ふたりの世界
※本話には、倫理的忌避感を伴う描写が含まれます。直接的な描写はありませんが、状況的にそれを強く示唆・連想させる展開となります。苦手な方はご注意ください。
その日も、部屋の窓から金色の粉のような光が差していた。
クラリカはグラムの膝の上に座り、抱えるように持った本を声に出して読んでいた。
ひと文字ひと文字、舌の上で転がすように、彼を確認するように振り返りながら。
間違えるたびに、彼の目がゆるやかに動き、指先でページの端をそっと押さえ直してくれる。
その仕草の優しさに、クラリカは笑って頷いた。
彼の声が、胸の奥を擽るように響いた。
褒められたい、もっと教えてもらいたい。もっと寄りかかっていたい。
そんな気持ちが喉の奥で泡のように膨らむ。
グラムがゆっくりと片腕を彼女の腰に回し、もう片方の手で髪を梳いた。
櫛が通るたび、光を含んだ髪が彼の膝の上でさらさらと流れる。
音が優しすぎて、世界が一つに縮むようだった。
「……ねえ、グラム」
「ん?」
「わたしね、大きくなったらグラムのお嫁さんになるの」
言った瞬間、頬が熱くなる。
子どもっぽい宣言だと分かっているのに、口の中の甘い気配が止まらなかった。
グラムは一瞬だけ髪を梳く手を止め、それから微笑んだ。
「そっか」
たったそれだけ。
叱られもしないし、冗談と笑われもしない。
静かな微笑みの中で、クラリカの胸は妙に高鳴った。
その柔らかな沈黙こそが、肯定のように感じられたから。
窓の外では、鳥が夕暮れの枝を渡って鳴いている。
彼の指がまた髪に触れる。
心臓の音と、櫛の音と、僅かな風の音――それだけが、二人の世界を満たしていた。
クラリカは目を閉じ、そっと息を吐く。
このまま時間が止まればいいと思った。
褒められるたび、触れられるたび、世界が柔らかくなる。
彼が優しいから、わたしはいい子でいられる。
彼が笑ってくれるから、明日もちゃんと生きられる。
――そんな幸福が、永遠に続くと信じていた。
夜はゆっくりと降りてきた。
食卓の上には温かいスープと、焼きたての黒パン。
クラリカは嬉しそうに匙を握り、言葉を探すように口を開いた。
「ねぇ、今日ね。新しい呪文を考えたの。明日、見せていい?」
グラムは微笑んだまま、クラリカを見ていた。
少し間を置いてから、静かに言った。
「……考えるのは、いいことだよ」
「うん!」
「でも、それはまだ早い」
匙の音が止まる。
クラリカは、何が悪かったのか分からなかった。
グラムの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、何も映さない鏡のようだった。
火の粉がぱちりと跳ねる。
その瞬間、空気の温度が変わった。
焚き火の明かりが僅かに揺れ、影が彼の頬を切り裂くように動く。
いつもと同じ笑みなのに、そこに“何か”が欠けていた。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
彼はそう言いながら、手を伸ばして彼女の頬に触れた。
ひやり、と冷たい感触。
けれどその冷たさは、熱を持った彼女の不安を吸い取るように、不思議な安堵をもたらした。
「明日になれば、全部大丈夫だ」
そう囁かれた瞬間、クラリカの意識がぐらりと揺れた。泥のように重い眠気が、唐突に脳髄を塗り潰していく。
瞼が落ち、世界が音を失う。焚き火の赤が遠ざかり、微笑む彼の顔が滲んでいく。
何かを言おうとしたのに、唇はもう動かなかった。
――ああ、グラムが言うなら。
それが、しあわせなこと、なのだ。




