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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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見誤るのは

 空っぽの部屋の中、ただ立ち尽くす。

 そして棲家の中を何度も、何度も確認する。名前を呼びかけながら、彷徨うように目視しても――

 馬鹿だ。

 そんなの、明白じゃないか。

 僕は扉の前から一歩も動かずそこに居た。ゾラが出てくることはなかった。

 それに、開けっ放しの窓を見れば……そこから外に出たということは誰の目にも明らかだろう。

 彼女は居なくなった。

 その事実が、じわじわと理解に侵食してくる。

 まだ、繋がっていると思っていたのは自分だけだったのではないか。

 守っているつもりで実際は何も見ていなかったのではないか。


 ただ、今更になってひどく胸が苦しくなる。

 僕の行いが意図せずゾラを追い詰めたという事実。

 そして、この夜の闇の中に使い魔を持たないままの彼女を行かせてしまったことへの強い不安。

 こんな、動けないまま――時間が過ぎていくのだけは……嫌だ。

 僕は飛び出していた。

 冷たい空気が肺を刺し、頬の感覚が薄れていく。

 それでも足は止まらない。あのまま待つという選択肢が、最初から存在しなかった。

 彼女の残した魔力の欠片に縋るよう、走り続ける。

 胸に重く沈むのは、何かが起こる予感ではない。何も起こらないまま、彼女が「居なかったこと」になる――

 その静かな結末だけは、どうしても受け入れられなかった。

 過ぎる景色は意味を失い、視界の端で崩れていく。

 僕は彼女を追っていた。

 いや、本当は――

 ゾラと繋がっていた感覚を、必死に引き留めていただけなのかも知れない。




 夜の底は、驚くほど冷えていた。

 暖炉の前とは違う。肌を刺すような風が、むしろ火照った思考を強制的に冷却してくれるようで、深く息を吸い込んだ。

 肺の奥まで凍てつく感覚。それが、かつて当たり前だった“孤独”の味だった。


 石畳を叩く自分の靴音だけが響く。

 魔女としての感覚を取り戻さなければならない。誰かを支配し、魔力を注ぎ込み、手足として使役する。

 それがなければ魔女として存在出来ない。何者にもなれず、ただの女にされてしまうことは絶対に避けたかった。

 それは堕落、退化――弱かった自分への回帰。そんなものは望んでいない。

 私は二度と支配されたりしない。そうでなければ、あの日殺した支配(グラム)感情(クラリカ)はただの幻に成り下がってしまう。


 久しぶりに訪れた街は、賑やかだった。目眩がするほどの眩しさ。森の中の静寂に慣れ切ってしまっていた。

 ただ、今の私が新たな使い魔を探すのにここほどうってつけの場所はない。

 人の営みに紛れ、魔性が潜んでいるかも知れない。それは捕食の為に彼らが振り絞った擬態という知恵。

 幾ら人間のフリをしようとも、私の目はそれを見破ることが出来るだろう。ここでなら、正体を隠す彼らも大々的には動けないはずだ。

 だから私は、人の集まる場所を選んだ。そう、人間として振る舞う魔性を使い魔に貶める。

 それに相応しいのは、グラムともミハイルとも違う存在であることが望ましい。

 ……どうだろう。

 命令に従い、余計な感情を抱かない。傷つかず、私に何も求めない、ただの道具。

 対価以外のものを要求せず、欲の向かう先が明確な相手――ミハイルのように、何も要らないような顔をしながら、見えない対価を差し出させる相手は厄介だ。

 傍に居たいだなんて言わない、そういう相手。ただ、利害が一致するというだけで契約のみに基づく関係性。

 ……思考する道具は必要ない。


 微かに“匂い”を感じる。巧妙に隠しているが、魔力というものに日頃から触れている存在であれば、その気配に気づくのは容易なことだろう。

 紛れている――そう確信した。

 辺りを見渡せば、喧騒。そのどれもが人間に見える、が。

 不意にある男に目が留まる。

 その男は赤い髪をしていた。まるで、血を思わせる……マレインのそれより、鮮やかな赤だった。

 隣に連れた女の肩を抱き寄せ、何事か囁くようにしている。見るからに軽薄そうな、夜の街に溶け込んだ男の風情。

 だが、その所作は酷く歪んで見えた。


 女を導く足取りは優雅で、まるで舞踏会のエスコートでもしているかのように紳士的だ。しかし、女の薄い衣の上を遊ぶその指先は、ひどく執拗で下卑ている。

 男は、女の腰に添えた手をすぐには離さなかった。触れているというより、そこに置いているだけのようでいて、指先の重みがじわじわと沈んでいくのが遠目にも分かる。

 不思議なことに彼の動きは決して粗野ではなかった。

 乱暴でも、急かすでもない。それなのに――どこか、ぞっとするほど粘ついた熱を帯びている。

 触れているのは指先だけのはずなのに、その視線はまるで肌の下をなぞるようで。

 女の方はきっと気付いてはいない。その男が人間ではないという可能性を考えもしないだろう。その証拠に、女は媚びるように男の胸元に額を預けていた。

 派手な身なりの女だった。娼婦、だろうか。そんなものの為に、この男は人に擬態しているのか?

 だとすれば、色に狂った魔性か。下級の夢魔――私はそう結論付けた。

 制御はし易いだろう。けれど、求められる対価について不安は拭えない。それは一番、私が触れたくない類の対価だった。

 ただ、ある程度の自由を保証してやれば……私が与えずとも、他で満足するのではないか。例えば、私が差し出すのはただの魔力だけだとしても。

 視線を外さなければならない。理性はそう告げていた。

 それなのに、男が女の項に顔を寄せ、その髪を指先で絡め取る動作から目が離せない。

 他に気配はない。だから、その男だけがこの喧騒の中の違和感として――いや、毒としての引力で、私の目を捉え続けていた。


 その背中を追った。

 未だ決めたわけではない。これはただの観察。この男が私の思うような存在かどうか、見極める為の。

 喧騒を離れ、男は暗い路地の方へと歩いていく。女も一緒だった。

 少しのやり辛さを感じていた。男が一人になるタイミングが読めない。

 それに、その一部始終を見せつけられるのがひどく不快なものだった。案の定、人気のない暗がりで事が始まってしまった。

 微かな布擦れと、抑えた笑い声。狭い路地に反響する嫌悪を伴う音。

 見る必要も、その価値もない。ただその低俗な行いが、その存在の下劣さを雄弁に語るようだった。

 知能が低く、本能に忠実な男。少なくとも、そう判断するには充分な材料に思えた。


 やがて音が止み、暗がりから男が再び姿を現した。しかし、その傍らに女の姿は無かった。

 男は更にその先へ――誰も居ない路地の向こうへと歩いていく。

 私は後を追った。

 二人が姿を消したその暗がりを覗けば、そこに女が居た。

 正確に言えば、女はもう事切れていた。動かず、息もしていない。

 そしてその首筋には――赤く、穿たれたような痕。

 私は無意識に、自分の首筋に手を置いていた。ミハイルの咬んだ痕が僅かに隆起して残っている。

 ……嫌な予感がした。

 であるなら、私の見立ては間違っていたのだと。

 踵を返し、来た道を戻る。

 関わるべきではない――そう判断した瞬間だった。


「お嬢さん」

 聞こえたのは背後。どうしてか、その声を無視出来はしなかった。

 振り返れば、いつの間にか。街灯の届かない影の中に人影があった。

「ずっと後をつけていただろう。……そんなに俺が気になる?」

 声は低く、軽い。冗談めかしているのに、背筋が冷える。

 気配に気づけなかった。

 男が一歩、こちらへ出る。暗闇の中でその瞳だけが異様に鮮やかだった。

「……君だったんだね」

 初対面のはずなのに。その言葉は、まるで前から知っていたかのようだった。

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