演目『兄と弟』
この魔力は、ゾラだ――
路地の奥、角を曲がった瞬間だった。
月明かりの届かない影の中に、最初に見えたのは誰かの背中。
それが何なのか、すぐには理解出来なかった。
けれど。
一瞬、息が止まった。
「あ、あぁ……っ、やめろ――ッ!」
頭の中が、真っ白だった。
ただ衝動的にそう叫び、それにぶつかっていった。どうしてか……分からなかった、けど。
「っぐ、う……!」
その誰かは既のところで身を躱した。
鈍い痛み。走り疲れた挙げ句の僕が当たっていったのは――硬い石畳に、だった。
けれど今は痛みなんて、感じている場合じゃない。
「ゾラ、……ゾラ、っ……」
身を起こし、這いずるように彼女のもとに向かう。
――遅かった。
地面に横たわる彼女は、呆然とした瞳で虚空を見つめていた。
彼女を抱き起こすと微かに血の匂いがした。甘く、濃密な――彼女の魔力が混じった血。
その首筋には二つの滲む痕……それが何かは、考えたくなかった。
「折角いいところだったのになあ? 無粋なことをするもんだ」
声に振り返り、視線をやる。
涼しい顔をして立っているレオナールだった。正しく整えられた装いに、髪の乱れの一つもなかった。
「ゾラに、ッ……何をした……!?」
言葉が上手く出てこないのは、兄さんが怖かったから。
怒りの矛先が明確に彼だったとしても、その感情を向けるにはどこか躊躇いがあった。兄さんの声を聞くだけで、あの息の詰まる城の静寂が蘇る。
それに――答えを聞くのが、怖かった。
僕の想像しうる最悪が、現実のものであることを……知りたくはなかったから。
「まだ血を戴いただけさ」
その言葉に、あの廃墟でのことが脳裏に蘇った。彼女の痕跡を穢すような、兄の所作。
あれを見た瞬間の感情が再び戻ってくるようだった。
いや、あの時以上に激しく……憎悪に似た衝動が、喉の奥で暴れていた。
それを言葉にしようとしても、声にならない。歯を食いしばるしかなかった。
レオナールは、その様子を楽しむように眺めていた。視線は僕ではなく、腕の中のゾラに注がれている。
「安心しろよ。殺しちゃいない」
軽い口調だった。まるで、些細な誤解を解くように。
僕は無意識に、ゾラを庇うように一歩前に出ていた。
――見習うべきと感じた、使い魔の立ち位置。
どうして今になって思い出したのか、分からない。ただ、こういう時はこう立つのだと、かつて見た手本が身体を動かしていた。
膝が震えているのが分かる。体力が戻っていないのも、兄さんとの力量差も、理解している。
それでも、退くという選択肢だけがどこにも見当たらなかった。
「少し、喉が渇いていただけさ」
その言い方が、どうしようもなく癇に障った。彼女を“飲み物”のように扱う、その距離感が。
「しかし……魔女の血にも色々あるが。彼女のは、やっぱり格が違う」
レオナールは薄く笑い、指先で自らの唇に触れた。
そこに残る、僅かな赤。それを舐め取る仕草一つが、彼女の尊厳を冒涜しているように感じられた。
「……黙れ」
やっと、それだけを絞り出す。
震える声が、自分の喉から出たものとは思えなかった。
僕は触れることさえ恐れ、敬意という名の臆病さで守ろうとした。欲するのは罪で、けれど彼女から施されるのは赦しだと、感じていたものを。
それをこの男は土足で踏み荒らした。
「へえ」
レオナールは眉を僅かに上げ、短く息を吐く。
興味深いものを見つけたような、そんな表情で。
「随分と必死じゃないか。いつからそんな顔をするようになった?」
その問いに答えはなかった。
ただ、待つことはもう……出来なかった。
ここに立ってしまった以上、戻る場所なんて、最初からなかったのだ。
「そこを退けよ。ミハイル」
レオナールの声には、明確な不快感が混じり始めていた。
僕はゾラを背に庇うようにして、ただそこに立っていた。足の震えが止まらない。石畳を掴む靴の先が、情けなく細かく刻んでいる。
兄さんと目が合うだけで、喉の奥がせり上がり、胃が引き絞られるような恐怖に襲われる。
「嫌だ……」
「何だって?」
「嫌だと言ったんだ、兄さん。……彼女には、触れさせない」
それは攻撃ですらなかった。拳を握り締めることも、牙を剥くことも忘れた、あまりに無防備な拒絶。
戦略も勝算もなく、ただ彼女を視界から隠す為だけに自分の身体を投げ出している。
レオナールがゆっくりと歩み寄ってくる。一歩ごとに、凍てつくような殺気が肌を刺した。
逃げ出したい。今すぐここから消えて、暗い部屋の隅に閉じ籠もっていたい。けれど、背後から聞こえるゾラの微かな呼吸が、僕をこの場に繋ぎ止めていた。
「お前に何が出来る? その細い腕で俺を止めるつもりか?」
「何も出来ないのは、分かってる……」
視界が滲む。恐怖のあまり、勝手に涙が溢れそうになる。それでも、僕は一歩も引かなかった。
僕には、彼女のような圧倒的な魔力はない。兄さんのように完成されたヴァンパイアにも成れない。
ふと、あの夜出会った二人の使い魔の姿が脳裏を過った。
ナザヘルのような、場を支配する圧倒的な格と力。或いは、ゲルドリヒのように、主を脅かすもの全てを食い殺さんとする獰猛さ。
もし僕に、彼らのような力があったなら。ただ無様に立ち塞がるだけでなく、目の前の「兄さん」という絶望を、自らの手で排除出来たのだろうか?
――無理だ。
思考がその結論を導き出した瞬間、喉の奥から引き攣ったような音が漏れた。
なにも面白いことなんてないのに、口角が勝手に吊り上がる。膝は震え、嫌な汗が全身から吹き出しているというのに。
あまりの無力さに、あまりの絶望的な格差に、脳が「戦う」という選択肢を完全に放棄してしまっていた。
僕にあるのは、奪う為の牙でも、守る為の爪でもない。ただ、痛みを感じ、血を流すことしか出来ない――中身の詰まっていない、空虚な器だけだ。
今の僕はただの肉の塊だ。
けれど、この肉が切り裂かれ、骨が砕かれるまでの間なら、彼女に届く牙を遅らせることが出来る。
「僕は退かない……」
兄さんの顔からは余裕の笑みが剥がれ落ちる。代わりにその目に宿ったのは、得体の知れないゴミを見るような不快な苛立ちだ。
……それでいい。
たとえ死んだとしても――彼女を逃がす為の数秒、それを稼ぐ為だけの盾になる。それが今、何者でもない自分が選んだ、唯一の役どころだった。




