏せた。脳裏に浮かぶのは、棘だけを残して荒れ果てたリュセリエの庭。

 あれは死だった。けれど、ここは違う。

 命が終わったのではなく、終わらせなかった庭だ。

 ゾラがしたことか、ミハイルの仕事なのか――それを確かめるほど、彼女はもうこの場所に執着していなかった。

 静かに終わりへと閉じられていくリュセリエとは違い、“その先”が在ることを、エヴァンジェリンも予感していた。

「清々したわ」

 もう二度とここに来ることもないだろう。そう思えば、悪態のように一つ言葉が落ちた。

 彼女の姿を闇が覆い、解ける。夜の空気へと溶けていくように、エヴァンジェリンは帰るべき場所へと帰っていった。

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