お歌を歌って
※本話には、倫理的忌避感を伴う描写が含まれます。直接的な描写はありませんが、状況的にそれを強く示唆・連想させる展開となります。苦手な方はご注意ください。
今日のお人形さんは、機械仕掛け。
お歌を歌う、女の子のお人形さん。
その子は歌えなくなってしまっていた。だから、パパが直してくれるって。
……この子もちゃんと、直るのかな。
「悪い夢を見たようだね。迷子になる、怖い夢を」
パパが優しく囁く。
お人形さんは、コクリと小さく頷いた。
声を忘れてしまったようだけど、まだ心までは死んでいないようだった。
「歌を忘れたカナリアは可哀想だ」
彼の指先が頬をなぞる。
それは慈悲のように優しく、けれど氷のように冷たい温度。
ひやりとした。
(……あれ?)
おかしいな。
「直してあげよう。不要な記憶を落として、また綺麗に囀れるように」
パパはその表面に罅がないか確認するような、事務的な手つきで彼女の服を開く。
怖がってる。お人形さんは、身体を強張らせる。
逃げたがってる。私にはそう見えた。
(だいじょうぶ、怖くないよ……)
私はそう心の中で唱えて、彼女を励まそうとした。
でも――
(……うっ)
声が出なかった。
励まそうとした私の喉が、見えない手で締め上げられたように苦しい。
息が出来ない。
キリ、キリ……何かの音。
背中に何かが食い込むような、それを巻き上げられるような感覚。
糸が張り詰めるように、なにか引っ張られるような。
「まだ緩いね。これじゃあ、美しい愛を歌えない」
ギチ、ギチ、ギチ。
頭の奥が引っ張られる。
何かが軋むような音。
あぁ、だめだ。
戻ってきちゃった。
この痛くて、寒くて、恐ろしい私の中に。
「ごめんなさい。 ごめんなさい」
謝る。泣く。
そうすれば、少しは早く終わるから。
違う。
それじゃ駄目。
『ちゃんと演じるの』――それは鏡の中のクラリカの言葉。
そしてあの人形たちが、脳裏を過った。
生き残る為には、彼の正解をなぞらなければならない。
「もっときつく、して」
――違う。
そんなこと、言いたくないのに。
けれど、口が勝手に動く。恐怖に飼い慣らされた喉が、彼が最も悦ぶ音を震わせる。
ギチ、ギチ、ギチ。
ああ、ちぎれる。
背骨が、神経が、張り詰めたピアノ線のように悲鳴を上げる。
何かがぷつんと、切れそう。
「だめ。ゆるめないで」
また、私の口が裏切る。
心の中では、血を吐くほど叫んでいるのに。
――やめて。
痛い、痛い、もう、やめて!
けれど、唇から零れるのは、甘く濡れた懇願だけ。
「切れそうなくらいが、いちばんいい音」
「そうだね。君はよく分かっているよ、クラリカ」
彼の声はどこまでも優しい。
そして、その優しさが――今は、ただ恐ろしかった。
ねえ、誰か止めて。私の口を塞いで。
このままだと私は、本当に壊れてしまう。
「パパ、きいて。わたしのひめい」
また、口が勝手に言う。
「きれいな音楽に、きこえる?」
グラムは微笑んだ。満足げに目を細め、最後の一巻きを締め上げた。
「ああ、とても美しいよ」
朝の光がまた、あの部屋に満ちていた。
クラリカは窓辺に座り、ページを指でなぞる。
文字も呪文も、すらすらと読めるようになった。
隣で、グラムが静かに頷く。
「偉いね」
褒められた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
けれど笑った。
そうしなければ、空気が割れてしまいそうだった。
世界はいつも通りだった。
外では鳥が鳴き、レースのカーテンは穏やかな陽光を透かし、机の上のカップからは白い湯気が立ちのぼっている。
それなのに、そのすべてが――どこか遠い。
「ねえ、グラム」
「ん?」
「……きのう、変な夢を見たの」
彼は微笑んだ。
いつもの、完璧な微笑み。
「夢は夢さ。忘れていい」
その言葉がまるで呪文のように部屋に溶けた。
クラリカは頷き、頁を閉じる。
彼の指が髪を梳く。
その感触は確かに温かいのに、肌の下のどこかが冷えていく。
思い出してはいけない。
でも、忘れたらいけない。
胸の奥のどこかで、二つの自分が小さく囁き合っている。
一方は言う――愛されている。だから怖くなんてない。
もう一方は言う――怖い。けれど、愛している。
クラリカは笑った。
それが正しい笑顔かどうか、もう分からなかった。
「グラム」
「なんだい?」
「わたし……いい子?」
「もちろん」
その声は初めて聞いたときと同じ。
けれどもう、何も感じなかった。
胸の奥で何かが眠りについたように静かだった。
彼が立ち上がり、窓を開ける。
庭の草木の匂いを孕んだ風が、ふわりと二人を撫でた。
世界はまた正しく整えられた。




