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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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無力な盾、砕ける羊

 一度は考えた。あの夜、彼女の手で――なんて。

 それが兄の手に変わったとして、後悔はない。罪を犯してもなお、今日まで生き長らえた。

 罰される時がようやく来た。それだけのこと、なんだろう。


 背後から、衣擦れの音と共に掠れた声が届く。

「……ミハイル」

 ――まさか。

 振り返れば、いつの間にかゾラがそこに立っていた。吸血の痕が生々しい首筋は白く、今にもその場に崩れ落ちそうな危うさで。

 意識もまだ朦朧としているはずなのに、その瞳だけが必死に僕を捉えている。

「ゾラ、っ……なんで。無理、しないで――っ!?」

 叫びかけた僕の頬を何かが掠めた。

「余所見する余裕なんてあるのか? 守るんだろ?」

 冷たい嘲笑だった。

 弾かれたように前を向けば、レオナールの周囲を黒い渦――無数の蝙蝠が、耳障りな羽音を立てて舞っていた。

 遅れてやってきた痛みに、頬へ手を遣る。指先に付着した生暖かい感触で、ようやく自分が切り裂かれたのだと理解した。

「……守るだなんて、大それたことは言わない」

 絞り出す間にも、蝙蝠が黒い刃のように襲いかかる。ただ、そこにはまだ本気の殺意が込められているとは思い難い。

 威嚇か、それとも弄ぶ意図か――分からないけど。

 レオナールが退屈そうに指を弾く。

 刹那、視界が不自然なほどの黒に塗り潰された。鼓膜を劈くような羽音と共に、凄まじい衝撃が全身を襲う。

(熱いッ……!)

 最初に感じたのは、痛みというよりは“熱”だった。

 無数の小さな刃が身体を削り取っていく。腕を、肩を、頬を、鋭い牙が深く抉り、そのたびに肉が裂ける音が頭蓋の裏側にまで響いた。

 黒い渦となって僕を蹂躙するそれは、意志を持った悪意そのものだ。悪意の塊に飲み込まれ、咀嚼されているような痛み。

 掠めるたびに、僕の身体から何かが――血と、立っていようとする気力が、霧散していくのが分かる。

「……あ、……がっ、あ゛ぁ……!」

 声にならない悲鳴が喉の奥で潰れる。

 立っていられない。膝の裏を引き裂かれ、関節の制御が利かなくなる。

 それでも、膝を折るわけにはいかなかった。一度でも姿勢を崩せば、背後にいるゾラがその「顎」の餌食になる。

 右目に生温い液体が流れ込んでくる。視界が真っ赤に染まる。

 レオナールの冷ややかな笑い声が、遠く、ひどく高いところから降ってくるように聞こえた。

「そんなボロボロになってまで、健気なもんだ」

「……は、はやく。に、げ……ゾラ……」

 必死に絞り出すも、唇の端から溢れるのは言葉でなく鮮血だった。

 肺が潰されたように苦しい。身体がもう、自分のものではないみたいだ。削がれた肉が夜気に触れて、焼けるように痛む。

「……っ」

 背後のゾラが、息を呑むのが分かる。迷っているのだろうか。

 何に? そんなことを考えるには、あまりにも状況が悪く……焦燥と苛立ちが募っていく。

「ッ、はやく逃げろ!」

 声を荒らげても、ゾラがそこを動く気配はない。返事もない。

 ただ、彼女が微かに肩を震わせたような空気の揺らぎだけは感じた。

 その揺らぎを、この絶望的な蹂躙のなかでさえ、僕は残酷なまでの幸福として感じてしまっていた。

「へえ。ゾラ……か」

 代わりに口を開いたのは、レオナールの方だった。顎に手を当て、逡巡するような素振りを見せた。

 その僅かな間だけ蝙蝠が凪いだ。

 兄は目を細め、意地の悪い笑みを作る。

「俺が知らず知らずのうちに恋焦がれた魔女は、ゾラって名前だったんだね」

 一歩、詰められる。けれど動けない。

 退かないと決めた……だから、退けない。実際には立っているのもやっとだが、それでもまだ倒れるわけにはいかなかった。


「なあ、ゾラ。こいつをどう思う? 優しくて無力な羊にでも見えるのかな。まあ、白いし」

 レオナールは、僕を見てなどいなかった。僕を過ぎて、その背後――ゾラを見つめていた。

「……一番卑怯なやり方だ。自分の傷つく姿を見せて、君に罪悪感を抱かせようとしてる」

 ゾラは何も言わなかった。

 息が詰まる。

 何も言い返せない。それは意図せずとも、事実にも違わないものであるから。……彼女の沈黙こそが、何よりの証拠だ。

 俯こうとした首筋に、力任せの衝撃が走る。

「っ、あ……」

 胸倉を掴まれ、強制的に顔を跳ね上げられた。

「見下してるんだろ、俺のこと。気づいてないかも知れないが……ずっとな。弱い癖に、背だけ無駄にあって」

 逃げ場のない至近距離。僕にだけ聞こえる声で、囁くように吐き捨てられる。

 それは兄としての声ではなく、敵のそれでもなかった。ただ、長い時間を腐らせたような感情が、耳元に落ちてきただけだ。

 皮肉なものだ。激痛に折れそうだったこの身体を、今この瞬間、僕を壊そうとしているはずの兄の腕が、吊り上げるようにして支えている。

 碧の瞳が、僕の無様を愉しむように嗤っていた。

「そうでもしなきゃ、ゾラの中に居場所を作れない……だろう? ミハイルよ」

 その言葉が胸の奥に深く、沈んでいく。

 否定出来ない自分がそこに居た。

 その瞬間だった。胸倉を掴んだレオナールの手が、突き放すように僕の胸元を後ろへと押した。

「ぐ、ッ……!」

 石畳に膝を叩きつけた。骨が軋む鈍い音が、頭の奥で反響する。

 退かないと決めたのに。それすら守れない自分が、ひどく惨めに感じられた。

 立ち上がろうとしても、指先ひとつ思うように動かない。……あまりにも、血を失い過ぎた。ここが僕の限界、だったのかも知れない。

 膝をついた僕を見下ろすレオナールの瞳に、冷徹な愉悦とは違う、どろりとした熱が混じるのを僕は見た。

 それは、長く抑圧されてきた者が抱く、暗く昏い渇望のようでもあった。

「……ああ、そうだ。その顔だよ、ミハイル。全てを奪われ、何も持たなくなった時、お前の中に何が残るんだろうな?」

 彼の声は最早演技の皮さえ剥がれ落ち、獣の唸りのように低く響いていた。

 答えなど持ち合わせていなかった。そんな僕の名を、背後から誰かが呼んだ。

「……ミハ、イル……」

 耳を打つ、細く消え入りそうな声。

 あの日。僕が部屋に踏み込んだ夜――暗がりで怯えていた彼女。無敵の魔女として振る舞う彼女の奥底に隠されていた、あの震えるほど脆い少女が、今すぐ後ろにいる。

 抱き締めてあげたかった。汚れた頬を拭って、大丈夫だよと、安心させるように笑いかけてあげたかった。

 だが、そんな権利が僕の何処にある。彼女を追い詰めた元凶は、紛れもなく僕自身であるのに。

 ……“あげたかった”?

 その言葉を選んだ時点で、僕はいつの間にか彼女を見下ろす位置に立っていた。

 滑稽だ。

 そんなのはただの独り善がりで、僕自身の許されたい願望でしかない。盾になると決めたことさえ、自分を正当化する為の免罪符に過ぎなかった。

 それに。今の僕の指先は、汚濁に塗れている。この手で触れれば、彼女のことを取り返しのつかないほど汚してしまうだろう。

 ――けれど、その時。

 背中に、不意に柔らかな重みが加わった。冷え切った僕の背中を、不相応な温かさが包み込む。

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 それが彼女の体温だと理解するのに、数秒の時間を要した。細い腕が僕の首筋に回され、血の匂いも泥の汚れも厭わずに、彼女が僕を背後から抱き締めていた。

「ミハイル……もういい。もう、充分だから」

 耳元で囁かれた声は、震えていた。魔女としての冷徹な響きではない。ただの、泣き出しそうな少女の体温。

 汚してしまうことを恐れて触れられなかった。それなのに、彼女の方がその身を汚してまで、僕を受け入れてしまっていた。

 その体温が、言葉が、あまりにも――僕がずっと求めていた、“赦し”の温度に似ていた。

「けど……」

「いいから」

 迷う僕を、彼女の言葉が鋭く断ち切った。

 最初その『もういい』が、僕には諦観にも聞こえた。けれど――見上げた彼女の瞳は、これまでに見たことがないほど、激しく切実に燃えていた。

 彼女はまだ、何も諦めてなどいない。

「……見せつけてくれるね」

 言うレオナールの顔には、ひどく不快なものと相対したような苛立ちが滲んでいた。

 へたり込んだ僕へまた一歩、兄が死神のような足取りで近づこうとする。だが、ゾラがその進路を遮るように間に割って入った。

「もっと見せつけてあげる」

 それはあまりにも一瞬のことに感じられた。

 振り返った彼女が僕に覆い被さった。彼女の髪の香りと、目の前には白く細い彼女の首筋。レオナールに傷つけられた、そのすぐ側。

「――吸って、ミハイル」

 確かに彼女はそう告げた。けれど、その響きは冷たく抗いようのない命令などではなく、一人の少女の切実な祈りにも似ていた。

 僕はもう、恐れるのをやめた。

 誘うような甘い匂い。その白い皮膚へと――僕は、魂のすべてを叩きつけるように牙を立てた。

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