傍に居たい
陽が落ちて久しい。
窓の外はすでに漆黒に染まっている。つまり、今のこの家は“彼の時間”だということだ。
私は人間と同じリズムで生きている。彼は闇に生きる吸血鬼だ。
本来なら、私が眠る頃に彼が起き出し、私が起きる頃に彼は眠る。
顔を合わせることなく、同じ屋根の下で、別の時間を生きる――それが、今の私たちが保てる唯一の平穏だったはずだ。
けれど、生理的な欲求ばかりはどうにもならない。
喉が渇いた。
水差しは空だ。台所へ行かなければならない。
(……起きているわよね、間違いなく)
私は扉の前で息を整える。
部屋を出れば、そこは夜の住人の領域だ。
鉢合わせる可能性は高い。
だが、無視すればいい。
私は覚悟を決めて、ドアノブを回した。
冷たい廊下へ足を踏み出す。
この家は大きくない。数歩も歩けば、すぐに家の心臓部である台所に行き着く。
そこさえ手早く通過すれば、水を得て、すぐに安全な自室へ戻れるはずだ。
そう、思っていたのに。
……光が漏れている。
やはり起きているのか。
私は舌打ちしたい気分を飲み込み、台所のドアを少しだけ開けた。
水を一杯飲むだけだ。彼がそこにいたとしても、幽霊か家具だと思って無視すればいい。
そう決めて、足を踏み入れた瞬間だった。
濃厚な湿気と熱気が、冷え切った頬を撫でた。
「――っ、あ!」
部屋の奥で、小さな悲鳴のような声が上がった。
暖炉の前、鍋をかき混ぜていたミハイルが、バッとこちらを振り返る。
その顔は、私を待ち受けていた捕食者のものではなかった。
むしろ、勝手に台所を使っているところを見咎められた子供のように、目を白黒させて狼狽えている。
「ご、ごめん。勝手に火を使って……」
彼は鍋と私を交互に見て、あわあわと手を拭った。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる。
鍋からは、野菜の煮込まれた甘い匂いが立ち上っている。
煮え立ったばかりの、湯気の音。
タイミングが悪すぎる。
彼が「何か」を完成させた瞬間に、私は踏み込んでしまったのだ。
「……あの、寒くはない? 今夜は特に冷えるから」
それは気遣うようでありながら、言葉を交わす機会を逃すまいとする意思の表れにも捉えられる。
彼は縋るような目で鍋を指差す。
「ちょうど今スープが出来たところで、その。僕では味が分からないから、味見して欲しいな……って」
計算ではない。
その瞳にあるのは、純粋な怯えと、捨てられたくない一心からくる必死な懇願だ。
断ればいい。
いらないと言って、水だけ飲んで部屋に戻ればいい。
けれど、部屋中に充満したこの「温かさ」と「匂い」が、私の身体を裏切らせる。
空腹を訴えるように、胃が小さく収縮した。
卑怯だ、と思った。
食べてください、ではない。確認してほしいという、実務的な依頼。
吸血鬼が人間の料理を作るという矛盾。その穴を埋められるのは、この家には私しかいない。
彼は手早く小皿にスープをよそい、テーブルに置いた。
スプーンが添えられる。椅子が引かれる。
断る隙すら与えない、弱者特有の強引さ。
「……冷めないうちに。どうぞ」
その言葉は、呪いのように優しかった。
私は半ば強制的に席に“座らされた”。座ってしまった。
その瞬間、背後の暖炉の熱が、逃げ場のない壁のように感じられた。
ミハイルは安堵したように息を吐き、再び台所へ戻って作業を続けた。
カチャ、カチャ。
食器が触れ合う音。
ジュウ、と何かを炒める音。
パチパチと爆ぜる薪の音。
――うるさい。
なんて、うるさいのだろう。
記憶の中の食卓は、いつだって氷のように静かだった。
グラムは食べない。私も音を立てることを許されない。
そこには生の気配などなく、ただ美しい絵画のような静寂だけがあった。
けれど今はどうだ。
男が動き回るたびに、生活の音が鼓膜を叩く。
匂いが鼻腔を埋め尽くす。
そのすべてが、ここは人間の住処だと、私の輪郭を強引に書き換えていくようだ。
目の前のスープを見る。
湯気が、顔にかかる。
震える手でスプーンを取り、口に運ぶ。
……あ。
熱い液体が喉を通り、胃袋へと落ちる。その熱は、瞬く間に指先まで伝播した。
美味しい、と感じてしまった。
強張っていた身体が、泥のように溶けていく。この温かさに包まれて眠りたいと、細胞が悲鳴を上げた。
(だめ……)
スプーンを持つ手が震える。
これは毒だ。こんな温かさに慣れてしまったら、二度とあの冷たい孤独には戻れない。
グラムに支配された時と同じだ。与えられ、満たされ、牙を抜かれる。
怖い。
この男が、怖い。
カチャン、と。
私はスプーンを乱暴に皿に置いた。
その音に、ミハイルがびくりと肩を揺らして振り返る。
「っ、口に合わなかった……?」
心配そうな顔。
傷つくことを恐れる、犬のような目。その目が、かつての私自身と重なって、視界が真っ赤に染まる。
「……何が目的なの」
低い声が漏れた。
自分でも止められなかった。
「何が欲しいの? 言えばいいじゃない」
私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
ミハイルが目を見開く。
「血? それとも――私?」
ミハイルは答えなかった。
その沈黙が、肯定のように聞こえる。
「こんな回りくどい餌付けをして、私をどうしたいの」
「ぼ、僕はただ……」
「なら何! 契約も切れたのに、どうして出て行かない! そうやって恩を売って、私を支配するつもりなの!?」
叫び声が、狭い食堂に反響する。
支離滅裂な言いがかりだ。分かっている。
けれど、言葉のナイフを投げつけなければ、私が私でいられなくなる。
ミハイルは、殴られたような顔をした。
だが、彼は逃げなかった。
おどおどしていた瞳から怯えが消え、代わりに痛ましいほどの誠実さが宿る。
「違う」
彼は静かに、けれどはっきりと否定した。
「対価が欲しいから、傍に居るわけじゃない」
「なら……ッ」
彼は口を開きかけて、閉じた。
何かを飲み込むように喉が動く。そして――
「傍に居たいから、ここに居るんだ」
時が止まったようだった。
言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。
傍に、居たい?
……ただそれだけ。理由も、損得も、契約すらない。
純粋で、無意味で、だからこそ防ぎようのない“暴力”。
グラムの支配のほうがマシだった。あれには所有という理屈があった。
けれど、この男の感情には理屈がない。まるで底なしの沼だ。
胸の奥で何かが鳴っている。
不快とも、懐かしいともつかない音。
――心臓だ。
息が出来ない。
喉の奥に、熱と痛みがこびりついている。
ただの言葉だったはずなのに……どうして心臓が、こんなに暴れているの。
私は後退った。
これ以上、あの目を見てはいけない。あの温かい場所に居てはいけない。
「……勝手にして!」
それは拒絶ではなく、逃避だった。
彼を見ないようにしながら、ゆっくりとテーブルを離れる。
逃げろ。
ここには居られない。
もっと冷たい場所へ。心のない場所へ。
この熱が、私の芯まで腐らせてしまう前に。




