自由を得ても
朝の光が差し込んでいるはずなのに、家の中は墓所のように冷え切っていた。
ゾラは椅子に深く腰掛け、目の前に立つ男を見上げる。
ミハイルは視線を床に落としたまま微動だにしない。その姿は、叱責を待つ老犬のように痛々しくそして卑屈だった。
それが余計にゾラの神経を逆撫でする。
――私を、あの男と同じにするな。
支配者。加虐者。所有者。
ミハイルが怯えれば怯えるほど、ゾラの中でグラムの影が濃くなる。自分がそちら側の椅子に座っているという事実が、吐き気がするほど耐え難い。
だから、断ち切らなければならない。この歪な糸を。
「……ミハイル」
名を呼ぶと、銀色の睫毛がびくりと震えた。
「契約を解除するわ」
淡々と事実だけを告げる。
ミハイルは顔を上げない。驚きもしない。ただ、そうなることを最初から知っていたかのように静かに頷いた。
「……はい」
掠れた声。抵抗も、弁明もない。
その従順さが今は酷く空虚だ。
「あなたはもう、私に縛られる必要もない。自由の身よ」
そう言い、ゾラは立ち上がった。用は済んだとばかりにそのまま部屋に戻っていく。
ドアを閉める音だけが、やけに大きく響いた。
残されたミハイルはじっと動かなかった。ただ床の一点を見つめたまま、俯いて。
自由を与えられた。だが、その自由は彼にとってはなんの感情も抱かせないものだった。
何をして良いのか分からない。
家に帰りたくもない。
かといって、行くべき場所もない。
何もなかった。ゾラとの契約を失ってしまえば、彼には何も残されてはいなかった。
ただ、罰されないこと。これが辛かった。
あの夜彼が求めたのは、ゾラによる罰だった。彼女に危害を加えた。殺されても当然だと感じていた。
だが実際にそうはならなかった。
けれど、もし罰が与えられたというのなら――この、契約を無かったことにされたという一点だろうか。
当然の報いであり、彼女がミハイルの顔を見たくないというのも、また当然のことだろう。
ふと視界の端に何かが映った。
暖炉の前に落ちている、燃え残りの薪の欠片。
床に散らばったままの灰。
――汚れている。
その認識だけが、麻痺した思考をすり抜けて身体に伝わった。
拾わなければ。綺麗にしなければ。
そうすれば怒られない。そうすれば、ここに居てもいいと言われるかも知れない。
いや、誰に?
契約はもうないのに。
けれど、ミハイルの手は勝手に動いていた。
冷え切った指先が灰を拾い集める。無意識の習性が、空っぽの彼を突き動かす。
何も考えずに済む作業――それだけが、彼を救った。
暖炉の前。かつてはここが彼の居場所だった。
ゾラと契約したすぐあとのことだった。彼女に連れられ、この棲家に来た。
石床の上、粗末な毛布。
ただそれだけのものを与えられ、けれどそれが嬉しかった。
寝心地は最悪のものだったが――それでもあの瞬間には、心は満たされていた。
そんなことを思い出しながら床を拭う。
ふと、拭ったはずの床にポツリと染みが落ちた。
まだ汚れている。
ミハイルは無表情に雑巾でそれを拭う。
だが、染みは消えるどころか、ポツリ、ポツリと増えていく。
雨漏りだろうか。
ふと天井を見上げるが、その視界が歪んでいることに気付いた。
雫が頬を伝い、顎から滴り落ちている。
「あ……」
あぁ、これは涙か。
ミハイルは他人事のように理解した。
悲しくなどない。悔しくもない。感情なんてとうに磨り減って、空っぽのはずだ。
なのに、身体だけが勝手に悲鳴を上げている。
拒絶されたことが。
切り捨てられたことが。
主を失った犬のように、本能的な恐怖となって涙腺を壊しているのだ。
「……っ、う、ぅ……」
嗚咽が漏れた。
止めようとしても喉が引き攣り、呼吸が震える。
――情けない。
大人の男が、高貴なはずの吸血鬼が、魔女に捨てられたというだけで泣いて。
どうかしてる。
あの夜は吐瀉物に塗れ、今度は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。
手にした布で乱暴に顔を拭う。煤と灰で汚れたその布が、白い肌に黒い筋を残していくことにも、気づかないでいた。
ニカエラが、レオナールが、エヴァンジェリンが……こんな姿を見たなら、何を思うだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
誰もいない空間に向かって、ミハイルは謝罪を繰り返した。
涙で濡れた床を必死に擦る。
拭えば拭うほど汚れは広がり、自身の惨めさを際立たせていく。
それでも彼は、手を止めることが出来なかった。




