黒山羊さんとやさしい森の王子様
※本話には、倫理的忌避感を伴う描写が含まれます。直接的な描写はありませんが、状況的にそれを強く示唆・連想させる展開となります。苦手な方はご注意ください。
寒い。けどそれを口にすることすら出来ない。
お腹が空いた。けど、そう呟いてもどうにもならない。
家が恋しかった。
けれど帰ることももう許されず、その場所すらない事実が悲しく……涙さえ溢れるようだった。
しかし、涙はもう出なかった。乾いた目が、ただ闇を吸い込んでいた。
パパとママと、どうして二人は……私を置き去りにしたのか。
どうして? 私が気味の悪い力を持ってしまったせいだろうか。
どうして? それを持っていたら、私は……二人の子供では居られないのだろうか。
膝を抱えて座っていた。けれど、それすら出来なくなっていた。
少女は、その姿勢を保つことすら諦めようとしていた。力なく横たわるようにその身を倒した。
はじめ、その先に待っているのは冷たい地面だと思っていた。しかし実際には……なにか温かいものがその身体に触れたのだった。
(……あったかい)
手が触れたのは毛皮のようなもの。少女は思わず目を開いた。
少女が倒れ込んだ先には、黒の体毛。それは獣のもので、しかし先程までそこには存在していなかった。
見上げたなら、二つの大きな角。そして金色の瞳に横長の瞳孔――それと目が合う。
少しの恐怖に声を上げそうになるが、飢えて疲れ切った少女はそれすら出来なかった。
ただ、怖い中にも、この獣から与えられる温かな心地良さを少女は確かに感じていた。
「あっためてくれるの?」
通じるわけがないとしても言わずにはいられなかった。絞り出すような声は掠れ、その黒山羊に聞こえているかすら分からない。
聞こえていたとしても、伝わるとも思えなかった。
だが。
「寒いなら、こうして寄り添っていてあげる」
「え?」
身を寄せた黒山羊が、確かにそう言った……ように感じた。
だが少女は信じられなかった。極限の状態にあるから、自分に都合の良い幻聴が聞こえるのだと考えた。
「――幻聴なんかじゃないさ。確かに、君に話しかけているんだ」
少女が口に出した訳ではない思考をそっくりそのまま返す。
「あなたは……なに?」
幼い言葉はどこまでも抽象的だった。しかしその黒山羊は、頬ずりするような仕草で彼女に身を擦り付け、言うのだった。
「この場では何だって構わないだろう? それより……このままではいけない。君の命の火が尽きかけているのだから」
黒山羊の言う通りだった。彼女の感じる空腹も、身体の冷えも、既に限界だった。
「ねえ。君がまだ生きたいのなら……私の背中に乗って」
「……」
少女は答えられなかった。死にたくはないが――果たして、自分が生きていたいのかは疑問に感じられたから。
両親に捨てられた自分は、どう生きていくべきか分からない。幼い少女は、ただ……漠然とした不安にその答えを出せない状態にあった。
「じゃあ、私が君に“生きて欲しい”と願ったなら?」
その声は不思議なほど優しかった。
誰かに求められた記憶なんて、もう遠い昔のものだった。そのはずなのに――少女の胸の奥に、じんわりと温かな火が灯るようだった。
少女は、手を伸ばしかけたところで一度だけ躊躇った。
けれど、それでも……温もりのあるその背中にそっと手をかけた。
――もう戻れないと分かっていても。
「それが答えなんだね……良い子だ」
そう言うと、黒山羊はゆっくりとその四肢で立ち上がった。少女を背に乗せ、しっかりと捕まったその手の力を確かめると、緩やかにその歩みを進めたのだった。
黒い森の中、静かにせせらぐ小川を越えて……更にその奥深くへ。走る黒山羊の背に乗って、少女は流れていく景色をただぼうっと見ていた。
人気はない。やがて、森の奥……やけに開けた土地。そこに存在するのは、この森に酷く不釣り合いな大きな館。灯る明かりがやけに暖かく目に映る。
「さあ、着いたよ」
玄関の前でゆっくりとその背から降ろされる。少女は、どうして良いか分からないといった様子で黒山羊を振り返る……が、既にその姿はそこになかった。
幼い少女にはその玄関扉がやけに大きく聳え立っているようにも感じられた。
だが、ここに連れて来られたこと。この館に住む誰かに助けを求めろという意味にも思えたのだから……。
呼び鈴には手が届かなかった。だから、出来るだけの力を込めてその扉を叩いたのだった。
ガチャリ、と内側から音がした。少女は思わず後退する。
重厚な音と共に、玄関扉が開かれた。そこに現れたのは金の瞳に黒髪の、どこか中性的で柔らかな雰囲気の男性だった。
「こんばんは、お嬢さん……どうしたの?」
「あ、……えと、その……」
そう問われたなら、しどろもどろになってしまう。しかしそんな少女の様子に、男はどこまでも柔らかい笑みを向けたまま。
「困っているの?」
少し照れたように、言葉もなく微かに頷いて見せる。
「ああ、可哀想に。……さ、入って」
……本当は、知らない人について行ってはいけないことくらい分かっていた。
でも、あの黒山羊の言葉が、この人の声の中にそのまま残っている気がした。
きっと大丈夫――そう思わされていた。
玄関扉は再び固く閉ざされた。まるで外界と遮断するようなその厚い扉は、二度と開くことのないような印象すら少女に与えるのだった。
暖炉の薪が小さく爆ぜる音は、まるで遠い昔に忘れた安らぎの記憶を揺り起こすようだった。凍えた心が少しずつ溶けていく気がした。
柔らかなソファに座らされ、少女は暖炉に視線を向けていた。
「お腹空いてるだろう。ほら、食事が出来たから……こっちにおいで」
促され、少女は素直に従った。それが事実であったから。
連れて行かれた先は、広いダイニング……だろうか。大きなテーブルに、やけに豪華な食事が並べられていた。
「さあどうぞ、召し上がれ」
少女は信じられない思いだった。これを食べても良いのか、と――そんな風な視線を男性に向ける。男性はただ静かに優しい微笑みを返し、少女に頷いて見せる。
「いただきます……」
少女はパンを手にとって、口に運んだ。そしてそのまま、食欲は止まらなくなる。
「ああ、いけないよ」
綺麗に盛り付けられたキッシュの一片に伸びかけた少女の手を、咎めるように制する。
「君は女の子なんだから。それでは品がない」
彼の言葉は優しく響くが、少女の胸の中にほんのりとした緊張を生んだ。まるで自分の行動を見張られているような――決して逆らえない雰囲気に、無意識に身体が縮こまった。
男性はそれを小皿に取り分けると、ナイフとフォークで丁寧に一口大に切り分ける。そして、彼女の口元に運んで言うのだった。
「ほら、あーん」
笑顔で、ただ……そう言う。気恥ずかしさに戸惑うものの、少女は抗えはしなかった。
彼の促すように素直に口を開く。
「美味しい?」
問われれば、ただ咀嚼しながら頷く。
「良かった」
それだけだった。
けれど、妙な恥ずかしさと親切にされたことの嬉しさに、どうして男性が見ず知らずの自分にこんなにしてくれているのか?
そんな疑問すら忘れて、ただ――この場所が本当に安全なのか、まだ確信は持てなかったけれど。
誰かが自分を気遣ってくれるという事実が、孤独な彼女の心をほんの少しだけ和らげていた。
食事の後、少女は久しぶりに満たされたという気持ちになった。少し遠慮がちにソファに座り、やはり視線はそのまま暖炉の方に向けたまま。
「お風呂が沸いたよ」
そう言われ、ゾラは自らの服を握りしめた。
豪華な屋敷に、薄汚れた自分はあまりに不釣り合いだった。そのままでいれば、きっと綺麗な家具を汚してしまう。
――拒否など、出来るはずもなかった。
湧き上がる申し訳なさに背を押されるように、男性の呼びかけに従った。
連れて行かれたその先で、薄汚れた服を脱がされ戸惑う。
「あの、ひとりで……入れます」
浴室は広くて、湯気がゆっくりと天井へ昇っていった。
清潔な白いタイルと、どこか冷たい空気が入り混じっている。
彼の手の動きは確かに丁寧だったが、その一挙手一投足に少女は言葉に出来ない違和感を覚えた。
「恥ずかしがらなくていい」
と、彼は静かに繰り返す。
だがその言葉が彼女の胸を締めつける。まだ何も始まっていないのに、何故か逃げ出したくなる。
自分の裸を誰かに見られることの恥じらいと、誰かに触れられることへの戸惑いが入り混じる。
彼の瞳は優しい。しかし、その奥に微かに潜む影が少女の胸をざわつかせる。何も起こってはいない。ただ、そこに“何か”があることだけが確かに感じられた。
彼がこの屋敷の主だろうか? それははっきりしなかった。何日も野宿したような少女であるから、念入りに洗うなんてのはどこも不思議ではないのだけど。
やがてその羞恥に晒される時間から解放される。
浴室から出た先には、柔らかなタオルと清潔な着替えが用意されていた。
身を委ねるようにただ少女は立っていた。されるがままに優しく身体を拭かれ、寝間着を着せられる。
着心地の良いそれで包まれたなら、少女はようやく安堵する。知らない誰かの目に裸を晒し続けることをもうしなくていい……そんな安心感から。
彼に手を引かれ、とある一室に連れて行かれる。開かれた扉の向こうは、客室のようだった。ベッドと机と椅子とがある一室。
「あの……いいの?」
「行く宛がないなら、暫くここに居て良いよ」
そして、どこか低い声で……明確に、脅かすような意図を持って彼は続ける。
「夜の森には、怖い怪物がうろついてる。……だから、ここに居た方が良い」
そう言われたなら、少女の背筋をぞわりと這い上がるような怖気が走った。彼に握られた手に、思わず力が籠もる。ぎゅっと確かな握力をその手に感じた男性は、柔らかな笑みで応える。
「私はね、グラムって言うんだ。ねえ……君の名前は?」
屈み、同じ目線の高さでそう問われる。少女は口を開くと、短く名前だけを名乗るのだった。
「……ゾラ」
名を告げたその声は、少しだけ震えていた。
それは、まだ形になりきらないこの少女が、自分自身を初めて他者の前に差し出すような、小さな小さな一歩だった。




