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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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黒の結婚式

※本話には、倫理的忌避感を伴う描写が含まれます。直接的な描写はありませんが、状況的にそれを強く示唆・連想させる展開となります。苦手な方はご注意ください。

 黒い布が静かに床を滑っていた。

 夜明けの前。

 屋敷の奥の礼拝堂に灯るのは、ただ一つの燭火。

 クラリカ――いや、ゾラ(わたし)は、その前に立っていた。顔を覆うのは漆黒のレースのベール。

 視界が黒い網目で遮られ、世界が遠くに感じられた。

「美しいよ」

 グラムの声がして、彼の指がベールの裾に掛かる。

 ゆっくりと布が持ち上げられる。網目の向こうから彼の金色の瞳が私の視界を塗り潰すように現れた。

「ありがとう、グラム」

 声は柔らかく、どこか遠かった。

 彼は聖句を唱え、二人の名を重ねた。

 “グラムとクラリカ”。何度も繰り返された名前。

 彼は上着の内ポケットから、一つの銀の指輪を取り出した。

「君のものだよ、クラリカ」

 グラムは私の左手を取り、薬指に指輪を嵌めた。装飾のない、冷たい光沢を放つ輪がゆっくりと肌に食い込むよう滑っていく。

「これで君は……永遠に私のものだ」

 彼は私の手を握り柔らかく微笑むと、ひとつ頷き唇を寄せた。

 長い、静かな口づけだった。


 そして――彼は私を、そのまま祭壇の前で押し倒した。


 背中に触れる石床の冷たさと、服の上から私を押し潰す彼の熱。

 ドレスを脱がそうともしない。重たい黒の布地ごと、私は自由を奪われる。

 その粗雑な扱いが、今の私の立場――着飾っただけの人形であることを残酷に突きつけてくる。

「……っ、ん……」

 私は声を漏らす。

 計算された吐息。彼が好む震え方。黒の花嫁衣装を着たまま、儀式の続きのように行われる。

 心の奥で、小さな私(クラリカ)が泣いている。

 けれど(ゾラ)は、彼が望む言葉を紡ぎ続ける。

 彼は私の顔を覗き込み、満足げに目を細めた。清廉な誓いの言葉と獣のような熱が混ざり合う背徳感に、彼自身が酔い痴れているのが分かった。

「クラリカ、愛しているよ……私の、可愛い娘。私の妻」

 彼の呼吸が荒くなる。

 衣装の擦れる音が礼拝堂に重く響く。

 ――ここだ。

 彼が私という存在に没頭し、世界で最も無防備になる瞬間。

 私は彼の背中に腕を回し、しがみつくふりをした。

 幾重にも重なるスカートのドレープの中、太腿に隠していた冷たい金属の柄を指先が捉える。

「……ねえ、グラム」

 私は、感情の高まりを迎える彼の耳元で甘く囁いた。

「私も()()()()

 彼は歓喜に喉を鳴らし、さらに強く私を抱きしめる。

 その瞬間、私は握りしめた刃を彼の無防備な背中――心臓の真裏へと、迷いなく突き立てた。

 ドス、という湿った音。刃が深くまで沈む感触。

「――っ!?」

 彼の身体が大きく跳ねた。

 けれど、彼は私から離れようとはしなかった。その身体の重みを全て私に預けるように。

「あ、ぁ……っ、ごふっ……!」

 口から血を溢れさせながら、彼は恍惚とした表情で笑っていた。

 金色の瞳が異様な輝きを放つ。

 自分の手で作り上げた花嫁に殺される――その破滅的な結末さえも、彼にとっては最高のシナリオであるかのように。

「私を殺すのか……あぁ、なんて愛おしい……!」

ゾラ(わたし)を先に殺したのは……あなたの方っ……!」

 一度口にしてしまえば、もう止まらなかった。黒い泥のような感情が堰を切って溢れ出す。

「返して……私の、人生っ……! 死んで……死んでよぉ……ッ!」

 その言葉に彼の目は、驚きに見開かれる。

 だがすぐに蕩け切ったような微笑みを浮かべて言う。

「いいや、死なない。……混ざるんだ」

 彼は血に濡れた唇を私の口に押し付けた。強引な、死の接吻。

 逃げようとする私の後頭部を押さえつけ、彼は最期の命を注ぎ込むように舌を絡める。

「んぐっ、ぁ……!?」

 喉に流れ込んでくるのは、鉄の味のする血と――それ以上に濃密な、熱い奔流。

 注がれる血と魔力。身体の奥底で脈打つ彼の熱。

 全身から彼という存在すべてが私の中へ雪崩れ込んでくるようだった。

 焼けるように熱い。

 血管が悲鳴を上げる。内側から塗り潰されていくような、私が私でいられなくなる恐怖。

 逃れようにも逃れられないほど、彼の腕は強く私を抱き竦める。


 終わらせて。

 はやく、終わらせて。

 この、悪い夢を。


 けれど――

 どうして。

 どうして涙が出るの。

 どうして胸が、こんなに痛いの。

 憎んでた。

 殺したかった。

 でも――


(愛してた、のかな……本当は)


 その想いが喉の奥で詰まる。

 それがクラリカのものなのか、ゾラのものであるかは分からない。

 どちらにしても、言えない。もう、遅いのだ。

 渾身の力で、というにはあまりにも非力だったかも知れない。

 祈るように、ただ――私は彼の背中のナイフを更に深く抉った。

「が、ァ……っ! 愛してる……愛しているよ、……ゾラ」

 死の間際に彼が呼んだのは、私が取り戻したかった本当の名前だった。

 私はなにも言わなかった――言えなかった。

 最期の瞬間、“クラリカ”と呼ばれなかったことの動揺の方が大きくて、言葉を失くしてしまっていた。

 ドクン、と私の心臓が大きく跳ねる。同時に、彼の身体からふっと力が抜けた。


 重い。

 彼の死体だけが、私の上にのしかかる。

 荒い息を吐きながら、重たい死体を押し退ける。

 ごろりと床に転がったそれは、最早人間の形をしていなかった。

 黒い体毛。捻れた角――そこに横たわっていたのは、巨大な黒山羊の骸。かつて私をその背に乗せ、森に連れ去ったあの獣だった。

 その顔は死してなお、満足げに嗤っているようだった。


 礼拝堂の窓から朝の光が射し込む。

 私は乱れたドレスを引きずり、血に塗れて立ち尽くす。

 けれど黒の布地の中では、その赤は判然としない。

 彼の一部だった熱が、身体の芯に居座っている。血管の一本一本にまで、彼がこびりついているようだった。

 それはきっと、これからも――決して逃れられはしない感覚として私の中に残り続ける。

 涙が一筋だけ頬を伝う。

 それが何の涙なのか、自分でも分からなかった。

「……さよなら、グラム」

 小さく呟いた、別れの言葉。

 

 その朝、“クラリカ”は死に、“ゾラ”が生まれた。

 悪魔を殺し、そのすべてを血肉として受け継いでしまった――哀れで、孤独な怪物の誕生だった。

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