赦しⅢ――僕という証
※本話には身体的に親密な描写が含まれます。R15相当の表現が苦手な方はご注意ください。
暫く動けないでいた。
ただ静寂だけがある。
天井から滴り落ちる雫の音だけが、やけに響くようだった。
「……血が欲しい?」
それは唐突で、けれど静かな問いかけ。それなのに、ひどく胸をざわつかせるものだった。
ゾラの瞳は真っ直ぐ僕を捉えている。
「そんな。今は……大丈夫、です」
僕は即座に否定した。
兄さんと対峙した中で、僕は彼女の血を吸った。傷もその時に癒えている。欲しくないと言えば嘘になるが、今それを必要かと言えばそうではない。
けれど――こんな近くに居て。
彼女の匂いがする。彼女の体温を感じている。それは離れ難い安寧。でも同時に、今の僕にはあまりにも危険な甘さだ。
だからそう問われれば、否定するのがきっと“正しさ”だった。
意図せず喉が鳴る。僕は思わず、喉元を手で押さえつけた。
「――嘘」
ああ。彼女の言うように。
けれどその声音は、僕を責めるでもなく静かに落ちてくる。
「私が、差し出したいって言ったら?」
「……え?」
分からない。
言ったはずだった。自分の中の誰かが、僕以上に露骨にゾラの方を向いているということを。
それなのに。そんな僕に血を差し出したいだなんて。
ゾラの言葉の意味が理解出来ない。理解したくもない。
身体の芯が熱を持ったようだった。それが自分の欲求なのか、誰かの感情なのか――それすら分からない。
けれど彼女の瞳が、何かを確かめようとしているようにも見えた。
「きて」
短く求められる。ただ、拒めない。
僕は縋り付くようにゾラの肩を掴み、その柔らかな肌に牙を立てた。その瞬間にも僕の中の何かが蠢いた。
――もっと。
もっと深く。
全部、飲み干せ。
そうすれば、二度と離れない。永遠にお前のものになる。
脳髄に直接響くのは、僕自身の声によく似た、けれど決定的に残酷な別の“誰か”の囁きだった。
視界が明滅する。目の前にある、白く細い首筋。その奥で脈打つ旋律が、今の僕にはどこまでも甘美な音に聞こえてしまう。
「……あ、……ぁ」
理性がやめろと叫ぶのと、本能が喰らえと吼えるのが同時だった。
熱い。
流れ込んできたのは、ゾラという魔女の命そのものだ。喉を通るたび、身体の奥で眠っていた“誰か”が歓喜に震え、僕の意識を塗り潰そうとする。
「っ、ふ……」
ゾラの小さな吐息が耳を打つ。痛みへの拒絶ではない。
それは、僕を受け入れる為の、或いは僕を繋ぎ止める為の、あまりにも無防備な合図。
――もっと欲しい。
血だけじゃ足りない。皮膚の一枚下、骨の髄まで。彼女のすべてを僕の中に閉じ込め、そして僕のすべてを彼女に差し出したい。
その醜悪な独占欲が、自分自身のものなのか、それとも僕を乗っ取ろうとする怪物のものなのか、もう判別がつかなかった。
「ミハイル、……怖い?」
ゾラの声が、僕の髪を撫でる指先から伝わってくるようだった。僕は彼女の首筋に顔を埋めたまま、子供のように首を振った。
怖い。自分が怖い。君を壊してしまいそうな、この空腹が怖いんだ。
でも――
ゾラの手が背中に触れる。明確に引き寄せる意図を持って僕を強く抱く。
「……大丈夫」
彼女の声は微かに震えていた。でも確かに、ここに居る。
ゾラは逃げなかった。だから僕も、耐えなければならない。もっと――もっと欲しいという欲望に、そう囁く誰かの声に。
ゆっくり牙を引き抜く。息が上がり、身体が震える。
その瞬間にゾラも震えていた。
「よかった……」
その一言がどこまでも静かに落ちた。
僅かな間。ゾラの穏やかな呼吸と、僕のやけに耳障りな息遣いだけが、しんとした静寂の中にあった。
「どうして、こんなこと」
震える僕を包み込むように、ゾラの手が頬に触れる。
壊れ物を扱うような慎重さが、どこか躊躇いを含んだ温度として伝わってきた。
「あなたがまだミハイルだってことを、確かめたかった」
その瞬間、ようやく理解した。
ゾラが自分の命を賭けて僕を試したのだということ。
……違う。証明したんだ。
僕はまだ、僕で居られているということを。この身体がちゃんと僕のもので、誰かの意思で動いてなどいないということを。
抱き締められたまま、僕は離れられなかった。
荒い呼吸は、自分のものだった。惨めで、情けなくて――みっともない。
ごく近くで彼女の心臓の音が鳴っている。規則正しい、けれど……少しだけ、速くも感じられる。
ただそれは、確かに彼女がここに居ることを伝えるように響いている。
「……契約を、結びましょう」
思わず息を呑んだ。
彼女の傍に留まる資格など、もう一欠片も残っていないはずだった。それなのに、ゾラは再び僕の手を取ろうというのか。
「どうして。一度は解除……した、のに」
僕がしたことを忘れたのだろうか?
一方的に触れ、彼女を暴いてしまった。
それを償おうとして、独り善がりに善意を押し付けてしまった。それも、自分の気持ちに都合良く言い訳を与えるように。
それなのに――
「私があなたに注いでしまったから」
注いだ……?
思考が追いつかない、けれど。何となく、理解してしまった。彼女の注いだというそれが何か、思い当たるものがあるから。
「このままでは駄目。だから今度は……完全な契約、を」
完全な契約。
その言葉の意味を、僕は知っている。
魔女と使い魔が結ぶ、最も深い絆。血だけではなく、すべてを分かち合う契り。
「……本当に、いいんですか」
僕の声は震えていた。
「私があなたに注いだ魔力を、二人で分け合う必要がある。でなければ――」
「そうじゃなくて……!」
僕は、殆ど叩きつけるように彼女の言葉を遮った。
「責任だから、ですか? そうしなければならない、から。だから僕と?」
最後の言葉が思ったよりも強く落ちたことに気づき、遅れて息を詰める。
ゾラの瞳が、僅かに揺れた。
――もしそうなら。
もし彼女が、ただ義務として僕を受け入れようとしているのなら……受け取れない。
心まで欲しがる資格が自分に無いことは分かっている。それでも求めてしまうこと自体が、分不相応なのだ。
それでも、そこだけは譲れなかった。
僕がどれほど惨めで、情けなくあろうとも。
「……」
彼女は何も答えなかった。ただ、僕の顔を見つめている。
その沈黙が答えなのだろうか。
僕は視線を逸らそうとした。けれど、ゾラの手が僕の頬を包み、そっと向きを戻される。
「違う」
短く、彼女は言った。
「責任だけじゃない」
その声は微かに震えていた。
「じゃあ、どうして……」
「居て欲しい……から」
一瞬、息が止まった。
「ミハイルに。私の傍に、居て欲しい。だから――」
ゾラの手が、僕の手を取る。
「あなたと。ちゃんと契約を、結びたい」
――ああ。
理解した。
これは義務でも、責任でもない。
彼女が、僕を選んでくれたんだ。
「……僕なんかで、いいんですか」
声が掠れる。
「いい」
間を置かず、彼女は答えた。
「あなたでなければ、駄目」
その言葉が僕の中で何かを壊した。或いは、何かを解いた。
僕はゾラを抱き締めた。
彼女の小さな身体が、僕の腕の中に収まる。抱き寄せたはずなのに、その軽さに胸の奥がひやりとした。
すっぽりと包んでしまえることが怖くて、思わず腕に力が入らなくなる。
「……ありがとう、ございます」
それしか言葉が出てこなかった。ゾラは何も答えず、ただ僕の背中に手を回す。
そして僕たちは再び唇を重ねた。
今度は、もっと深く――
気づけば、僕は冷たい石の床に横たわっていた。
背中に硬い感触、頭上には崩れかけた天井。割れたステンドグラス越しに差し込む光が、砕けた極彩色の破片を床に散りばめている。
見上げれば、その光を遮るようにゾラが居た。
僕を覗き込む彼女の影が、熱を帯びて重なる。その瞳が初めて、何かを求めるように揺れていた。
「怖くない?」
ゾラが小さく問う。
「……怖い、です」
正直に答えた。
「でも。貴女が傍に居てくれるなら大丈夫、だと思います」
ゾラの指先が僕の髪を梳く。
「私も、怖い」
その声はあまりにも人間らしかった。
「でも、あなたとなら――」
彼女は言葉を飲み込んだ。けれど、その続きは聞かなくても分かったような気がした。
触れ合う肌が、どちらのものか分からなくなる。冷たい石の床と、彼女の温もりが対照的だった。
その温もりは、決して僕を責めなかった。何者であったかも、何を犯したかも、問わずに。
ただ――ここに居ることを、求めてくれている。それだけで胸の奥がひどく熱くなる。
吸い上げた魔力が僕を焼き、僕が捧げた熱が彼女を溶かす。二人の境界線が溶けて消えていく。
混ざり合い、濁り、一つの生き物になっていくような――戻ることの叶わない悦楽。
この瞬間だけは、僕は誰かの期待でも道具でもなく。ただのミハイルとして、彼女の前に在れた。
「……いい?」
その問いかけは、あまりにも静かで。
僕はただ、頷くことしか出来なかった。
どれだけの時間が経ったのだろう。
祭壇の天窓から差し込んでいた眩い朝の光は、いつの間にか長く伸びた濃い影に取って代わられていた。
やがて、崩落した天井の向こう――冷ややかに澄んだ月がその顔を覗かせた。
崩れた廃墟を、青白い月光が静かに満たしていく。
僕は冷たい石の床に横たわったまま、浅く息をついていた。
ゾラは僕の隣で、小さく身を寄せている。
彼女の髪が僕の肩に触れていた。その感触が、温もりが、まだ夢の続きのように感じられた。
身体は重く、四肢の感覚は鈍い。それでも、頭の奥を満たしていたあのざわつきだけが、嘘のように消えていた。
「声が……聞こえなくなった」
呟くと、ゾラが僅かに身動ぎした。
「魔力が安定したのね」
彼女の声はどこか安堵を含んでいた。
「まだ残ってはいるけれど、もう押し潰されることはない」
「……そう、ですか」
僕はゾラの髪に顔を埋めた。
これが現実かどうかを、もう確かめる必要はないと思えた。
彼女の匂いが優しく僕を包む。
「……ありがとうございます」
「何度も言わなくていい」
ゾラの手が僕の背中を撫でる。その指先に、身体の奥が小さく解けた。
「もう、私たちは繋がっているから」
そうだ。
僕たちは、もう繋がっている。
血でも契約でもなく、もっと深い場所で。
祈りのために在ったはずの場所で、祈りとは違う形で互いを求めた。
それでも――ここに居ることを否定する理由は、もう見当たらなかった。




