優しい毒の味
※本話には、小動物の狩猟・解体に関する描写が含まれます。
あれから丁度一週間が過ぎようとしていた。
同じ家で過ごしているはずなのに、彼女の顔を見る機会がうんと減った。
避けられている。……それは明白だった。
契約という縛りは消え、僕はただの落ちこぼれの吸血鬼に戻った。もう誰のものでもない。ゾラの使い魔としても存在出来ない。
なんの意味も持たない、ただの……出来損ない。
だから、彼女からの施しは受けない。契約がなければ彼女が代償を支払う必要もない。
僕は庭へ出た。夜気の中に、白い影が跳ねるのが見えたからだ。
野兎だった。
かつて、この庭に同じような兎が迷い込んだことがある。
それを見つめるゾラの横顔が、どうしようもなく優しく、脆く見えたのを今でも覚えている。
その光景は僕にとっての救いでもあった。
――けれど今は、その“救い”こそが僕の糧だ。
ミハイルの腕が音もなく伸びる。
逃げようとした温かい毛玉を、その細い指が容赦なく鷲掴みにした。
首根を掴まれ、宙に浮いた兎が身を捩る。逃れようと必死に繰り出される後脚は、ただ虚しく夜の空気を蹴るばかりだった。
暴れれば暴れるほど、指に伝わる鼓動は鮮明になる。
恐怖に駆られたその小さな臓器は、限界を超えた速度で血を巡らせ、生きようと足掻いている。
その熱さが、ひどく手のひらを焼いた。
「……ごめんね」
謝罪は、誰に向けたものだったか。
ゾラが愛でたかも知れない命を奪うことへの罪悪感か。それとも、生きる為になりふり構えない自分への憐憫か。
躊躇いは一瞬だった。空腹という獣が、感傷を塗り潰す。
骨が砕ける乾いた音が響き、白い毛皮が赤く染まる。
温かい鉄の味が喉を潤していく。それはあまりにも粗末で、野性味に溢れ、そして――ゾラの血とは比べ物にならないほど、虚しい味がした。
これでいい。
彼女の大切な庭を守る「駆除」だと、自分に言い聞かせる。
こうして飢えを凌ぐ行為は、自分にとっては苦でもなく、今何が一番辛いかと言えば――
彼女が何も語ってはくれないこと。自分の名前を呼んでくれないことだ。
口許についた獣の血を、手の甲で乱雑に拭う。
飢餓感は薄れた。けれど、手の中にはまだ温かい肉が残っている。
白い毛皮に包まれた、小さな命の残骸。
それを土に埋めようとして、ミハイルの手がピタリと止まった。
――勿体ない。
これは新鮮な肉だ。
ゾラはいつも、パンと野菜のスープばかり口にしている。もっと精のつくものを食べなければ、あの小さく細い身体が参ってしまうかも知れない。
僕が頂いたのは血だけだ。残りの肉は、彼女の糧になる。
そうすればこの兎の死も無駄にはならない。そのまま埋めることの方が、兎にとっても失礼だと感じたのだ。
なんて合理的な考えだろうか。
ミハイルの瞳に、薄暗い使命感が宿る。
役に立てる。彼女の健康を支えられる。
彼は慣れない手つきで兎の皮を剥いだ。
内臓を取り出し、肉をぶつ切りにする。
赤い筋肉の繊維が露わになるたび、さっきまでの可愛い毛玉の面影は消え、単なる食材へと変わっていく。
台所に入り、棚の奥から古びた革表紙の束を取り出した。
ゾラが書き留めていた、調理のメモだ。
ミハイルには、人間の食事の「味」が分からない。彼にとってそれは、灰や泥を咀嚼するのと変わらない無味乾燥な行為だからだ。
だから、彼は文字に従う。
『肉の臭み消しにはローズマリーをひと枝』
『煮込み時間は野菜が崩れる直前まで』
『塩は指先でふたつまみ』
ミハイルは実験器具を扱うような慎重さで、指示通りにハーブを放り込み、砂時計で時間を計り、塩を正確に計量して投入した。
コトコトという穏やかな音が、冷え切った棲家に響く。
鍋の中では、彼が殺した兎と彼女が育てた野菜が混ざり合い、黄金色のスープへと変わっていく。
味見は出来ない。しても意味がない。
けれど、ゾラの残した記述通りに作ったのだ。ならば、これは「美味しい」という正解の形をしているはずだ。
そう信じて疑わなかった。
ミハイルは火を落とすと、鍋を竈の余熱が残る場所に移動させた。冷めないように、そして煮詰まりすぎないように。
分厚い鍋の蓋を閉じる。いつ彼女が来ても、蓋を開ければ温かい湯気が迎えてくれるはずだ。
綺麗に片付いた台所。その作業台の上に、彼は書き置きを残した。
『新鮮な肉が手に入りました。栄養があります。どうか召し上がってください』
彼は満足げに頷くと、足音を忍ばせてその場を去った。
自分が作ったその温かい料理が、彼女にとってどんな猛毒になるのか――微塵も疑うことなく。
何故去らないのか?
それを考えるたび、私は背筋に冷たいものが走るのを感じる。それは“恐怖”に近い。
感情を殺し、合理性のみを友として生きてきた。無駄な感傷は判断を鈍らせ、命取りになるからだ。
だからこそ理解が及ばない。
契約は終わった。彼を縛る鎖はもうない。なのに彼は、この死んだような棲家に寄生し続けている。
生活の端々に、彼の痕跡が残る。
掃除された部屋。夜の内に干された洗濯物。そして、台所の竈に残された重たい鍋と、小さな書き置き。
『新鮮な肉が手に入りました。栄養があります。どうか召し上がってください』
震えるような頼りない文字。
その卑屈さが、どうしようもなく神経を逆撫でする。
それに、新鮮な肉とは何だ。
彼に金銭は渡していないし、街へ買い物に出た形跡もない。貯蔵庫の干し肉はとうに尽きている。
ならば、この鍋の中身はどこから来た?
蓋を開けるとハーブの香りが立ち上った。
ローズマリーの香りが、肉の生臭さを完全に消し去っている。
不気味だ。出所不明の食材など、合理的に考えれば口にするべきではない。
けれど、立ち上る湯気が凍りついた私の胃袋を容赦なく刺激した。
私はお玉を沈め、中身を皿に移す。
とろりと煮込まれた肉片。それを口に運び、咀嚼する。
……味がしない。
肉は驚くほど柔らかく、完璧に煮込まれている。喉を通る熱が物理的に腹を満たしていくのは分かる。
けれど、舌の上には砂のような虚無だけが広がる。
それでいい。それが自分が今も、無感情で無感動な人間として存在出来ている証拠とも思える。
そう安堵する一方で、嚥下のたびに喉が引き攣るような抵抗感があった。
口の中でほろりと解ける肉の繊維。そのあまりの繊細さが、酷く生々しい。……まるで、知っている温もりを咀嚼しているような――正体不明の冒涜感。
出所などどうでもいい。ただの蛋白質だ。そう自分に言い聞かせて、無理やり胃の腑へ流し込んだ。
かつてグラムは言った。愛しているから世話をするのだ、と。
そしてその代償として、私の全てを奪った。
優しさはいつだって搾取の前触れだ。
このスープには、どんな意図が入っているというのか。
ミハイルの施しによって生かされているという事実だけが、吐き気がするほどに生々しく……私の内側に蓄積されていく。
カツ、と硬い音がして窓の外を見る。
庭の隅。枯れた景色の中で、銀色の髪が揺れていた。
しゃがみ込み、土を弄っている。
何かを植えているようだ……もう冬が近いというのに。
芽など出るはずがない。そんなことは、子供でも分かる理屈だ。けれど彼は、祈るように土を撫で、じっと何かを待っている。
それが滑稽で、そしてどうしようもなく気に障る。
――なのに、目が離せない。
私が無視出来ないという事実が、もう充分に異常だ。
彼を見つめているこの時間、私の中に「関心」という名の毒が回っていくのが分かる。
あれほど軽蔑してきた「感情」に、非合理な「執着」に、今の私は惹かれているのではないか。
あの正体不明のシチューを飲み干すように、彼の存在を飲み込もうとしているのではないか。
ゾラは自身の二の腕を強く抱いた。
もし、あの夜の過ちを覚えているのが彼ではなく私の方だったなら――
きっと私は、とうに壊れていただろう。
彼の狂気よりも、それに感応しつつある自分の変化のほうが、ずっと恐ろしかった。
深夜、ミハイルは音もなく台所へ戻った。
暗がりの中、竈の上を確認する。
――鍋が空になっている。
書き置きもなくなっていた。
その事実を確認した瞬間、ミハイルの胸に小さな灯火がともった。
食べてくれた。受け入れてくれた。
僕が殺した命が、僕が作った料理が、彼女の血肉になったのだ。
ミハイルは空の鍋を抱きしめ、頬を冷たい鉄に押し当てた。
嬉しい。
こんなにも胸が満たされるのは、いつぶりだろうか。
同時に、ずしりとした痛みが胸を刺す。あの夜の記憶だ。
怯える彼女の瞳。拒絶の悲鳴。
僕は彼女を傷つけた。彼女の奥底にある、触れてはいけない古傷――過去の支配の記憶まで、土足で踏み荒らそうとした。
その罪は消えない。
言葉で謝って済む話ではない。
だから、これは償いだ。
彼女の傷を暴くつもりはない。何があったのか問いただす資格も、僕にはない。
ただ、彼女が生きる為の礎になりたい。それが僕に出来る唯一の贖罪だ。
ふと、契約解除の瞬間の言葉が蘇る。
『あなたはもう、私に縛られる必要もない。自由の身よ』
あの時、ゾラは確かにそう言った。
自由。
それは、誰の命令も聞かなくていいということ。自分の意志で、自分の行動を決めていいということだ。
ならば――ここを去らないこともまた、僕の自由だ。
そうだろう?
行き場がないから居るのではない。僕が僕の意志で、彼女の影として生きることを選んだのだ。
見返りは求めない。愛されたいなどと願えば、それは搾取になる。
ただ与え、尽くし、報われないこと。その虚無こそが、罪人である僕に課せられた“罰”であり、同時に彼女の傍に居る為の唯一の許しなのだ。
――なんて、都合の良い屁理屈だろう。
分かっている。これはただの執着だ。
けれど、そう定義でもしなければ、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
彼女が与えた「自由」という言葉を鎖に変えて、僕は自分自身をこの冷たい床に縛り付ける。
「……よかった」
闇の中で、ミハイルはふにゃりと笑った。
空っぽの鍋を恋人のように抱くその姿に、高貴な血統の面影など欠片もない。
あるのはただ、冷たい鉄に残る温もりの残滓に縋る、凍えきった迷子の姿だった。




