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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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赦しⅡ――不純な牙

 朝が来ても眠れはしなかった。窓の外では、まだ夜の名残が庭を覆っている。

 前にもこんな朝があった。魔女の会合へ同行する日の朝――あのときは緊張で眠れなかった。

 けれど今は違う。昨夜の出来事の余韻が、まだ体の奥で熱のように残っている。

 霧が濃い。

 そっとカーテンをめくると、外の庭がぼんやりと見えた。

 ほんの数日前、ゾラと並んで花を植えた場所だ。

 魔女である彼女が、魔法を使うでもなく、手を土に汚しながら――あのときの指先の動きを今もはっきり覚えている。

 最初、ゾラは言った。彼女には「不要な異物」だと。

 確かに薬草でも何でもない、ただの飾りだった。

 それでも萎れかけた花を見て、枯れてしまうからと一緒に植えてくれた。

 僕はそれを不器用な優しさだと信じていた。


 しかし昨夜、それと同じ手が僕に短剣を差し出した。

 実の姉を排除しろという、無慈悲な命令と共に。

 その冷たさを思い出すたび、あの庭の記憶までもが嘘のように感じられる。

 僕は彼女を人間として見たかった。

 けれど、あの声音と無表情を思い出すと――それがただの思い込みだったのだと分かる。


 今も台所で料理をしている背中が見える。

 火を扱うその仕草さえ、昨日の彼女と同じ人物とは思えなかった。

 僕の気配に気付いたのだろうか。鍋の火を弱めながら、ゾラがぽつりと言った。

「今日は食べないの?」

 こちらを見たわけでもない。

 ただ、いつも通りの支度をしながら、何気なく尋ねたように聞こえた。

 胸の奥が小さくざわつく。

「……いらない。今日は、そんな気分じゃなくて」

 言葉を選んだつもりだったが、口にした瞬間、妙に冷たく響いた。

 ゾラは振り返らなかった。

 けれど、短い沈黙のあとに静かに言った。

「そう。……それなら、無理に口にすることはないわ」

 その声音がやけに穏やかで、かえって痛かった。まるで、僕の中の何かが見透かされているみたいに。

 観察されている。そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 スープの香りが漂う。

 朝靄のようにその香りが満ちるのに、食欲はまるで湧かない。代わりに、胸の奥の冷たい霧だけが濃くなっていく。


 ――本当に、この人は優しいのだろうか。


 日が沈むたび、空気が昨日より少し冷たくなっていく気がした。

 それは日ごとに強まっていく。僕の中の何かが、少しずつ薄れていくようでもあった。

 ゾラの棲家は静かだ。外界から切り離されたように、時間の流れさえ均一に感じられる。

 それでも――僕の中では確かな変化が起きていた。


 彼女を見るのが怖い。

 理由は上手く言えない。命令を拒んだことの報いだと分かっていても、謝る言葉が見つからなかった。


 もう彼女と同じ食卓につくこともない。

 本来、僕に食事は必要ない。それでも以前は、彼女の向かいに座り、同じ皿を前に過ごすのが日課だった。

 食べる為ではなく、ただ同じ時間を共有する為に。

 今はもう、その席に座るのが怖い。

 台所から聞こえる火の音や、器の触れ合う微かな響きが、胸の奥を落ち着かなくさせる。

 彼女の沈黙が静かすぎて、その奥に何かを計っているような気がした。

 僕はそれを“怒り”だと、決めつけたくなかった。


 夜が深まる頃、庭に出る。

 明かりの灯る窓を、無意識に探してしまう。そうしたいわけじゃないのに、習慣のように。

 その向こうにゾラがいる。

 目が合うと、心臓が跳ねる。罪悪感のような音が胸の奥で響いた。

 土を掘り返しても指先の感覚がなく、芽を摘むたびに何かを壊している気がする。

 ふと視線の先に、あの日一緒に植えた花が見えた。

 ……こんなにも色褪せて見えただろうか。

 彼女が今、あの窓から同じ庭を見ているとしたら、何を思うのだろう。

 僕の世話が足りないせいか、それとも彼女の魔力が届かなくなったのか。

 どちらにしても、あの日の庭はもう“二人のもの”ではなかった。




 最近、使い魔の様子がおかしい。

 彼は元々弱い。だからこそ私は彼を選んだ。形式上の契約相手として、その程度の存在で充分だった。

 本来、魔女は力を誇示する為に相応の使い魔を選ぶ。イシュベルダのように複数の使い魔を侍らせる者もいるが、私にはそんな見栄は必要ない。機能すればそれでいい。

 ミハイル“で”よかった――少なくとも、今までは。


 ここ暫く、彼は食事をしなくなった。

 食事など、彼には本来不要だ。それでも以前は私と同じ皿を前に座り、黙って食事の真似事をしていた。

 それが何を意味するか、私は深く考えなかった。彼にとっては、ただの“模倣”だったのかも知れない。

 だが今になってそれを止めた理由が分からない。不要な行為をやめただけ――そう言えばそれまでだが、なぜか落ち着かない。機能しない椅子が一脚、台所で沈黙していることが妙に神経に障る。


 そして、もう一つ。

 血を求めることもなくなった。

 それは彼の存在そのものを支える行為の筈だ。不要なものをやめるのは合理的だが、生存に必要な摂取まで拒絶するのは理解の範疇を超える。

 自滅願望か? それとも――。


 夜の帳が下りた庭で、彼は土を弄っている。緩慢な動きだ。

 以前なら、まるでそれを生きがいのように感じているような様子で庭仕事をこなしていた。手際は良くなかったが、確かなやる気があった。

 今は違う。

 育った薬草を収穫するでもなく、間引きをするでもなく、ただ撫でているだけ。

 苛立つ。職務怠慢だ。

 肌寒い夜気が頬を撫でた。私はその感覚を確かめるように息を吐き、静かに歩き出す。

 見過ごすべきではない、そう思った。

 庭の奥、薄闇の中に彼の姿がある。土に触れながら、何かを失くしたような顔をしている。


「何をしているの」

 声をかけると、彼はびくりと肩を震わせ、振り返った。

「えっ、あっ……! ゾラ……」

 素っ頓狂な声。虚ろな目。いつもの彼なら、こちらに気づけば慌てて取り繕おうとするのに、今はそれすらない。

 それだけではない。疲弊している。出会った時ほどではないが、確実に飢えている。

 それなのに、彼は血を求めてこない。


「何故血を求めないの。対価でしょう?」


 そう言われてしまえば、僕は彼女を避けていたのだと認めるしかない。

 かつては、血を与えられることを神聖な儀式のように感じていた。愛の証だと思っていた。だけど今は――怖い。

『その女はおまえを愛さない』

 ニカエラの言葉が、深くに根を張っている。そうかも知れない。僕が勝手に勘違いしていただけなのかも知れない。

 あの時、ゾラは僕にニカエラを殺せと命じた……実の姉を。

 僕には出来なかった。きっとゾラは失望しただろう。

「それは……」

 言葉が出てこない。まさか本人を前に「あなたを避けていた」とは言えない。

「職務放棄。自分の体調すら管理出来ないの?」

 その通りだ。反論出来やしない。

「以前言ったわよね。蚊以下だって」

「はい」

 ……覚えている。蚊ですら血を求め必死なのに、僕ときたら。

「あなたには知性がある……それなのにどうしてこんな、情けないの」

 ゾラの言葉は冷たく、正確だ。全て正しい。

「……来なさい。そんな状態じゃ雑用すら任せられない」

 圧の込められた声だった。僕は素直に従うしかなく、彼女の後を追った。


 部屋に入ると灯りは落とされていた。

 窓から射す月光だけが床の上に細い線を描いている。

「座って」

 ゾラは椅子に腰かけたまま、指先だけで合図を送る。

 僕は命令に従って跪いた。心臓の音が耳の奥で鳴っている。彼女の心臓ではない。僕自身の、みっともない音だ。

 ゾラが髪を払うと、白い首筋が露わになる。その動作は祈りでも誘いでもなく、ただの習慣のようだった。

 その肌の白さに僕は一瞬だけ息を飲む。あの時の陶酔が微かに蘇る。けれどすぐに、胸の奥に残ったざらつきがそれを押し潰す。

「……いいわ」

 短い言葉。

 それだけで許可も命令も終わった。

 牙を立てた瞬間、彼女の皮膚が細く裂ける。

 血が滲み、舌に触れる。甘い。けれど、甘すぎる。砂糖を焦がしたような苦味が、喉の奥に広がる。

 身体は歓喜しているのに、心だけが後退していく。

 彼女の鼓動がすぐそこにある。静かで、均一で、何の乱れもない。

 ……それが怖い。僕が牙を深く刺そうと、浅く抜こうと、何も変わらない。まるで僕という存在がこの世界になんの影響も与えていないように。


 ――このまま吸い尽くせば。


 まただ。

 その考えが、闇の底から浮かび上がってくる。

 ……終われる。彼女も、僕も。

 それは誘惑であり、救いでもあった。けれど僕は牙を深く出来なかった。

 吸えば吸うほどゾラの冷たさが伝わってくる。

 それは死の冷たさではなく、生の冷たさ――凍った理性の温度。その理性が、僕を見下ろしている気がした。


 殺すべきは、僕だ。

 こんな考えを抱く僕自身を、終わらせるべきなんだ。


 彼女は終わりを望まない。

 だからこの衝動は、救いなんかじゃない。これは、僕という存在を壊す為の願いだ。

 僕は牙を引いた。血が唇を伝って落ちる。

 跪いたまま息を吐く。肩が震えている。

 血の温かさが消えていく頃には、胸の奥に冷たいものが沈んでいた。

「もう終わり?」

 ゾラの声。

 不思議そうでも、怒っているでもない。

 ただ、少しだけ――いつもより低い。

 僕は答えられなかった。喉が塞がっていた。彼女の言う“終わり”と、僕の思う“終わり”は違う。

 それを口にしたら、何かが壊れてしまう気がした。

 彼女はため息をつくように、短く息を吐いた。

 指先が首筋に触れ、血を拭い取る音。

 そして、沈黙。

 月が二人の影を床に並べていた。

 けれど、その影は触れ合うことはなかった。

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