償いという名の罰
それはまるで、出来の悪い童話の中に迷い込んだようだった。
朝、目覚めて階下へ降りると、世界が変わっているのだ。
廊下の隅に溜まっていた埃が消え去り、窓硝子は曇りなく磨き上げられ、冷たいフローリングは鏡のように光を反射している。
誰の姿もない。
物音ひとつしない。
けれど、確かに“誰か”がここを歩き回り、私の生活に触れた痕跡だけが色濃く残っている。
靴屋の小人、或いは家に憑く精霊。
人間達はそんな可愛い呼び名で、この「見えない奉仕者」を愛でるのかも知れない。
だが私にとっては心霊現象と変わらなかった。
台所へ入る。
そこにもまた、小人の仕事の成果があった。
焼きたてのパン。果実の水。
湯気の立つポットが、主のいないテーブルでポツンと私を待っている。
(……気持ち悪い)
私は腕を摩った。鳥肌が立っていた。
この屋敷全体が、ミハイルという内臓を持った生き物に変貌してしまったようだ。
――かつて、私を包み込んだあの優しさのように。
壁の染みひとつ、床の軋みひとつに至るまで、彼に見られているような錯覚。
彼は姿を見せないことで、却ってその存在感を家中に充満させている。
パンに手を伸ばす。
まだ仄かに温かい。
その温もりが、「僕はずっと見ていますよ」という無言のメッセージのように指先に絡みついた。
いっそ、目の前で恩着せがましく働いてくれた方がマシだった。
そうすれば罵倒することもできる。
けれど、この「透明な献身」には、怒りをぶつける先すらない。
私は無人の椅子に向かって、小さなため息をついた。
この沈黙の攻防戦は、私の精神を確実に削り取ろうとしている。
これは償いであり、見返りなど求めない一方的な献身のはずだった。
そう思い込んでいた。
思い込むことでしか、あの夜の罪を受け止められなかった。
けれど深夜に。空の鍋を見た時――胸の奥で、何かが静かに波立った。
彼女が、僕の作ったものを体に入れた。
その事実は渇いた心にゆっくりと染み込み、甘い錯覚をもたらす。
拒絶されなかった。許されたのだ、と。
もし本当に僕が目障りなら、鍋ごと庭に捨てればよかった。僕の善意を汚物のように拒絶することだって、彼女なら出来たはずだ。
だが、彼女はそうしなかった。
その“しなかった”を、僕は都合よく肯定と解釈した。
契約を破棄された以上、本来なら出ていくべきだったのに。
それでも居座り続けるという自由を自分に許し、なお彼女の近くにいたいと願った。
愚かしい。
身勝手だ。
彼女を傷つけた自覚すらあるのに、“まだここに居ていい”と思い込もうとする自分がいる。
それでも――一人にはさせたくなかった。
もう二度と口を利いてくれなくてもいい。
怯える理由を教えてくれなくてもいい。
ただ影のように寄り添い、快適な空間と簡素な食事を置くことで、彼女の孤独が少しでも和らぐなら……それだけでいい。
そういう形しか選べないのなら、せめてその形を貫きたい。
彼女の古傷を暴いてしまった僕に出来る唯一の償いとして。
……そう、償いだ。
だから、もっと良いものを作らなければならない。
冷たいパンとスープでさえ受け取ってくれたのだ。次は、もっと温かいものを。
あの凍えた部屋を、せめて今夜だけでも心地よい場所に変えるために。
薪を抱え、台所へ向かう。
そこに在るのが感謝ではなく、彼女を追い詰める“恐怖”だとは露知らず。
僕は愚かにも、暖炉に火を灯した。




