器を満たすのは
――今更になって思い出したこと。
遠い記憶。泣きじゃくるエヴァンジェリンと、沈黙を貫くレオナールと。
そこで彼女は何か、叫ぶように言った。
「あなたなんかの為に両親は死んだっていうの? そんな情けないままで、恥ずかしいと思わないの?」
……ああ。
この時、自分が何を責められていたのかを……ようやく思い出した。
肖像画でしか知らない彼ら。ニカエラが言うには、愛情深い二人だったって。
レオナールやエヴァンジェリンのことも、本当の子どものように愛していたのだと聞いていた。
だから僕は、そんな二人から両親を奪った。
直接は何もしていない。けれど、原因は僕にあった。それをずっと負い目に感じていたから、僕はエヴァンジェリンのことを見るのすら避けていたんだろう。
そもそも僕が居なければ。両親が死ぬこともなく、姉さんも兄さんも、エヴァンジェリンも……あんな風にならなかったのかも知れない。
罪悪感。
自分こそがリュセリエ家の歪みそのものなのではないか。
両親は僕の為に出かけた先で、何者かに殺害されたのだから――
……どうしてか、その行いが。
今、映像のように……自分の中から、湧き上がってくるようだった。
まるでそれを、自分が――そうしたかのように、鮮明な絵として。
体験のようにも感じられた。僕はこれをしていない。していないのに、なんでこんな――
夜明け前。
声にならない絶叫。血の温度、その匂い。水溜りのように広がる、赤。
(あ、違……そんな、わけ……)
淡々と処理しながら、自分は、嗤っていた。
荒い呼吸のまま、一歩一歩――
暗がりのその先に、震える一人の少女が居た。
「ゾラ――ッ!」
瞼を持ち上げると、彼女と視線が合った。
あまりにも近すぎる。
息がかかる距離で、覗き込むようにするその顔は、どこか……切なくも見えた、けど。
それはただゾラをそう見たかっただけの、自分に都合の良い幻だろうか。
「ミハイル……」
名前を呼ばれた。
その瞬間、彼女の匂いに包まれる。幻にしてはその温度がひどく生々しくて。
「良かっ……、……」
彼女は言葉を飲み込んだ。その瞳が濡れているように見えた。そう……見えただけ、だ。
石の天井から、冷たい水滴が落ちる音がしていた。鼓動と勘違いするほどに規則正しい。
顔に雫が落ちる。天井からか、それとも――分からない。しかし、その滴りがどうしてか温かく感じられる。
……そんなはず、は。
彼女が僕の為に泣くなんてことが、あって良いはずがない。
そう、これは幻。或いは、夢の続き。
欠けたステンドグラス越しに朝の光が差し込んでいた。この光景が、それがまだ夢の続きなのだと思わせるほどに、どこか幻想的にも思えた。
けれど。
頭の下にある柔らかさ。逃げ場のないこの温もりだけが、やけに確かだった。
「……夢を見ました」
「どんな?」
ゾラの声は低く、落ち着いていた。
「分からない。誰かの……記憶、みたいな」
言いながら、喉が渇く。
「自分じゃないのに、自分みたいで」
言葉を探すほどにその輪郭が曖昧になっていく。
「……怖かった」
それだけは、はっきりしていた。
言葉が来ると思っていた。その予感だけが、宙に取り残される。
けれど、その金の瞳が僕を見下ろしているだけで、ゾラは何も言わなかった。ただ、逃げるように身体を動かした僕を、引き留めもしなかった。
その距離が余計に怖かった。
――自分の中に何かが居る。それが、いつか表に出てくる気がしてならなかった。
「ゾラ」
呼んだ声が、喉の奥から勝手に零れた。
「……欲しい」
唐突に音として落ちてから、意味が追いつく。
僕は反射的に口を押さえた。
――今のは、何だ。
ひどく濁った声だった。自分の声のようでいて、けれどそうでないようにも聞こえて。
考える前に、胸の奥で何かが蠢いた気がして背筋が冷える。
だから。
「僕、から……少し、離れた方が――」
言いかけて、言葉を噛み殺した。言葉にした瞬間、それが現実になる気がしたから。
それでも彼女は、そこを離れなかった。
ゾラは何も言わず、膝の上に置いた僕の頭をそのままにしていた。
逃げてくれればいいのに。拒んでくれればいいのに。
その沈黙が、何よりも怖い。
「……どうして」
勝手に漏れた声は、思った以上に掠れていた。
喉の奥が焼けるように熱い。視界が滲む。
「どうして離れてくれないんですか」
返事はなかった。その空白が胸の奥にじわりと染み込んでくる。代わりに、彼女の冷たい指先が僕の額に触れる。髪を梳くように、ゆっくりと。
それは優しさではなかったかも知れない。ただ、拒絶でもなかった。
その冷たさが、焼けるような喉の熱を少しだけ和らげた――気がした。
「今の僕に触れたら……」
その先は、どうしても続かなかった。
視界の端に赤が滲む。
床でも、壁でもない――記憶の中の色だ。
両親の血。
温度。
あの時、胸の奥に走ったのは、得体の知れない昂ぶりだった。
胃の奥が、きゅっと縮む。
僕の中に居る“何か”は、眠ってなんかいない。その欲望の欠片が、今も皮膚の下で蠢いている。
このまま彼女に触れれば、僕は彼女を喰らってしまうのではないか。
慈しむのではなく、壊してしまうのではないか。
怪物の器になることを恐れているんじゃない。
怪物になった自分が、彼女を――この小さな光を永遠に奪ってしまうことが。
……たまらなく、怖い。
「僕は……、貴女が思っているようなミハイルじゃないかも知れない」
声が震える。必死の訴えが空気の中に消えていく。
「自分の中に、誰かが居るんです。それが、何なのかは分からない。でも――」
その先を言うのが、怖くて仕方がない。
ただ、黙ったままでも居られなかった。
「……その誰かが、ゾラを求めている」
彼女の手が止まる。
拒絶が来る――そう身を強張らせた僕の予想に反し、その温度は失われなかった。
「っ、だから……僕から離れてください。このままじゃ」
言葉が途切れた瞬間、喉の内側を爪で引っ掻かれるような感覚が走る。
今にもそれが皮膚を食い破って表に出ようとしている。
……僕が、僕でなくなる。
けれどゾラは、一向に動かない。
「お願いです、離れて」
返事はすぐには返らなかった。ただ、視線だけが外されないままで。
それから、彼女の声が低く静かに落ちた。
「嫌よ。私が、ここに居たいから」
その一言が胸を貫いた。
意味が追いつかない。理解したくもなかった。
「……何で」
声が掠れる。
「僕は、貴女を……」
「壊すかも知れない?」
ゾラの声はどこまでも冷静だった。
その手が迷いなく僕の頬に触れる。慈しむような温度が、確かにそこに在った。
「それでも、私はここに居る」
指先が涙の跡を拭った。自分が泣いていたことに、今、ようやく気づいた。
「どうして……」
もう上手く言葉に出来なかった。ただ、震える声で――何度も、何度も。
「どうして、そんなこと……」
返事の代わりに、ただ、冷たい手が僕の手に重なった。
迷いのない、確かな重み。
「……ミハイル」
名前を呼ばれた。
その声がどこか遠くから聞こえる気がした。
「あなたは怪物なんかじゃない」
違う。
そうじゃない。
僕は――
瞬間、胸の奥で何かが笑った。
喰え。
奪え。
今なら、壊せる。
誰かの声がはっきりと輪郭を持つ。
僕は歯を食いしばる。彼女の匂いが、あまりにも近すぎて。
「……っ、怪物になるかも知れないのに」
「ええ」
即答だった。
「でも、なったとしても」
彼女の指が、僕の頬に触れる。涙の跡をなぞるように。
「その時は私が止める」
その言葉が胸の奥に沈んだ。
短い一言。それでも、逃げ道を塞ぐには充分なものだった。
「……止められるんですか」
「分からない」
その正直さが致命的だった。
例え嘘であっても構わなかった。ただ一度でも頷いてくれれば、僕はそこに縋れたのに。
「でも、やるわ」
再び頬に触れた指先は冷えていた。それでも、その奥に確かな人の体温を感じた。
「だから、逃げないで」
声が落ちたその直後だった。
彼女の顔が近づき、距離が消える。思わず、呼吸が止まる。
金の瞳がすぐそこにあった。その瞳に映っているのは、怪物というにはあまりにも情けない――泣き出しそうな顔をした、僕の姿だった。
その指先が頬から滑り、僕の顎を小さく持ち上げる。
触れたのは、唇だけだった。
一瞬のことだったのか、それとも永遠だったのか。それすら分からない。
確かめ合うでも、求め合うでもない。呼吸が触れ、体温が移るだけの接触。
拒む暇もなかったし、抱き寄せる理由もなかった。
それでも、離れなかったのは――逃げなかったのは、どちらだったのか。
名を呼ばれることもなく、言葉も続かない。時間だけが止まったように流れ、触れたという事実だけが胸の奥に沈殿する。
赦されたわけじゃない。
救われたわけでもない。
ただ、逃げることだけを許されなかった。
怪物になる可能性を抱えたまま、それでも人として触れられている。
それがこんなにも怖くて、甘いなんて。
――ああ、もう。
戻れない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ち、溶けて流れ出すようだった。
それが涙なのか、それとも別の何かなのか――もう、分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。
彼女は、ここに居る。
それだけが唯一の真実だった。




