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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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38/56

自由を得ても

 朝の光が差し込んでいるはずなのに、家の中は墓所のように冷え切っていた。

 ゾラは椅子に深く腰掛け、目の前に立つ男を見上げる。

 ミハイルは視線を床に落としたまま微動だにしない。その姿は、叱責を待つ老犬のように痛々しくそして卑屈だった。

 それが余計にゾラの神経を逆撫でする。

 ――私を、あの男と同じにするな。

 支配者。加虐者。所有者。

 ミハイルが怯えれば怯えるほど、ゾラの中でグラムの影が濃くなる。自分が()()()()の椅子に座っているという事実が、吐き気がするほど耐え難い。

 だから、断ち切らなければならない。この歪な糸を。


「……ミハイル」

 名を呼ぶと、銀色の睫毛がびくりと震えた。

「契約を解除するわ」

 淡々と事実だけを告げる。

 ミハイルは顔を上げない。驚きもしない。ただ、そうなることを最初から知っていたかのように静かに頷いた。

「……はい」

 掠れた声。抵抗も、弁明もない。

 その従順さが今は酷く空虚だ。

「あなたはもう、私に縛られる必要もない。自由の身よ」

 そう言い、ゾラは立ち上がった。用は済んだとばかりにそのまま部屋に戻っていく。

 ドアを閉める音だけが、やけに大きく響いた。

 残されたミハイルはじっと動かなかった。ただ床の一点を見つめたまま、俯いて。

 自由を与えられた。だが、その自由は彼にとってはなんの感情も抱かせないものだった。


 何をして良いのか分からない。

 家に帰りたくもない。

 かといって、行くべき場所もない。


 何もなかった。ゾラとの契約を失ってしまえば、彼には何も残されてはいなかった。

 ただ、罰されないこと。これが辛かった。

 あの夜彼が求めたのは、ゾラによる罰だった。彼女に危害を加えた。殺されても当然だと感じていた。

 だが実際にそうはならなかった。

 けれど、もし罰が与えられたというのなら――この、契約を無かったことにされたという一点だろうか。

 当然の報いであり、彼女がミハイルの顔を見たくないというのも、また当然のことだろう。


 ふと視界の端に何かが映った。

 暖炉の前に落ちている、燃え残りの薪の欠片。

 床に散らばったままの灰。

 ――汚れている。

 その認識だけが、麻痺した思考をすり抜けて身体に伝わった。

 拾わなければ。綺麗にしなければ。

 そうすれば怒られない。そうすれば、ここに居てもいいと言われるかも知れない。

 いや、誰に?

 契約はもうないのに。

 けれど、ミハイルの手は勝手に動いていた。

 冷え切った指先が灰を拾い集める。無意識の習性が、空っぽの彼を突き動かす。

 何も考えずに済む作業――それだけが、彼を救った。


 暖炉の前。かつてはここが彼の居場所だった。

 ゾラと契約したすぐあとのことだった。彼女に連れられ、この棲家に来た。

 石床の上、粗末な毛布。

 ただそれだけのものを与えられ、けれどそれが嬉しかった。

 寝心地は最悪のものだったが――それでもあの瞬間には、心は満たされていた。

 そんなことを思い出しながら床を拭う。

 ふと、拭ったはずの床にポツリと染みが落ちた。

 まだ汚れている。

 ミハイルは無表情に雑巾でそれを拭う。

 だが、染みは消えるどころか、ポツリ、ポツリと増えていく。

 雨漏りだろうか。

 ふと天井を見上げるが、その視界が歪んでいることに気付いた。

 雫が頬を伝い、顎から滴り落ちている。

「あ……」

 あぁ、これは涙か。

 ミハイルは他人事のように理解した。

 悲しくなどない。悔しくもない。感情なんてとうに磨り減って、空っぽのはずだ。

 なのに、身体だけが勝手に悲鳴を上げている。

 拒絶されたことが。

 切り捨てられたことが。

 主を失った犬のように、本能的な恐怖となって涙腺を壊しているのだ。

「……っ、う、ぅ……」

 嗚咽が漏れた。

 止めようとしても喉が引き攣り、呼吸が震える。

 ――情けない。

 大人の男が、高貴なはずの吸血鬼が、魔女(かのじょ)に捨てられたというだけで泣いて。

 どうかしてる。

 あの夜は吐瀉物に塗れ、今度は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。

 手にした布で乱暴に顔を拭う。煤と灰で汚れたその布が、白い肌に黒い筋を残していくことにも、気づかないでいた。

 ニカエラが、レオナールが、エヴァンジェリンが……こんな姿を見たなら、何を思うだろう。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 誰もいない空間に向かって、ミハイルは謝罪を繰り返した。

 涙で濡れた床を必死に擦る。

 拭えば拭うほど汚れは広がり、自身の惨めさを際立たせていく。

 それでも彼は、手を止めることが出来なかった。

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