茨の庭
「レオナール」
声と共にドアが開かれた。
ニカエラだった。ミハイルが去って以降、彼女はレオナールに慰めを求めるようになっていった。
その声音はどこか、不安げなものにも聞こえる。
しかし、その名の持ち主は答えなかった。そこは彼の部屋、そしてそこに居るにも関わらず。
返事を待たず、ニカエラは部屋へと足を踏み入れた。無遠慮にも、けれどどこか躊躇いながらも。
彼はベッドの上でぼんやりとしていた。眠っているわけでなく、ただ背にした枕に凭れ、どこか空虚な目で一点を見つめている。
「……」
その様子を見て、ニカエラは苦い顔をした。
ほんの二、三日前のことだった。いつものように彼を頼った後、彼はその行方をくらませた。そしてニカエラは、そんな彼を探すよう妹のエヴァンジェリンに求めた。
その夜からだった。どこかレオナールの様子がおかしいのは。
いつもなら微笑を浮かべるように、余裕を滲ませる顔つきをしているものだったが。
今の彼は、虚ろ。まるで抜け殻のようになってしまっていた。
「何があったの」
問うても、答えは返らない。ただ、視線のみがニカエラを捉えたかと思えば、すぐに逸らされる。
エヴァンジェリンに聞いても、詳しいことは分からないままだった。
ただ、あの夜以降――彼が彼でなくなってしまったかのような変貌を遂げたことだけが、ただの結果としてニカエラの目に映っていた。
ニカエラは嘆いた。
「どうしたっていうの。あなたも、庭の薔薇も……」
彼女は小さく身を縮め、両腕で自分を抱いた。
その言葉に、レオナールは僅か反応を示した。再びニカエラに視線を遣り、しかしその目に浮かぶ感情が何か、それは曖昧にも見える。
「庭……?」
少し間があった。けれど彼は静かに口を開いた。何のことか分からない、そういった様子で。
ようやく喋る気になったのだろうか。そんな彼を見て、ニカエラは小さく息をつく。
「荒れる一方じゃない。どうしてかしら?」
まるで日常の困りごとのように零す。けれどニカエラには、彼が何故そこに反応したのかが分からなかった。
「でも、今はあなた自身の方が――」
「あぁ。知らなかったのか」
ニカエラがその先を言い切るより早く、レオナールが呟いた。
どこか投げやりな笑みを浮かべた彼を見、ニカエラは怪訝そうに眉を寄せた。
「知らなかった、って。何のこと……?」
その視線がニカエラを射抜く。彼女を見ているようで、そうでないように昏く、濁った碧だった。
「……ミハイルが、やってたんですよ。ずっと」
言い、レオナールは虚ろな目で窓の方を見た。
「え?」
思わぬ名前がその口から出てきたことに、驚きを隠せない。
そんな彼女に追い打ちをかけるかの如く、レオナールは続けた。
「誰が世話してると思ってたんです?」
その声はどこか嘲るようでもあり、けれど。自分自身をも嘲っているようでもあった。
「嘘……そんな」
ニカエラの声が震えた。それは庭が荒れたことへの嘆きではなかった。
彼女は無意識に窓辺へと歩み寄っていた。
自分だけがミハイルを愛していた。誰よりも深く、誰よりも――そう信じてやまなかった。
それなのに。
彼が何をしていたのか、何を想っていたのか。何一つ、見ていなかった。
眼下に広がる茨の庭。手入れされぬまま伸びた蔓が、城の壁を這い始めている。
ニカエラは、彼がここで何も言わず、誰にも告げず作業していた光景を思い描いていた。
そしてふと思い出した。その指先が、荒れていたことがあったのを。
(あれは――だから……?)
薔薇の咲き誇る美しい庭は、もう何処にもなかった。
庭師を雇っていたわけではない。ニカエラが家長になってからは、屋敷に仕える使用人達も全て引き上げさせた。
ニカエラは庭を気にしたことなどなかった。
当たり前のように咲いていた薔薇に、誰かが手を入れているという発想すらなく、時期が来れば勝手に咲くものだと思っていた。
ミハイルも、きっと同じように。
何もせずとも彼はそこに在り続けるのだと信じて疑わなかった。
彼女はレオナールの部屋を飛び出した。果たして何処へ向かうかは、レオナールにとってはもう、どうでもいい事だった。
ただ一人になって一つ、深い溜め息をついた。
「……ああ、なんだ」
その声は、妙に安堵したもののように響く。
「あいつも――見られていたわけでも、ないんだな」
ただ事実の確認のように、けれどどこか自嘲するように。
ニカエラが向かったのは、妹の部屋だった。
「エヴァ……エヴァ、開けてちょうだい」
懇願のような声と、ドアを叩く音。エヴァンジェリンは、溜め息と共に手元の本を閉じた。
ドアを開けば、どこか焦燥を隠せない顔でニカエラが立っていた。
「――ええ。私も、見たことがある」
その言葉に、愕然とするニカエラ。
ミハイルが庭の手入れをしていたことを知らなかったのが、自分だけだったという事実。
エヴァンジェリンですら、このことを知っていたのだ。彼女が一番、ミハイルに辛辣であるはずだったのに。
「何故教えてくれなかったの」
その声は、責めるような声音だった。けれどそれは、エヴァンジェリンだけでなく、自分をもその対象としているかのように悲痛なものだった。
「教えなかったんじゃない」
エヴァンジェリンの言葉は淡々としていた。
「姉様が、私たちの言葉を必要としていなかったのよ」
それは事実だった。紛い物であるとして、レオナールとエヴァンジェリンを遠ざけたのは、他でもないニカエラ自身だったのだから。
ニカエラは崩折れた。その目には、涙が滲む。
声にならない嗚咽を飲み込むように、泣いていた。
「……お可哀想に」
エヴァンジェリンの声は、どこまでも静かだった。
「昔みたく庭師を雇いましょう。そうすれば、あの庭も元通りになる」
ニカエラは顔を上げた。涙に濡れた瞳で、妹を見る。
「……元通りには、ならないわ」
「ええ。それでも、見た目は綺麗になる」
エヴァンジェリンは僅か微笑んだ。それは優しさではなく、事実を告げるだけの冷たさだった。それがニカエラにとって何の慰めにもならないことを、彼女自身も知っていた。
ただ、今は彼女こそがこの家の実権を掌握し、すべての決定権を握っている。
単なる義務として、責任としてでも――リュセリエ家を存続させる。
それがかつて自分を愛した両親への手向けになるだろうと、エヴァンジェリンは信じていた。
ニカエラを部屋に残し、エヴァンジェリンは一人、夜の廊下を歩く。
赴いたのは兄の部屋だった。ニカエラは彼女の部屋に来る前、レオナールに会っていた。
それだからこその確認と、あの様相だったのだろうとエヴァンジェリンは感じていた。
ノックをし、細く開いた扉の隙間から、部屋の中を覗き見た。
ベッドに凭れるレオナール。彼は天井を見上げたまま、動かない。
かつては人を惑わす微笑を絶やさなかった男の顔から、すべての意匠が剥がれ落ち、そこにはただの抜け殻だけが横たわっているようだった。
「ニカエラを壊したのは貴方の意地悪ね、兄様」
エヴァンジェリンが歩み寄る。幼い少女の足音は絨毯に吸い込まれ、物音一つ立てない。
「……知ってるものだと、思ってたんだけどね」
レオナールの声は、掠れた風のように頼りなかった。
「あいつが庭を手入れしてるのを、姉上も見てるもんだとばかり……ああ、でも。見てなかったんだな、誰も」
その誰もの中に、自分自身も含まれていることを、彼は隠そうともしなかった。
「私、ミハイルとあの魔女に会いに行くわ」
レオナールが、僅かに目を見開いた。
「……やめておけ。お前まで傷つくことになる」
それはかつて「兄」だった頃の、残滓のような忠告のように。
「復讐しにいくわけじゃない」
エヴァの声は、湖の氷のように平坦だった。
「当主として、対話をしに行くの。……それだけよ」
レオナールは小さく息をつき、視線を再び天井へ戻した。
彼にはもう妹を止める力も、自分を救う意志もない。
「……気をつけろよ」
投げ出されたその言葉だけを、エヴァンジェリンは無表情に拾い上げ、部屋を後にした。
エヴァンジェリンが自室に戻ると、そこにニカエラの姿は既に無かった。
彼女もまた、自室へと引き上げていったのだろう。その事実に、エヴァンジェリンは僅かに緊張を解いた。
ふと、彼女は視線を下げ、窓越しに眼下の庭を見下ろした。
月光に晒された冬枯れの庭。花もなく、棘ばかりが目立つその場所は、かつてのミハイルそのもののようにも見えた。
姉様は何も見ていなかった。兄様は見ることを諦めていた。
自分だけが、目を逸らさなかった。
この無惨な風景の中に、あの出来損ないの弟がどれほどの時間を積み上げてきたのかを。
それでもやはり、彼を許すことが出来なかった。知っていながらも、それを見なかったことにして――今まで、忘れていたのだ。
エヴァンジェリンは、自らの幼い指先を見つめた。
時間が止まったままの身体。届かない純血への渇望。
一方で、あの弟は変わった。魔女というより強固な檻に飛び込んだはずなのに、彼はそこで自分というものを取り戻し始めている。
「……確認させてもらうわ、ミハイル」
彼女は、一度も袖を通していなかった上質な外出着をワードローブから引き出した。
それはかつて、ニカエラが慈しみの表情を浮かべて贈ってきたものだ。
夜の闇を煮詰めたような、沈んだ漆黒。
「白は純血の色よ」――かつてそう告げられた言葉が、今も耳の奥に残っている。
姉が纏うあの誇り高き白は、自分には決して許されなかった。
エヴァンジェリンは迷わず、その夜色の袖に細い腕を通した。自分に与えられた黒という役割を引き受けるように。
肌に触れる絹は冷たく、滑らかだった。
鏡に映るのは、影を纏う幼い少女。どれだけ時間が経とうとも、決して完成されることのない自分の姿。かつては呪わしく感じたその歪さが、今はひどく心地良いものに思えた。
彼女が選んだのは絶望でも逃避でもない。
彼をリュセリエから永遠に切り離す。それが、自分という不完全を肯定する唯一の手段。
リュセリエの家名を汚す「落ちこぼれ」の始末――名目はそれで充分だ。
エヴァンジェリンは誰にも告げず、静かに城の門を潜った。
リュセリエという名の呪縛をその幼い肩に引き受け、それを正しく終わらせる為の旅立ちだった。




