姉と、愛しき落ちこぼれ
重い瞼を押し上げると、薄明かりが痛みを伴って目に突き刺さった。
思考がぼやけている。地面に倒れ伏したまま、微かに首を動かす。土の冷たさが頬に心地よい。
その時、頭上に影が差した。雨も降っていないというのに、誰かが傘を差し出したかのような、静かな黒い円。
「あら、ミーシャ……こんなところでおねんねかしら?」
見上げれば、白い肌、白い髪の女。傘の作る影の中で微笑む顔――その口元には、鋭い牙がちらりと覗いた。
「姉さん……」
「ほら、帰りましょう。もう私達の時間ではないわ」
彼女が言うように、既に太陽が顔を覗かせ、辺りは明るい。その眩しさが肌を灼くように感じられる。
手を借りゆっくりと立ち上がる彼は、服に着いた土埃を払うようにしながら言った。
「その呼び方、やめてくれないか。ミハイルって、ちゃんと名前がある」
「おまえはいつまでも私の可愛いミーシャだから。今更、変えないわ」
姉と呼ばれた彼女は、ミハイルを振り返り微笑む。その微笑みは慈愛のようでいて、どこか違う感情を孕んでいるようにも見えた。
その顔にミハイルはなにか違和感すら覚えたが、見て見ぬふりをし傘を受け取った。
「……血をくれたのは、姉さん?」
「いいえ?」
ニカエラは首を傾げ、唇に笑みを浮かべた。
「……私なら、今おまえを見つけたばかりよ」
「そう……」
朧気な記憶だった。その瞬間にはもう何もかも、分からなくなっていた。
きっと極限にまで飢えていたのだろう。なにかを襲った気がしたが、違ったのかも知れない。
小さな影、夜道にぼんやり浮かぶ……夜の闇には不釣り合いで無防備で、不用心な姿。
そして与えられた。あぁ、甘美な血の味。あれは姉のものではなく――別の誰かの。
冷たく見下ろした、金色の瞳。
「狩り、出来たのかな」
「おまえが? まさか」
ぽつりと漏らしたミハイルに、姉は少しだけ冷えた視線を向けた。だが、ミハイルはそれには気づかなかった。
「そんなはずないわ。欲しいなら私に頼りなさい? ……そう言ってるでしょう」
「……そうだけど」
ミハイルはどこか歯切れが悪い物言いをする。そんな態度に、ニカエラは苛立ちを滲ませているようだった。
「美味しかったんだ、それは確かに覚えてて……誰か、知らないけど」
「私のでは満足出来ないというの」
「それは、そうじゃないけど。いつまでも姉さんに頼るのは」
「その姉さんっての、やめて。ニカエラって呼びなさい! ……そう言ってるでしょう」
「っ、ニカエラ……」
ミハイルは、姉の要求を素直に飲み込んだ。ただ、彼女のこの切実であり悲痛にも思える叫びのような声が、どこか言いようのない違和感を彼の中に落とし込んでいく。
「夢でも見ていたのよ。きっとそう、おまえが一人で狩りをしたことがあった?」
「そうかな、そうなのかな……でも誰か、じゃなきゃ僕は今頃――」
「忘れなさい。おまえは何も出来ないんだもの。そんな幻想に縋るくらいなら……私に縋り付けばいいの」
諭すような口調であったが、視線はただ冷たく。しかしミハイルはそれを飲み込めないでいた。
喉元に未だ、あの生暖かさが残っているような気がして、ニカエラの言葉を信じ切れず。
本当に幻だったのだろうか? じゃあこの感覚は、どう説明すれば良いのだろうか……。
「帰りましょう」
有無を言わさない言葉ただ一つ、それ以降ニカエラは何も語らなかった。
雨も降っていないのに二人は傘を差し、まだ薄明かりの空の下、帰路についた。
何も出来ない。そう、自分は何も――
ヴァンパイアでありながら、一人では満足に狩りも出来ず、挙げ句飢え死ぬところだった。
誇り高き種族の、落ちこぼれ。これが“夜の住人”? そう聞いて誰もが呆れるほどの……これでは太陽に怯えて日々を暮らすだけの、惨めな存在でしかない。
それも姉の施しを受け、生き永らえるなどという。
自分の存在意義が分からなかった。ただ、姉は自分を求めてくれる……それだけだった。それだけの自分の中に、どうにも昨晩のことが引っかかりを残した。
はっきりとは分からない。ただ、与えられたそれがどうにも……忘れ難く。
もしもあれが夢幻の類だったのなら――僕は、もう二度と目覚めたくはなかった。




