Clarika No.XX
※本話には、倫理的忌避感を伴う描写が含まれます。直接的な描写はありませんが、状況的にそれを強く示唆・連想させる展開となります。苦手な方はご注意ください。
雨が降っていた。
長い間降り続いていた気がしたが、どれほど経ったのか分からない。
グラムは外に出た。何かの用事だと言って、夜明けまで戻らないらしい。
屋敷は静まり返っていた。
足音を立てるのが躊躇われるほどの沈黙。
廊下の奥。これまで一度も開いたことのない扉の前に、クラリカは立っていた。
何故ここに来たのか、自分でも分からない。
けれど、クラリカはずっと知っていた。この扉の存在を。
黒山羊に連れられこの館に来て、その次の日の朝。グラムを探し彷徨っていた時に見つけた部屋。
ここに何があるのか、見当もつかない。
けれど彼は言った。
『入ってはいけないよ』
――その禁忌の感覚が、何故か胸を擽った。
鍵は驚くほど呆気なく開いた。
クラリカはただ扉の模様に指を這わせ、開きたいと願っただけだ。それだけで複雑な魔法術式が解け、重厚な扉が音もなく内側へと退いた。
まるで彼女を招き入れるように。或いは、彼女がこうして入ってくることを“予定していた”かのように。
扉の向こうには、屋敷の構造を無視した異様な空間が広がっていた。
壁は脈打つように歪み、石造りの螺旋階段がどこまでも深く、暗い底へと続いている。
冷たく湿った風が吹き上げてくる。
それは古い書物の匂いと、甘く腐った果実のような防腐剤の匂いがした。
「……パパ?」
居るはずもないのに、どうしてかそう呼びかけていた。
引き返すべきだ、と本能が警鐘を鳴らす。
けれど、足は止まらなかった。
恐怖よりも強い引力がクラリカの背中を押していた。
既視感。この階段の冷たさを、このカビ臭さを、どうしてか知っている気がした。
長い螺旋を降りきった先は古びた部屋だった。
中は暗い。けれど完全な闇でもない。
目が慣れるにつれ、そこに並ぶものが見えた。
「っ……!」
クラリカは悲鳴を上げそうになった。
――人形、だろうか。
彼女と同じ髪色、同じように白い肌の少女達。
それは眠るように、或いは椅子に座るようにそこに在った。
恐る恐る近づけば、その奇妙なまでの精巧さに違和感すら覚えるほどだった。
そして気付く。
人形なんかじゃない。これは、紛れもなく――
「また来たのね」
声が、どこからともなく響いた。
クラリカは心臓が縮み上がる思いをした。
この“人形”の内のどれかが話しかけてきたのかと思うほど、今のクラリカの心は恐怖に支配されていた。
「こっちよ」
だがその声は、どこか懐かしい気さえした。
注意深く声のする方へ耳を傾け、辺りを見渡すが。
その“人形”が喋ったわけでなく……ある一点へと視線が向いた。
――鏡。
はじめそれは、自分の姿を映しているものだとばかり思っていた。
しかし、近づけばそれが自分の顔でないことが分かる。
「……あなた、は……」
また、既視感。
その顔は、自分でないのは明らかであるはずなのに、あまりにも“似ていた”。
けれど明確に別の誰かだった。
同じ髪色、同じ肌の色、同じ瞳の色――でも。彼女の方が少しだけ、自分よりも年上に見えた。
何より、クラリカは笑えていない。対して、鏡の中の少女は微笑んでいた。
「憶えていない? 私は最初のクラリカ」
「あ……」
その既視感の正体。単に自分に似ているだけではないということを、心のどこかでクラリカは感じ始めた。
だがその綻びを見て見ぬふりするように、鏡の誰かに問いかける。
「ここは……何?」
問えば、彼女は言った。
「ゾラがここに来るのはもう三回目なんだけどな」
その瞳はどこか寂しそうな色を映していた。
彼女の言葉の意味が理解出来ず、ゾラは瞬きをした。
「うそ、そんなことない」
扉の存在はうんと前から知っていた。けれど、こうして実際に足を踏み入れたのは、今日が初めてのことだった。
「じゃあどうして私が、ゾラって名前を知ってるんだと思う?」
鏡の少女の問いに、彼女は固まった。
最初のクラリカを名乗る少女は、そんなゾラを見て、同情とも憐れみともつかない微笑を浮かべ、続けた。
「貴女自身がそう名乗ったから、よ」
「……え?」
その瞬間、呼吸が詰まった。
ゾラという名前は、自分とグラムしか知らない。
そして既視感の本当の正体――自分自身、どこかこの部屋も、この“最初のクラリカ”についても……既に知っていたものであるからこそ、それを感じたんだということ。
そして人形のような少女たちはその全てが、これまでのクラリカ達……その成れの果てだということも。
「ぁ……」
ゾラは膝から崩れ落ちた。力が入らない。
それは恐怖? けど、その怖さはこの部屋に満ちる異質感に感じるものでなく……自分の記憶が欠落していたこと自体に対しての恐怖だった。
不意に、足元に転がる羊皮紙の束を見つけた。ゾラは震える手でそれを拾い上げる。
それは日記というより、冷徹な観察記録だった。
見覚えのある、幾何学的なほど整ったグラムの筆跡。
「八番目のクラリカ。彼女は言葉に訛りがある。矯正しようとも、直ることは……なかった……」
口に出していた。そしてその記述自体にも、覚えがあった。
「十一番目のクラリカ。年々、求める姿から……逸脱、していく。次の素体を早急に……」
思わず振り返る。
無造作に置かれたような“人形”たちに目を向けた。
「ねえ、クラリカ」
ゾラは鏡に向かって呼びかけていた。もうどちらがどちらで、その名が誰のものなのかすら――曖昧なまま。
「私は……何番目なの?」
その問いに、鏡の中のクラリカは悲しげに目を伏せた。
「思い出した? 貴女は十三番目」
十三番目――つまり、私の前に十二人の「クラリカ」がいたということ。
そのすべてが、愛され、壊れ、ここに廃棄されてきたのだ。
「もう諦めたほうがいいの? 私も、あの子たちみたいになるの?」
「……ううん」
鏡の少女が、硝子の向こうから身を乗り出すように近づいてくる。その瞳に強い光が宿った。
「聞いて、ゾラ。貴女はまだ、選び直せる」
その言葉は、予想外だった。
「選ぶ……? 何を?」
「どう壊れるか、をよ。彼の望むままに使い潰されるか、それとも――」
言いかけたその時だった。
遠く、遥か頭上で、空気が重く沈み込むような音が響いた。
屋敷の玄関扉が開いた音だ。
地下室の空気が一変する。
甘い腐臭が強まり、壁の染みがゾラを監視する無数の目のように感じられた。
「あ……」
「……彼が帰ってきた」
鏡の中のクラリカから、表情が消える。
先程までの人間味のある憐憫は霧散し、ただの冷たい「反射」に戻りかけていた。
「戻って、ゾラ。早く」
「で、でも……!」
「間に合わなくなる」
彼女はただ事実のみを、宣告のように告げた。
「早く行って。そして今だけは……ちゃんと演じるの」
水面が揺れるように、鏡像が掻き消える。
残されたのは青ざめた自分の顔だけ。
そして頭上からは、確実にこちらへ近づいてくる足音が響き始めていた。
(だめ……、終わっちゃう)
ゾラは弾かれたように駆け出した。
螺旋階段を駆け上がる。
心臓はずっと早鐘を打っていた。
しかしその途中で、立ち塞がる影があった。階段の上から見下ろすグラムの顔は逆光で暗く、ただ金色の瞳だけが獣のように光っていた。
「君は……悪い子だね」
声が出なかった。
彼の腕が伸ばされて、その手が私を捕ま
あぁ、また――




