夜明けの終焉
※本話には、倫理的忌避感を伴う描写が含まれます。直接的な描写はありませんが、状況的にそれを強く示唆・連想させる展開となります。苦手な方はご注意ください。
そこは確かに快適で、暖かく……それでいて優しい空間だった。
飢えは満たされ、身体の不快感は洗い流され――だけど、どうしてだか涙が出た。
ここに居ていいと赦された。なのに、言葉にならない感情が溢れるようだった。
瞼に感じる眩しさが朝の訪れを告げるようだった。
身を起こしたゾラは、その身体が痛まないことに少しだけ驚く。そこが冷たい土の上でなかったこと……暫くぶりに柔らかいベッドで寝ることが出来たのだから、そんな痛みも無かったのだろう。
ただ、この知らない天井に戸惑うのも事実だった。明確に自分の家ではないこと……それが分かるのだから。
ゾラは寝間着のまま廊下に出た。その部屋に一人きりで居ることが、どうしてだか耐えられなかった。
無意識にあの男性の姿を探すが、知らない屋敷の中だ。だから、グラムと名乗った彼がどこに居るのかは分からないまま彷徨うことになった。
記憶だけを頼りに来た道を引き返していたつもりだった。あの大広間……暖炉の部屋に行けば、彼に会える気がしていて。
しかし小さな少女にその屋敷は広すぎた。
案の定迷ってしまい、自分に与えられた部屋にすら帰れない状態になってしまった。
急激に心細くなる。周りを見渡しても、同じような扉が並ぶだけだった。
そして、廊下の奥――そこには、他の部屋にはない異質な雰囲気があった。不思議な引力に導かれるように、ゾラは歩を進めた。
扉の前、足を止める。
「グラム……?」
不安げに呼びかけるが、返事は返ってこない。
そこに居るとは思わなかったが……この扉の向こうが、どうしてだか気になってしまう。
ゾラの小さな手がそっとドアノブに触れかけた、その瞬間――
「ああ、見つけた」
その声が聞こえた瞬間、扉の向こうへの興味は消え失せた。代わりに湧き上がったのは、グラムを見つけた安堵だけだった。
振り返り助けを求めるように、彼に駆け寄る。
「おはよう。勝手に出歩いては駄目だよ、呼びに行こうとしていたんだから」
「……ごめんなさい」
ゾラは素直にそう謝ると、差し出された手を握り返す。手を引かれ、来た道を彼と共に引き返す。
去り際に少しだけ振り返り、あの扉の方を見る。
「……あの部屋には、入ってはいけないよ」
その部屋が気になっていたこと――グラムは気づいていた。
どこか柔らかさを削ぎ落としたような彼の低い声音に静かな圧を感じ、ゾラはただ言葉もなく頷くのみだった。
そして昨晩食事をしたのと同じテーブルに着き、いただきますと二人は手を合わせた。
目の前にあるのは、昨日とは打って変わって質素な食事だった。
チーズの乗ったパンに、焼いた卵、野菜のスープといった、素朴な品々。だが、それがむしろゾラには懐かしく、どこか嬉しくも感じるものだった。
グラムは知っていたのだろうか? あまりにも豪華なメニューを並べたのであれば、ゾラはどうにも遠慮してしまって。そして昨日彼女が手を付けたものと言えば、パンやキッシュといったどこか家庭的なものばかりだったこと。
緊張しながらも、ゾラは温かいスープを掬って口に運んだ。スープの中に浮かぶ小さな野菜は、どれも煮崩れず、優しく舌に触れる。
その温かさが彼女の緊張を解したのか、彼女の顔は少しだけ綻んだ。
グラムは食事に手を付けるでもなく、ただその様子を少し離れた向かい側から見守っていた。
どこまでも柔らかな笑みを崩さず、ただ……じっと見ている。視線を向けられていることにも気付かないほど、ゾラは食事に夢中だった。
彼女の口元が汚れたその時、
「あぁ」
と小さく感嘆の声を上げ、グラムが立ち上がる。ゾラのすぐ傍まで来てその口元を拭ってやった。
そんな彼の行動に、少しの羞恥を覚える。
綺麗に食事出来ないことが、どこか悪いことのようにも思えて。
「ごめんなさい」
口をついて出たのは謝罪の言葉だった。どうしてだか、それが適切な言葉であるとゾラには思えた。
「謝ることじゃないさ」
彼はそう言うと、近くにあった椅子を引っ張り出して、ゾラのすぐ傍に置いた。
そこに座り、甲斐甲斐しく彼女の食事の世話を焼くのだった。
「ゾラ」
唐突に、グラムから名前を呼ばれる。
ゾラは一瞬肩を震わせた。なにかまた、彼に咎められるようなことをしてしまったのではないかと、怖くなって。
「……なん、ですか?」
「ああ、そんな他人行儀なのは辞めにしよう」
その言葉の意味が、ゾラにはよく分からなかった。しかしグラムはこう続けるのだった。
「ねえ、ゾラ。ここに居て良いよ。私のことをパパだと思ってくれて良い」
「パパ……?」
「そう」
グラムは静かな笑みを湛えて頷く。唐突な言葉に、ゾラはただ戸惑う。
見ず知らずの男性。それを今日から親だと思え、だなんて。
確かに彼は優しく、良くしてくれる。
だが、親だと思おうとしても。彼の微笑みに、まるでそれだけじゃ済まされない感情が芽吹いてしまいそうで――ゾラは自分がどう感じているのか、まだ上手く言葉に出来なかった。
「君はどうして一人きりで居たの?」
それは核心だった。
ゾラには痛みを伴う質問で、答えるにはその辛い現実を思い出させるもの。
しかし彼女は少しの沈黙の後、堪え切れなくなったように絞り出す。
「パパとママが、わたしをおいていったから……」
口に出してしまえば、じわりと涙が滲んだ。ゾラは俯き、膝の上できゅっと手を固く握りしめる。
「……可哀想に」
柔らかな布でグラムはその涙を拭う。
「ゾラ。君に新しい名前をあげよう」
それは思いも寄らない提案だった。
「あたらしい、なまえ……?」
頷き、彼は言った。
「君を悲しませた両親の付けた名前なんて、捨ててしまうべきだ」
「……」
「名前には魂が宿るんだよ。だからこそ、君の新しい始まりには、新しい名前が必要だ」
その言葉は、幼いゾラの心にも自然と受け入れられる程の妙な説得力を帯びていた。ゾラという“悲しい存在”をここで殺すことが、正しいことのようにも思えるもので。
「君に相応しくない。もっと可憐な響きの方が似合っている」
“ゾラ”という名前。
それはママがつけてくれた、とうんと幼い頃に聞かされた。
どんな意味だったか、もう思い出せない。でも――確かに、それを呼ぶ声は優しかった気がする。
けれど今、その声はどこにもいない。
その名を否定すること、それこそが自分を捨てた二人への仕返しにもなる。
そんな黒い感情が、少女の心にふつふつと沸いてくるようだった。
「君は、私の娘――クラリカとして生きるんだ。ここには、もう何も怖いものはない」
「クラリカ……」
口に出しても、まだしっくりとは来ない。けれど、不思議と胸の奥で響いた。
光を失った空っぽの器に、新しい色が注ぎ込まれていくように。
――ゾラは死んだ。
今ここで、私が殺したのだ。
「……うん。わたし、クラリカになる」
少女は頷いた。
今までの自分と切り離された、新しい自分になれる気がして――それは少しだけ、嬉しかった。




