幕間『姉と妹』
夜更けにドアを叩く音が響いた。
はじめ、それを兄様だと私は思ったのだが。
「エヴァ、居るかしら」
一瞬息が詰まった。まさか彼女が、私の部屋を訪ねて来るとは思いも寄らなかっただけに。
私は寝間着のまま、細くドアを開いた。
「姉様……どうなさったの」
シルクのガウンははだけ、目は泣き腫らしたように赤い。
かつての彼女なら、たとえ身内にさえ指先一つの乱れも見せることを嫌ったはずだ。常に完璧な鎧を纏い、隙のない美しさで周囲を威圧していた女。
それが今は、ただの惨めな一人の女としてそこに立っている。
不安定――その言葉がどうにも頭から離れない。
あの夜から彼女はどこかおかしかった。以前のような、傲慢とも言えるほどの自信に満ちた顔は、今はどこにもない。
ミハイルを失ったことがよっぽど堪えたんだろう。
「レオナールを見かけなかった?」
――そう、もう一つ変わったことがあった。
以前なら、兄様のことも私のことも、その一切を気に掛けることは無かったのだ。
それなのに。
傷ついて帰ってきたあの夜以降、特に兄様に対し……不思議なほどの執着を見せるようになった。
彼女の首筋に残る痕、乱れた髪、焦燥した声音。その全てが、今しがた何があったのかを雄弁に物語っていた。
胸の奥で何かが燃えるように熱くなる。怒りなのか、嫌悪なのか。それとも――失ったものへの焦りなのか。
ミハイルの代わりに兄様を求めたのだ、この女は。
私の唯一の『同類』を、代替品として扱った。
「いいえ?」
即答した。本当かどうかは問題ではない。彼がどこにいるかを知ること自体、今は不要だった。
かつて彼が差し向けた好意を、あんなにも無惨に切り捨てたのはこの女だ。
それなのに、ミハイルを失い独りになった途端、拾い直すように彼を求める。その図々しさが、その醜さが、何よりも腹立たしい。
「そう……」
その顔が一層曇った。けれど、何か思いついたかのように口を開く。
「ねえ、エヴァ。家督をおまえに譲ろうと思うのだけど」
唐突なその言葉に、すぐに反応出来なかった。
驚きよりも先に、胸の奥が冷えていく。乾いた絶望がゆっくりと沁み広がった。
一体どういう風の吹き回しなのだろうか、と。彼女の意図が読めない。
「っ、何を言って――」
「私にはもう必要ないもの」
ようやく口を開いた私が言うのを遮るように、ニカエラは言葉を被せ、ふと自嘲気味に笑う。
「レオナールには断られたわ。だから、おまえに」
「……そんな」
納得がいかなかった。
確かに、ニカエラがこのリュセリエ家の当主の座に居ることには、不満があった。
弟のことしか頭にないこの女をのさばらせること。それがひどく不愉快ではあった、が。
本来、家督を継ぐはずだった兄様こそ、その座に相応しいだろう。それなのに、兄様はそれを蹴った。そしてニカエラは私に譲ると言う。
「頼んだわよ」
言い、両肩に手を添えられる。
「こういうことは、兄様も入れて。三人で話し合うべきと思うのだけど」
「レオナールの考えはきっと変わらないわ」
ニカエラは即座に言った。まるで、自分こそが彼の一番の理解者だとでもいうようなその態度が癪に障る。
「それでも。話し合うべきよ」
私の考えは変わらない。こうしてついでのように、投げやりな風に家督を渡されるなんてことは、どうしても許せなかった。
「姉様の言うことを信じないわけじゃない。ただ、そうするべきと思うから」
「……分かったわ。じゃあ、彼を探してちょうだい」
そうとだけ言い残し、ニカエラは踵を返した。
自分勝手だ。ニカエラも、兄様も。
私の知らないところでそんな話をしていただなんて。私の気持ちを考えもせず、結論だけを押し付けようとしている。
……いや。
兄様を責めるのは筋違いだろう。あの女が彼を利用したのだ。代替品として、慰みとして。
勝ち取ったのなら、まだ誇りも持てただろう。
けれど、ただ消去法で――兄様に断られたから、ついでに私へ。まるで要らなくなった衣装を押し付けるように。
そんなものに、何の価値がある?
許せなかった。両親が守ろうとしてきたリュセリエ家というものが、貶められた気がして。
本気で憎いとまでは思わないけれど。
バルコニーに出る。冷たい夜風に当たれば、少しは頭も冷えてくる。
一匹の蝙蝠を呼び寄せ、告げる。
「……兄様を探して」
私の命令を仲間に伝達するよう、群れの中へと帰っていく。彼らは解けるように、夜空へと散っていく。
大方、また遊び歩いているだけだと想像する。けれどその行き先には考えが及ばない。
夜の街なのか、それとも知らない場所か。一人なのか、誰かと居るのか。何をしているのかすらも――分からない。
ただ、待つだけなのも退屈だった。だから私自らも捜索する。
当主となるのであれば、問題の大小問わず、私が解決しなければならないだろう。だとすればこれは予行演習のようなもの。
ただ探し出す――それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせ、私は夜の闇を睨む。散っていった蝙蝠たちが、遠くでざわめいたような気がした。
この退屈な夜のどこかに、私の知らない“毒”が混じっている。
その確信に近い予感だけが、私の足を冷たい街路へと向かわせた。




