紛い物の献身
城は既に平静を取り戻していた。あの慌ただしい非日常感が嘘のように沈黙し、胸の奥の疼きもいつしか消え去っていた。
ニカエラは出かけていた。彼女は弟を探すのに必死だった。
情報を得たのか、自ら弟を連れ去ったという魔女のところへ乗り込むのだと数時間前に言っていた。
誰かに任せるのでは、不確かで。だから自分で取り戻したかったんだろう。
あの弟のどこにそこまでの価値があるか分からない。
けど、ミハイルこそが彼女にとっての全てだったんだろう。唯一の、血の繋がる弟。
兄様や私のような紛い物の家族でなく。
それを自分の庇護するのに相応しい形に育て上げた。その苦労は想像に難くない。
ニカエラはミハイルの本来持つべき能力を育てなかった。芽を摘み取るように、ヴァンパイアとしての矜持すら持てないように育てたんだ。
まるで、牙を持たない吸血鬼のように……情けない存在として。
その方が支配し易かったんだろう。自分に依存させ易かったんだろう。
私は彼を批判した。姉に頼ることでしか――与えられるままにしか生きられない彼を、同じヴァンパイアとは思いたくなかった。
それも、私が決して本物になれないのに。彼は正真正銘、生まれた時から純血のヴァンパイアであるから。
それだから憎たらしいんだ。私が決して成れない純血存在であるのに……あまりにも情けないから。
けど私は、そんな彼を完全に憎むことは出来ていなかったんだろう。少しの期待もあったのだから。
いつか彼自身が、姉の支配から脱するとき。それこそ、彼が本物として目覚めるときなんじゃないかって、少しだけ期待していたのだ。
正直迷惑だった。彼が家出したせいで私の日常が脅かされて。
でも同時に愉快でもあった。あのニカエラが珍しく参っていて、でも怒りを露にして……そんな様子を見る事が出来たから。
私は彼女を軽蔑していた。ミハイルの誇りを摘み取るような真似をして、自分に依存させて――それを愛だなんて嘯いているのが、気に食わなかった。それも、実の姉弟であるのに。
物思いに耽っていた。らしくないと自分でも思う。
バルコニーから月を見上げる。欠けた月……その不完全さも、美しいものと私は思った。
静寂に沈んでいた。こんな静かな夜は久しぶりのこと。
でもどこか妙な胸騒ぎがする。
蝙蝠の一匹も居ない静けさに不穏を感じ、私はどうしてかエントランスに向かっていた。
部屋を飛び出し、階段を降り……そうすれば、そこに兄様が居た。
「おや……エヴァもか」
というのは彼もまた、私と同じを感じ取ったのであろうか。珍しくその表情がどこか硬いものに感じられた。
私達はそれ以上言葉を交わさず、ただ二人で扉の方を見ながら立ち尽くしていた。
やがてその時は訪れた。
重厚な扉が、まるで幽霊がすり抜けるかのように音もなく僅かに開き――そこから影が零れ落ちてきた。
ニカエラだった。
足取りは覚束ず、よろめき倒れそうなところを、兄様の腕が受け止めた。
「姉様、どうしたの」
問いかけるが、ニカエラは何も言わず。
それ以上は兄様が許さなかった。私に向いて咎めるように首を横に振る。
私は短く頷いた。聞きたいことがあった……でも、姉様の様相はあまりにも酷いものだった。
ドレスは破れ、土に汚れ、怪我をして……血が出ている。普段以上に血の気を失い青白く、あの自信に満ちたいつもの顔が嘘のように弱々しい。
「……俺に任せて」
短くそう言い、ニカエラを部屋へと連れて行く。肩を抱き、一歩一歩ゆっくり――。
私は一人になった。
嵐のようだった。不穏な空気を感じ取ったあと、一瞬で過ぎ去るような崩壊の兆し。私の心に、確実になにか……痕を残していく。
立ち尽くしていても、それ以上することもなく――私は部屋に帰るしかなかった。
彼女の身体を受け止めた瞬間、どうしてだかその異常な様相よりも、こんなに軽かったのかという驚きの方が強かった。
冷たい体温、血の匂い。
明らかに何かがあった――そう思わせるに充分なほど彼女はボロボロだった。
肩を貸し、ゆっくりと進むが……しかし、抱き抱え運んだ方が早かったのかも知れない。だが彼女のプライドの高さを俺は他の誰よりも知っているつもりだった。
紛い物の俺なんかの手を借りるのは彼女としても癪だろう。今だってきっとそうだ……手を借りてしか歩けない、そういう状況だけでもきっと辛いものがある。
俺が抱えてしまえば、きっともっと……彼女は、自分自身を許せなくなることだろう。
彼女の髪が触れるたび、微かに焦げた匂いがした。
魔力の暴走か、それとも誰かとの戦いか。どちらにせよ彼女が“完敗”を喫したのは明白だった。
だが、そのことを口にするのは酷だった。
彼女の誇りは、敗北よりも、誰かに敗北を悟られることを恐れている。
だから俺は何も言わなかった。ただ、静かに歩調を合わせた。
――階段の一段ごとに、血の滴る音が聞こえた気がした。
部屋に辿り着きベッドに横たえても、震えは止まらなかった。
酷く消耗している。
彼女はうわ言のように小さく呻いている。なにか訴えるかのように。
「……寒い、寒いわ……」
俺は躊躇いながらベッドの傍に膝をつく。
その瞬間、彼女の肩が震えた。“触れるな”――その意思が言葉にせずとも伝わってきた。
「手当てが要る。……嫌ならエヴァを呼んでくる」
踵を返そうとした、その時だった。
袖が引かれた。
驚いて見下ろす。力は弱いが、そこにはなりふり構わぬ必死さがあった。
俺に頼る気になったのか。いや――違う。彼女の虚ろな瞳は、俺を見てなどいなかった。
ああ、分かっている。彼女が俺を誰の代わりにしているのか。
分かっていて振り払えない。
彼女が誰を求めているか知っていたのに、手を離すことの方が残酷に思えた。
俺は諦めと共に、その場に膝をついた。
襟元を緩め、自ら首筋を曝け出す。
誘われるように彼女が顔を寄せ、直後、鋭い牙が突き立てられた。
「っく、あ……」
鋭い痛みはすぐに熱い痺れに変わった。
彼女は獣のように貪っていた。俺の首に食らいつき、喉を鳴らして血を啜る。
俺の命が、彼女の中へ流れ込んでいく。それはかつて彼女が弟に施したのと同じに。今は俺が、彼女にそうしている。
純血には劣るが同じヴァンパイアの血だ。濃密な魔力を含んだ血なら、今の彼女の渇きを癒せるだろう。
次第に彼女の呼吸が荒くなる。
血を啜る唇が、熱を帯びて俺の肌を這う。
傷を癒やす為の行為が、魔力の高まりと共に本能的な情欲へと変質していくのを肌で感じた。
彼女の手が俺の背中に爪を立てる。
「……ミーシャ……」
吐息混じりに零れた名前に心臓が冷える。
ああ、やっぱりそうだ。
血の陶酔の中で、彼女は俺を見ていない。
目の前にいるのがレオナールだと分かっていて、それでも本能が求める「愛しい弟」の幻影を重ねている。
拒むべきだった。俺じゃ駄目、なんだと。
けれど、血を失って朦朧とする頭で、俺は彼女の背中に手を回していた。
彼女の瞳に映る俺は、まるで他人の顔だった。
弟の、幻影。それを壊せば、彼女はきっと二度と立てない――
だから俺は壊さない。
憐れみだ。
最低の、自己満足だ。
血を吸われ、名前すら呼ばれず、ただの代用品として消費される。
それでも。
彼女が必要とするのなら、俺は拒めなかった。
――どれほど時間が経ったか分からない。
窓の外はまだ夜だった。
ニカエラは眠っている。静かな寝息だけが部屋に響いている。
俺はふらつく足で窓辺に立った。
気怠さだけが身体に残っている。何も満たされはしなかった。
彼女の肌に触れた。髪に触れた。唇に触れた。
けれど彼女は、俺を見ていなかった。終始、その瞳は別の誰かを追っていた。
呼ばれた名前も、俺のものではなかった。
ミーシャ――何度もそう呼んでいた。
俺はそれを、訂正しなかった。




