偽物同士
「なあ、お嬢さん。俺を使い魔にする気はないかい?」
逃げ場を奪う彼の影が、月明かりを遮って彼女を飲み込んでいく。背中に触れた煉瓦壁の無機質な硬さが、これ以上は下がれないという残酷な事実をゾラの脳に突きつけた。
普段通りの彼女であれば、彼を退けるのも容易いことだったろう。
だが今、ゾラは使い魔を持たない“魔女もどき”だった。そしてその事実を、この男は見透かしていた。
「悪いけどヴァンパイアにはもう懲り懲りだわ」
ゾラはあくまでも平静を装ったまま、彼を睨むように言い捨てた。
レオナールはふっと笑う。彼女の髪を一房掬い上げ、その指先で弄ぶ。
逃げようとする本能と、魔女としての矜持が内側で衝突し、指先が微かに痙攣した。それを悟られまいと指を丸め込むが、その僅かな揺らぎこそが、レオナールにとっては何より饒舌な獲物の告白として映る。
「やっぱりあの落ちこぼれでは。君に相応しくなかったかな?」
碧の瞳が細められる。
「あなたには関係ないことよ」
短くあしらうのと同時だった。レオナールの手が、ゾラのか細い手首を掴む。
「……っ!」
逃げようと身を捩った瞬間、手首に食い込んだ指先から、ゾラの体温が急速に奪われていく。
――冷たい。
それは単なる無機質な冷気ではない。彼女の熱を吸い取り、内側から凍えさせるような、捕食者特有の静かなる冷徹さだった。
掴まれた手首はまるで鉄の枷を嵌められたようで、どれほど抗ってもその冷酷な重圧が揺らぐことはなかった。
「一つ、教えてくれないか? ……出来損ないは、君を満足させてくれたのかな」
その微笑みは、どこまでも冷ややかだった。
掴まれた手首の熱が、かつて自分を縛っていたあの男の指の温度と重なり、ゾラの思考を白く染め上げる。
魔力を――と、頭の中で命じる。
しかし、指先すら動かない。
使い魔が居ない今、魔力は思うように流れず、編み上げることが出来ない。
「……離しなさい」
氷のように冷徹な拒絶を突きつけたつもりだった。だが、喉の奥から這い出したのは、自身の意に反して細く、惨めに湿った震えだった。
「無駄だよ。君は今、“もどき”で――ただの女だ」
レオナールが囁く。その響きは甘やかでありつつも、ひどく残酷なものだった。
振り解こうと身を捩れば、却って彼の手首への執着を強めるだけった。鼻先が触れるほどの距離で、彼はゾラの境界線を容易く踏み越えてくる。
深く、深く、肺の腑まで汚染するような呼吸で、彼は彼女の匂いを吸い込んだ。
「あいつには牙がない、欲望がない。……君のような極上の『本物』を前にして、触れもしなかっただろう。そんなのは不能と同じだ」
熱を帯びた言葉が、毒液のように鼓膜から浸食する。
「君にはもっと相応しい相手がいる。欠落を埋め、凍えた体を焼き尽くすような、本物の熱を与えられる男が」
ゆっくりと顔を上げ、冷たい碧がゾラを射抜いた。
それはまるで、求愛の言葉のようだった。けれど、鋭い刃物を突きつけ愛を乞うような、どこか倒錯的なものだった。
「俺を選べよ、魔女。……ミハイルよりも、俺の方がずっと上手に愛してやれる」
貼り付けたような薄ら笑いが消える。代わりに浮かんだのは、剥き出しになった昏い欲望。
ゾラの身体が強張る。警戒せざるを得ないほどの豹変。この男を軽んじても良いと判断した自分を、心の中で責めていた。
彼の放つ捕食者特有の重圧に曝され続けるうち、ゾラの体内には、かつてグラムに所有物として扱われていた頃の卑屈な記憶が、泥のように沈殿し始めていた。
頭では拒絶している。けれど、肌が、神経が、この圧倒的な上位者による支配の予感に、あろうことか甘やかな戦慄を返してしまう。
「ずっと探していた――君のことを。だからこの瞬間を逃すつもりはないよ」
再び彼はゾラの首筋に顔を埋めた。
今度は触れるだけではない。妙に湿度を孕んだ吐息が擽り、牙が掠める。
「っ、やめ……」
ゾラは無意識に肩を震わせ、顎を引いた。
それは魔女としての抵抗ではない。かつて嫌というほど繰り返された“罰”の重みを思い出し、ただ無力に次を待つ、訓練された愛玩物の怯えだった。
「……へぇ」
レオナールの碧い瞳に、卑俗な愉悦が浮かぶ。
「ただの女、というのも訂正しようか。君、……いい加減に使い古されているね」
その言葉が、ナイフのようにゾラの心臓を抉った。
「娼婦みたいな安っぽさはない。けど、それよりもっと質が悪い。……誰かに飼い慣らされていた『器』の反応だ」
見透かされたその事実に、指先から、思考の端から、薄皮を一枚ずつ剥がされるようだった。
ゾラの身体からは抵抗が失われていく。まるでその誰かが、跪けと命じたように。
「けどね、大いに結構。その痕跡こそが、君の得難い価値だと思わないか?」
甘やかに鼓膜を揺らす声は、嗤うでもなく――誠実でもない。だが、逃れようのない真実を突きつけるような、重苦しい熱を帯びていた。
「ミハイルのような潔癖には、君のその“汚濁”の愛で方など分かりはしない。あいつは君を女神か何かのように崇拝するだけだろうが、俺は違う。俺も君と同じ、泥を啜って生きる側の存在だ」
ゾラは奥歯を噛み締めた。
否定したかった。だが、彼の吐息が触れるたび、自分の中に澱んでいた醜い記憶が、同類を見つけたとばかりに歓喜で震える。
それは、自身の最も隠したかった核を暴かれた屈辱。そして同時に――魔女として気高く在り続ける為の虚勢を、もう維持しなくていいのだという地獄のような安堵だった。
最悪な男に、最悪な形で救われてしまった。初めて理解されたという錯覚が、逃れられぬ呪いのようにじわりと細胞の隅々まで染み渡っていく。
「俺は真っ当に欲しがるだけさ。……なあ、俺の方がずっと、君に相応しいと思わないか?」
レオナールは再び彼女の首筋に唇を寄せる。
突き立てられた牙は、ゆっくりとゾラの首筋に沈み込んでいく。
「っ、く……ふ、ぅ……っ」
思わず声が漏れる。どうしてか、ミハイルに施す時とは違った。
そこに確かな痛みがあった。刺すような、けれど血を抜かれていけば、熱が滲むように甘い痺れが襲う。
力が入らなかった。ゾラは、その腰を捕まえるレオナールの腕に、委ねるように身を預けてしまっていた。
どれくらいそうしていたかは曖昧だった。一瞬のようでも、永遠のようでもあった。
「あぁ、本当に……。堪らないな」
ゆっくりと牙が引き抜かれ――彼は血に濡れた口角を吊り上げる。
恍惚とした瞳がゾラを見つめる。
「余計、手放せなくなった」
掴んだ手首を引き寄せ、レオナールは口づけた。薄い皮膚の下で脈打つのを、その唇で確かめるように。
「……後悔するわよ。あなたのような男を殺したことがある」
「おお、それは怖い」
ゾラは嫌悪を煮詰めた双眸で彼を睨みつけるが、その肌の表面を這う微かな痙攣までは抑え込めない。
レオナールはわざとらしく言い、震える素振りを見せた。
「気が強いのも悪くないが……今、この場で。どちらが優位かを教えてやる必要があるね」
彼は一つ息を吐くと、ゾラを引き寄せ、その場で組み敷いた。それは、あまりにも一瞬の出来事だった。
あの日の事が思い返される。
明け方前の礼拝堂、祭壇の前で。
ただあの日と違うのは――今、彼女の中にあるのは生きる為の必死さでなく、諦念。
この男の差し出す“愛”は、かつてのグラムの支配の形そのままだった。
またあの恐怖が蘇る。
その視線の下で、本人の自覚とは無関係に、身体だけが先に折れていくのが分かった。
逃げたはずなのに。
殺したはずなのに。
それでも、同じ結末が待っているのだと――抵抗しない理由を、探してしまう自分がいる。
……それが何よりも、恐ろしい。
ゾラの思考は、ゆっくりと沈み始めていた。




