最初の友達
グラムの死からさほど経たないうちに、彼の館は崩壊した。
まるでそこには、最初から何も無かったかのように……跡形もなく消え失せた。
彼の魔力がそれを維持していたのか、ある種の結界のようなものだったのか――今となっては分からない。
どっちにしろ、その魔力は今は私へと受け継がれた。
「ゾラ」
背後から声が聞こえた。もうそこに誰も居ないはず……それなのに。
「クラリカ」
そう――鏡の中の。
あの部屋で言葉を交わした、最初のクラリカを名乗った少女の声だった。
振り返った私を、彼女は静かに見つめていた。
その眼差しが一瞬だけ揺れた。
「……なんだか、雰囲気変わったね」
彼女の瞳に去来した感情は、懐かしさとも痛みともつかないものだった。
言わんとすることは分かる。あの時の自分は、ただ怯えるばかりの子どもだったのだから。
だが彼女の言葉に縋るようにして今日まで生き延びた。
そして私は、ようやくあの支配を自分の手で終わらせた。
「あなた……出られたの?」
問いかけると、彼女は小さく笑うように言った。
「別にあの中に居る必要も無かったから」
不可解だった。
彼女はあの鏡に縛られた存在だとばかり思っていた。
なのに、この話しぶりだとまるで自らあの部屋に留まっていたとも聞こえる。
「じゃあどうしてあの部屋に」
それは純粋な疑問だった。
「……どうしてかな。なんだか、可哀想で」
憐れまれていたのか、私は。
それとも彼を……だろうか? しかし、それは今となってはどうでもいいことだった。
「これからどうするの?」
不意に投げかけられた問いだった。
私は自由だった。もうグラムの支配もなく、どこへ行くにも何をするにも、自由だったのだ。
「さあ」
本当に考えたことがなかった。
彼の愛玩物のように生かされてきた私は、自由という概念すら扱いきれない。
そんな私に残されたものといえば、彼の教えた魔法の知識と、この身に宿る忌々しい魔力だけ。
今更、人間社会に紛れ込んで生きられるとは思えない。
魔力を持つ者がどう扱われるかなど、嫌というほど知っている。結局は繰り返すだけで、また排斥されるのだと分かっていた。
「……魔女として生きるしかないんじゃない」
投げやりだっただろうか。
だが、それ以外の生き方があるとは到底考え難かった。
「なら、お友達が要るわね」
「友達?」
「魔女の力は一人で抱えるには重すぎるもの。誰かと手を繋いでいないと、心が凍えてしまう」
彼女の声は、古い約束事をそっと思い出すように響く。まるで大昔から、そう決まっていたかのように。
「詳しいのね」
短く返せば、クラリカはどこか困ったような顔で微笑むのだった。
「私も魔女、だったから」
「けど、友達って……」
クラリカを見つめる私の視線の意味に、彼女は気付いたようだった。
「私では駄目。貴女とは一緒に居られない」
クラリカは静かに首を振った。
「じゃあどうしたら。私にはもう誰も……」
「今はいなくても、形を作ることは出来る。仮初めでも、貴女の魔力を受け止める“誰か”の形」
彼女の視線が私の左手へ落ちる。
「……ちょうどいい、忘れ物があるじゃない」
そこにあったのは、グラムが私を縛るために嵌めた金属の輪。吐き気すらする忌まわしい装置。彼の血を吸い、鈍く光っていた。
思わず、その血を拭うように左手をドレスに擦り付けた。
けれど、悍ましいそれすらも、彼女に見つめられているとただの材料に見えてくる。
私はそれを引き抜き、手のひらに乗せた。
……独りは、怖い。
両親に捨てられたあの夜をどうしてだか、思い出していた。
燃えろ――そう念じた瞬間、指輪が熱を帯び始めた。銀色の金属が、飴細工のようにドロリと溶け落ちる。
手のひらに広がる熱は痛みではなかった。まるで何かが生まれようとしているような熱さ。
空気が密やかに揺れ、肌を撫でる温度が僅かに変わった。
溶けた銀は蒼い光を放ち、やがて炎の形を成した。揺らめくそれは、ふわふわと私の周りを周遊し、“言葉”を投げかけてきた。
「また会えたね」
心臓が跳ねる。
背骨を氷の指で撫でられたような悪寒。
この声は。この甘く粘つく響きは。
「……なん、で……」
後退る私に、その蒼は嬉しそうに揺れる。
「死んでないの? グラム……」
震える声に、クラリカは悲しげに眉を寄せた。
「そう見えちゃうんだ」
「え……」
「本当はただの魔力なのに。貴女の心がまだあの部屋に囚われているから……彼の姿でしか形を成せない」
優しい声だった。悪夢に泣く子供の背を撫でるような。
彼女の言う意味がすぐには理解出来なかった。否定したかった。
だが、これの告げる「愛しているよ」という言葉が、記憶の中の彼と寸分違わない。その事実に膝が折れそうになる。
これは亡霊ではない。呪いでもない。
私の寂しさが作り出した、最初の友達。
彼を殺して自由になったつもりだった。けれど魂の形そのものが、彼という鋳型で固まっている。
……皮肉なものだ。
魔女であることをやめられず、システムの為に生み出した存在に、あろうことか彼を投影してしまうなんて。
「辛いだろうけど……使い魔を得るまでの我慢よ」
「……早いうちにどうにかするわ」
そう言って背を向ける私に、クラリカは問いかけた。
「どこに?」
「さあ……どこだって」
分からなかった。何処に行こうとしてるのか。
一つだけ確かなのは、この森にはもう何一つ留まる理由がない。
「さようなら」
クラリカの声が背後で小さくなった。
振り返れば、もうそこに彼女の姿はなかった。
――消えてしまった。
自ら留まる場所を選んだ鏡像は、遂に私から離れることが出来たのかも知れない。
私はこの屋敷から外に出た。だからもう哀れむ必要も、付き添う意味もなくなったのだろう。
ただ一言ありがとう、と言いたかった。けれど、もう遅かった。
黒い森の中。
蒼い灯火を頼りに私は歩を進める。
この森から抜け出したい。ただ、それだけだった。
「それにしても。こうしてまたすぐ会えるとはね」
隣から聞こえる声は不愉快なほど、グラムの声そのままだった。
まるで彼の魂がそこにあるように錯覚する。……あの瞬間に、殺し損ねたのかとすら思うほど。
「黙りなさい」
「いいや、黙らない。寂しいだろう? こんな暗い森の中では」
それは言葉と共に明滅するように、冷えた空気の中で蒼く燃えていた。
「それに……私は君を愛しているからね、ゾラ」
一番聞きたくない言葉を囁かれ、思わずため息が出る。
憎たらしくすらあった。今すぐにでも無に帰してやりたくなるほどに。
ああ――まだこの先も、彼の残滓に煩わされ続けるのか。
結局私は、あの支配の檻から逃げ切れていないのだ。




