蹂躙の剣
血と一緒に、魔力が流れ込んできた。
けれど、その量が違う。以前彼女から与えられたそれとは、比べることすら出来なかった。
こんなものを、彼女は一人で抱えていたのか。
急速に傷が癒えていく。
それと同時に、ぞっとするほどの冷たさと鋭さを感じる。明確な殺意が、血の中に混じっている。
それは彼女のものではない。けれど、彼女の内側に長く沈んでいたものだった。
胸の奥に“それ”が触れた瞬間、意識が掴まれる。
乗っ取られる――そう直感が告げた。
何に?
誰に? ……分からない。けれど、そう思った。
視界の端には、赤。レオナールが映る。
殺せ、と何かが囁く。違う、叫んでいる。
底なしの闇。吐き気すらするほどの、悪意。けれど、それを何故だか愛おしくも感じる。
今の僕にはその毒すらも、兄を食い殺す為の鋭利な刃に見えていたのだから。
「何だ、それは――」
驚愕の声だった。
ほんの先刻まで、立つことすら叶わなかったはずのミハイルが、今、確かにそこに立っている。
固まったように、圧倒されたように――レオナールはただ、その光景を見つめていた。
「……反吐が出る。結局、お前はそうやって選ばれるんだな」
驚愕は、すぐさまどろりとした憎悪へと変色した。レオナールの碧の瞳が、剥き出しの敵意をミハイルに叩きつける。
「不当だと思わないか? 純血というだけで……ただそこに居るというだけで、何故これほどまでに与えられる!」
最早彼の纏う優雅さなどは欠片もない。そこにあるのは数十年の間、弟という「持てる者」の影に甘んじてきた男の、醜い本音だけだった。
「ニカエラの愛も、その血も、容姿も! 努力もなしに……ッ。俺がどれほど――」
レオナールが言い切るよりも早く。突如、彼の使役していた無数の蝙蝠が、新たな主をミハイルと定めた。
抗いようのない捕食者の気配に当てられ、生存する為の許しを乞うように、跪くように。
「……今更、目覚めたとでもいうのか」
吊り上がった口角が、小刻みに震えている。それは、認めたくない現実を前にした者の、歪な笑みだった。
認めるわけにはいかなかった。
出来すぎた奇跡のような覚醒に、泥を這うようにして積み上げてきた数十年の歳月が無造作に踏み躙られること。レオナールにとって、これ以上ないほどに受け入れ難い屈辱だった。
「彼は盾なんかじゃない。私の剣としてここに在る」
その顔は未だ蒼白としていたが、淡々と告げるゾラの表情は、あくまでも冷静そのものだった。
それは緊急的な措置だった。一時的で限定的な、彼との再度の契約。
不完全で歪で、けれどゾラが再び魔女としての力を取り戻すのには充分なものだった。
「お願い。彼を排除して」
それは命令でなく、祈りのように響いた。
ミハイルの赤い瞳が、静かにレオナールの姿を捉える。その赤は意思を持つのか、そうでないのか――曖昧な光を宿す。
黒い塊がその背後で蠢く。膨大な質量を伴うそれは、最早獣の群れではない。一振りの巨大な殺意としてそこに在った。
「……!」
レオナールは静かに戦慄した。
つい先ほどまで盤石の優位に居た彼が、見下したはずの弟に恐怖を覚えていた。その瞳に初めて、自分こそが獲物になったのだという絶望の色が混ざる。
それは洗練された剣戟などではなかった。
宙を埋め尽くす黒い翼の群れが、ある時は猛烈な突風となり、ある時は目に見えぬ圧力となってレオナールの四肢を削り取っていく。
ミハイルの意識は深海のような静寂の中に沈んでいる。
ただ、指先を僅かに動かすたび、背後の黒い質量が呼応し、レオナールの退路を、矜持を、そして余裕を一枚ずつ剥ぎ取っていく――その確かな剥離感が、空白の意識を塗り潰した。
かつて兄が自分にしたように。
逃げ道を塞ぎ、希望を見せては叩き落とし、その無様な姿を道化と笑うように。
今のミハイルが振るっているのは、ゾラの内側に澱んでいた、昏い愉悦の残滓だった。
「……あ、は……っ。素晴らしいな……!」
血を吐きながらも、レオナールが陶酔したような声を上げる。
仮面を剥がされた下に覗くのは、獣のような眼光。
彼もまた、ゾラの血をその身に取り込んだ存在だった。血管を流れる“彼女”が、死の淵に瀕した彼の生存本能を狂わせる。
「そうだ、この熱だ……ミハイルッ!」
咆哮と共にレオナールが地を蹴った。牙を剥き、喉元に食らいつくほどに肉薄する。
それは最早、高貴なヴァンパイアではなかった。ただ飢え、目の前の肉を噛み砕くことだけを欲する、剥き出しの獣性がそこにあった。
ミハイルを包む黒い霧を、レオナールは自らの爪で引き裂く。
蝙蝠の群れが彼の肉を削ろうとも、レオナールは止まらない。むしろその痛みすらも、ゾラと繋がっている証として享受しているかのような、狂おしい悦楽がその顔には張り付いていた。
だが。
ミハイルが僅かに、邪魔なものを払うように腕を横に振った。
刹那、空間そのものを押し潰すような衝撃がレオナールの脇腹を捉える。
「が、ふっ……!」
骨の砕ける音が夜の空気に混じる。
レオナールの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、石壁に激突してなお、立ち上がろうと指を動かす。
その眼窩に溜まった血の涙が、執着の深さを物語っていた。
ミハイルは、そんな兄の足掻きを観察していた。
――まるで、かつて自分がそうされたように。逃げようとする獲物の脚を折り、這いずる背中を見下ろす、残酷な遊戯のように。
ミハイルの手元で黒い質量が再び脈動し、一つの巨大な塊へと凝縮された。
それはもはや剣の形すら保っていない。レオナールの頭上に現れたのは、夜そのものを固めたような殺意の質量。絶望的な状況にありながら、彼はその死の予感にさえ、恍惚とした笑みを向けた。
「はは……お前なんかに。ここまで追い詰められるとは、ね……」
それは諦念のように。
“本物”への渇望に突き動かされていたのが嘘のように、いつも通りの、道化の笑みだった。
「終わりよ」
静かに告げるゾラの声に応えるよう、ミハイルが無慈悲にその質量を振り下ろした。
空気が軋み、地面が爆ぜるような衝撃がレオナールを襲う――はずだった。
轟音。
直撃の瞬間、ミハイルの指先が僅かに跳ねた。理由は分からない。ただ、“何か”が間一髪のところでその軌道を歪めた。
「ッ、が……ァ」
その衝撃波だけで彼の身体は無様に転がり、血を吐き出す。
殺意の塊は一瞬にして霧散し、夜の静寂が戻る。
レオナールの真横に穿たれた巨大な穴を、ミハイルは無機質な瞳で見下ろしていた。
まるで、壊れた人形のように――それを理解出来ないという様子で、ゆっくりと首を傾げた。
再び蝙蝠達がミハイルの意思に従い、レオナールの頭上へ死の質量を形成し始める。
「殺せ……今度こそ、殺してみろよ……」
その身を起こすことすら出来ないまま、レオナールは絞り出した。
死を目前に、受け入れるように嗤い。地面に投げ出すように腕を広げた、その時。
「そこまでになさい」
鋭くそう告げる声が、ミハイルをピタリと静止させた。
その声の主は、不相応に大きな外套を羽織った、赤毛の可憐な少女だった。
彼女はただ静かに兄を庇うように立ち、冷徹な双眸でミハイルを射抜いていた。
ミハイルの視線が彼女を捉えたのと同時に、黒い殺意が霧散する。
「エヴァ、ンジェ……リン……?」
定まらない意識の中で、唇だけがそう動いた。
「……随分と吸血鬼らしくなったものね。でも、もう充分でしょう」
エヴァンジェリンの声は夜の冷気よりも鋭く響いた。
彼女は泥に塗れたレオナールの腕を強引に引き、その肩を貸す。けれど小さなその身体では、傷ついた兄を支えるのにはおおよそ充分なものとは言えなかった。
「帰りましょう、兄様」
その声と同時に闇が集っていく。蝙蝠が兄姉を覆い隠したかと思えば、解け――その姿を闇に溶かしたかのように消し去った。
去り際、エヴァンジェリンの碧が、ゾラの姿を一瞬だけ捉えた。
ゾラもそれに気付き、けれど何を言うでもなく、二人を静かに見送るようにそこに立っていた。
嵐が去った後のような静寂の中。
ミハイルを支えていた力が抜け、彼は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「……ミハイル?」
その呼び声は、夜に溶けて消えた。




