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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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「ただ、死を与えなかっただけ」

※このエピソードには、ストーリー展開上必要な性的接触の描写及び、嘔吐表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 ――まるで処刑台に向かうような足取りだった。

 ゾラの部屋の扉に手をかけたとき、ミハイルはもう()()だけで動いていた。

 首輪のように絡みつく契約の呪縛。それが誇らしいと思った瞬間もあった。

 でも今は、ただ痛い。

 彼女にとっての自分は不要であると分かっていながらも、それでも彼女を見ていたいと思ってしまう。

 それが罪でないなら、なんだというのか。

 扉の向こうは静寂。冷たい月明かりが寝台の上のゾラを照らしていた。

 金の髪が夜の帳に解け、美しいというよりも儚くて危うい。

「……ゾラ……」

 名を呼ぶ声すら彼女の眠りを裂きそうで怖い。

 それでもミハイルは歩を進めた。

 そっと彼女の傍らに膝をつき、躊躇いながらその頬に指を添えた。

 温かい。

 それが、もう堪らなかった。

 ――自分はこの温もりに触れることすら許されていないのに。

 彼女の笑顔を見たいと思うことすら傲慢だったのに。

 それでも触れてしまった。


 唇を重ねる。それは想像よりも、ずっと柔らかく――儚かった。

 まるで触れただけで壊れてしまいそうで、怖かった。だというのにミハイルの指先は止まることを知らなかった。

(終わってしまえばいい)

 そう願うほどに彼の心は限界だった。

 求めてはいけないものを欲しがり続け、心はずたずたに裂けていた。

 彼女に手にかけられ、塵となるなら本望だった。

 それがどれほど幸せな終わりか――そんな風に、現実から目を逸らしていた。

 彼女の首筋に顔を埋める。そして思うのだ……血を与えられるあの瞬間のことを。甘美な血が自分を満たし、どこまでも自分に都合の良い錯覚さえ抱かせる。

 けれど、どれほど甘くても錯覚は所詮、錯覚でしかない。自分の抱くこの想いが報われる日は永遠に来ないのだと知っていた。

 そっと唇を寄せる。

 牙を立てることはしない。彼女の許しがなければそれは“契約違反”だ。

 ――だが、触れずにはいられなかった。

 まるで懺悔のように。

 まるで、救済を乞うように。


 彼女を覆う布に指をかけた時、手はひどく震えていた。

 それでもたくし上げる。

 ゆっくりと、ゾラの身体が月明かりの中で白く浮かび上がる。

 眩しさに似た静謐な美しさだった。

 奪いたかった。血だけじゃなく、全てを。

 けれどそれは、愛されたかったのと同じ意味だった。

 ――違う。本当はもっと醜い。

 彼女を壊してでも自分だけのものにしたかった。そうすれば彼女も自分と同じ――不完全で、惨めな存在になる。

 だから自分を見てくれるのではないか。

 ……そんな浅ましい欲望を抱くこの自分が許せない。

 この痛みを抱えたまま、望まれないまま、首輪を着け続ける日々に終わりが欲しかった。

 だからこそ彼女自身の手で罰して欲しかった。いや、救って欲しかったのかも知れない。

 布の下から覗く柔らかな肌に、指が触れた。

 その瞬間ゾラの喉が震え、細く艶を帯びた吐息が洩れる。

「んっ……」

 ミハイルの動きが止まった。指先に伝わる体温が急に熱を帯びる。

 寝ているはずの彼女が、身体を小さく震わせ僅かに身を捩る。

(反応、して……?)

 それは意識とは無縁の、だが、あまりにも色を含んだ吐息。

 もっと深い、眠りの底に沈んだ場所――彼女の“過去”に結びついた、条件反射のような淫靡な応答。

(やめなきゃ……これ以上は)

 心は警鐘を鳴らす。だが身体は彼女の反応に魅入られていた。

 ――まるで、彼女が()()を望んでいるかのように見える。頬を紅く染め、眉を寄せ、夢と現実の狭間で喘ぐようなその姿に、ミハイルは一歩、深淵へと踏み出しかける。

「や、ぁ……。だめ、っ……」

 拒絶の言葉とは裏腹に、その声音は甘く媚びるように響いた。身体が勝手に“そう鳴く”ように作り変えられているかのように。

 こんな彼女の声をミハイルは聞いたことがなかった。

 今目の前にいるゾラが、あの冷たい視線を持つ魔女と同じ存在だとは思えない。

(……これは)

 理解ってしまった。

 これは彼女が、自らの意思で発したものではない。過去、誰かにそう躾けられた声――強制された快楽が、記憶ではなく身体に刻まれてしまった証。

 ミハイルの喉がひくりと鳴る。

(こんな、声。出させたのか、誰かが……)

 想像するな。

 そう思うのに、脳裏には彼女が過ごしてきた暗い夜の幻が浮かぶ。

 指先に伝わる反応のすべてが、ただの想像でなく――真実であるということを残酷に突きつけてくる。

 彼女の意思などではなく、誰かを悦ばせる為だけに組み上げられた、歪な回路。

 愛された記憶などではない。もっと冒涜的で、一方的な()()に、彼女が砕かれるまで晒され続けた証拠。

 悲鳴すらもこうした甘い声に変えさせられたのだと気づき、ミハイルの背筋が凍りついた。

(最低だ。僕は、こんなことを……)

 それでもやめられない。

 肌の柔らかさが、吐息が、耳を擽る甘い声が――狂おしいほど魅力的で。

 もっと核心に触れたなら、どんな声を出すのだろう?

 もし彼女が本当に望んでいたなら?

 ……そんなことは、自分の都合の良い解釈に過ぎないというのに。

 布越しに這わせた指に、確かな熱を感じる。脚が僅かに絡まるように閉じられ、吐息はますます艶を増していく。

 彼女の口元が微かに開き、うっすらと涙を浮かべる瞳が、夢の中で何かを追うように揺れている。

「っあ、……ミハ、いる……?」

 ――名前を呼ばれた。

 甘い声で、夢の中で。彼は、自分の名を呼ばれていながら、呼ばれていないような気がしていた。

 その瞬間ミハイルの中で何かが崩れた。同時に、最後の理性が牙を剥いて彼を止めた。

(やめろ。これ以上は、本当に……)

 指を引き、身体を離す。

 その刹那ゾラの瞳が薄く開いた。夢と現実の境界で揺れる茫漠とした視線。

 そして次の瞬間、焦点が合う。

 ミハイルは、最期の時が来たのだと――覚悟をしたつもりだった。

 だが。

「いや、嫌っ。やめて……!」

 思っていた反応とは違うものが返ってくる。

 彼女は顔を背け、両手で自分の身体を抱きしめるように縮こまった。肩が激しく震え、呼吸が浅く速い。

「クラリカ、いい子にする、から……っ」

 その瞳には明確な恐怖。耳に届いたのは、聞き覚えのない名前。


 ……クラリカ?


 分からない。僕には何も分からない。

 ただ一つ確かなのは――今、彼女が怯えているのは僕ではなく、僕に重ねた過去の“誰か”の影だということ。


「っ、ごめん……ゾラ、ごめん……!」

 ミハイルはただ、そう言っていた。

 罰されるものだと、殺されるものだと――終わりを迎えられると、彼は信じ切っていた。

 だがゾラはそうしなかった。出来なかった。

 何かに怯えるように、震えていた彼女。そこに居たのは魔女などではなく……ただの儚く、脆い少女だった。

 そのままそっと彼女の身体を覆い直し、ミハイルは寝台から離れる。




 彼女が大切だった。心から愛していた――それなのに。

 涙を堪えながら、後退る。倒れた椅子の脚が床を鳴らした。

 部屋を出る直前、振り返る勇気は無かった。

 月明かりの下、彼女がどんな顔でいるのか……見られるはずもなかった。

 どうしてこんなことを――ただ、後悔していた。

 足がもつれ、息が切れる。僕は逃げ込むように自室に帰り、扉を締めたその場でへたり込んだ。


 殺して欲しかった。彼女の手で、塵になりたかった。

 それなのに僕は、新たな恐怖を彼女に与えてしまった。彼女の心も身体も無視して、一方的に搾取したかつての“誰か”。その顔のない影たちと同じ場所に、僕は自ら堕ちたのだ。

 いや、違う。

 もっと身近にいた。僕が最も恐れ、決してそうはなりたくないと願った支配者。

 ――ニカエラ。

 相手の心など見ようともせず、ただ己の欲望を押し付け、それを愛だと嘯くあの(ひと)

 僕は、あのニカエラの弟なのだ。

 被害者面をして逃げ回っていたくせに。僕は、僕の心を殺し続けてきた(かのじょ)と、同じことをしたのだ。

 それは逃れようもなく否定も出来ない、確かな呪い。

 その事実が、死ぬことよりも遥かに重い罰となって全身にのしかかる。

「――か、はッ……! ヒュ、ッ……お゛、え゛ぇッ……!!」

 喉の奥が痙攣し、汚い音が漏れた。

 床に手をつき、空っぽの胃液を絞り出すように嗚咽する。

 気持ち悪い。自分という存在が、自分の中に流れる血が、たまらなく気持ち悪い。

 何度も、何度も。

 胃が縮み上がり、喉が灼けるような痛みに襲われ続けて――やがてそれすらも掠れ、ただ荒い呼吸だけが床に落ちる。


 どれだけの時間、そうしていただろうか?

 涙とも涎とも、胃液ともつかないそれに塗れた、冷たい床に突っ伏したまま……指の一本も動かせない。

 けれど、内臓を裏返すほど吐き出したところで、何ひとつ消えはしない。

 ……彼女の声が、まだ耳に残っている。

 体温が、感触が……まだ、指先に残っている。

 拭っても拭っても拭い切れない、罪の烙印のように。

 それがどれほど淫らで、どれほど魅力的で――そして、どれほど救いから遠いものだったか。

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