“弱さ”の名
逃げ帰った自室で、私は無様に蹲っていた。
耳障りな音がする。ドクン、ドクン、と。肋骨の内側を早鐘のように叩く音。
これは恐怖? 違う。私は彼を恐れてなどいない。
あのヴァンパイアは、狩りすらままならない。捕食者のくせに、誰かを傷付けるのを極端に恐れている。
同族が見れば彼を落ちこぼれと評するだろう。……同族でなくてもきっとそう言う。
――なのに。
怖がる必要なんてどこにもない。それなのに何故、こんなにも鼓動が速くなるのか。
耳を塞ぐようにしていても音は止まない。それは私の内側から聞こえてくる音であり、どうしたって止められはしないものであるから。
私はきっと気付いている。これが恐怖でないなら、この高鳴りの正体はきっと――
だけど認められない。認めたくなど、ないのだ。
これを認めてしまえば私は、弱いはずの彼に支配されてしまう――そう感じるから。
ミハイルを縛るのをやめた。彼は自由になったはずだった。
それでも彼はこの棲家を去らなかった。
最初は血への渇望に耐えかねて寄生しているのだと思った。私が与えなければ彼は干からびるしかないのだから、媚びるのは当然だと結論づけた。
それも回りくどく、契約がない今、労働の対価としてそれを求めようとしているのだとばかり。
だが、違った。ただ「傍に居たい」などと何の対価にもならない無意味な言葉を、祈るように差し出してくる。
その言葉は私を縛る。逃げ場を奪う。まるで、優しい鎖のように。
彼は血をねだらない。グラムのように身体を求めることもない。
じゃあ何故?
それが分からない。分からないことが、私は怖い。
怖い? 違う。その気持ちの正体こそが恐ろしい。
もしかしたらその感情が、私の中にもあるかも知れないということが一番、恐ろしかった。
私の中にある、幼い“クラリカ”の部分――グラムに飼い慣らされ、その支配を愛だと錯覚して縋っていた、惨めな私の残滓。封じ込めていたそれが、奥底から呼び起こされるような感覚。
創られたわけじゃない。私が元々持っていた、本当の自分。……それが今、ミハイルの優しさに共鳴して息を吹き返そうとしている。
彼を信じたがっている。愛してしまいそうになっている自分がいる。
私はそれに、気付きたくなかった。
「それじゃ駄目……」
不意に呟いていた。
それではまた、同じことを繰り返す。そんな未来しか私には見えなかった。
だからこそ――
窓の外を見る。
かつて、彼が持ち帰り庭に植えた花が枯れていた。以前の私なら、それに対し特に思うこともなかっただろう。
それなのに、どうしてだか――窓越しに指でなぞってしまっていた。
惜しんでいるのだろうか。あれはなんの役にも立たない、見た目だけの花々で……私の庭に相応しくない異物であったはずなのに。
私は庭に出た。
夜気が肌を撫でる。結界の内側であるはずなのに、ひどく空気が薄く感じられた。
枯れた花の前に立つ。ただ時間に置き去りにされたそれは、唯一の取り柄すらも失ってしまっていた。
手を伸ばしかけて、止める。指先ではなく、魔力を意識する。
ほんの一瞬でいい。流れを整え、生命を呼び戻すことなど、私には造作もない。
……出来る。出来てしまう。
だが、その考えに――鼻で笑いそうになる自分がいた。
何をしている。こんなものを「直す」?
役にも立たず、実りもなく、ただ見た目が美しいだけの存在を?
魔女としてあまりに下らない。こんなことに魔力を使うなど、以前の私なら一顧だにしなかっただろう。
それは情ではない。合理でもない。
こんなものに心を動かすなんて――ただの弱さだ。
私は伸ばしかけた手を無理矢理握りしめて下ろした。
花には触れない。枯れたものは枯れたまま、朽ちればいい。
強かった頃の私を知っている。感情に足を取られず、必要なものだけを選び取っていた頃の私を。
……ならば、取り戻すべきはそれだ。
役に立たないものを惜しむ自分ではない。意味の無いものに心を揺らす自分でもない。
魔女としての、ゾラを。




