悪夢との邂逅
静かだった。夕食を囲み、ただ黙々と食べて。
彼は何も言わない。私も何も語ることはない。時折、彼の視線を感じるが――それについて何か、私は言うこともない。
視線について触れれば、余計な意味を生むだけだ。言葉を与える意味もない。
全て詰め込み終わり、私は席を立った。
「ご馳走様」
それだけ言い、外套を手に取る。
「……どこへ?」
驚いたような顔で彼は問うた。何もそんな驚くようなことでもないのに。
「少し、薬草を摘みに。留守を頼むわ」
嘘は、いつもの調子で滑らかに落ちた。
「それなら僕が行きます。その……こんな時間に、危ないですから」
――不服だった。家族が連れ戻しに来ると怯える彼に、こんなことを言われるのが。私が視線を向ければ、一瞬身体を震わせた。
「あなたに行かせる方がうんと危ないわ」
それは皮肉。別に、心配して言ってるわけじゃない。
それに私の目的は別にある。薬草なんかは、庭にあるもので充分だった。
外套を羽織り、扉に手をかける。背後からミハイルの視線を感じるが――振り返らない。
「すぐに戻るわ」
そう言い残し、扉を閉めた。
夜の冷気が頬を撫でる。月はない。雲が厚く空を覆い、星も見えない。
歩を進めながら、ゾラは淡い光を掌に灯した。
森へ深く踏み入れれば、湿った土と草の匂いが濃く感じられた。
魔力を織り、糸のように細く伸ばしていく。結界の外縁へ向かう道すがら、彼女はそれを枝の陰や石の裏に留めた。
小さな罠。何者かがそれに触れれば、彼女の中に音が届く。
夜の森の呼吸の中に、僅かずつ――見えぬ網が広がっていく。
棲家を守る結界は正常に機能していた。歪みも綻びもなく、そこにあるはずの棲家を巧妙に隠している。
日々点検しているのだから、それも当然のことだった。彼女の魔力は、棲家とその周辺を防衛する術式として、淀みなく注がれ続けていた。
風が妙に乾いている。
枝葉を揺らす音の他に、羽音のような微かなざわめきが混じっていた。
森に棲む夜の生き物たち――蝙蝠。
いつもより数が多い。けれど、それだけのことだと思った。
このあたりは湿地が近い。羽虫の多い夜なら、蝙蝠が群れるのも珍しくない。ゾラは特に気にも留めず、足を進める。
少し、慢心があったのかも知れない。自分の張った結界に絶対の信頼を置いていた。
誰であれ、気づかれずに踏み込めるはずがない。だからこそ森の気配の違いを、“異常”ではなく“静けさ”として受け取ってしまった。
彼女は淡々と罠を設置しながら、風の流れを確かめる。
何もおかしなことはない……そう自分に言い聞かせるように。
最後の罠を古い樫の木の根元に仕込む。魔力が地面に染み込み、術式として定着する。
――これで完成だ。
ゾラは息を吐き、立ち上がった。
蝙蝠の羽音がさっきより近い。
ゾラは空を見上げた。雲の切れ目から、僅かに星明かりが漏れている。その光に照らされて蝙蝠の影が、幾つも舞っている。
数が先程より増えたように感じられた。そして、その動きが妙に揃っている。
(……ああ、そういえば)
ゾラは小さく息を吐いた。
(ヴァンパイアは蝙蝠を使うんだったわね)
偵察か。それとも……単なる威嚇か。
どちらにせよ、もう気づかれているということだ。
ゾラは踵を返した。
罠は張った。結界も正常に機能している。
来るなら来ればいい。
彼女は静かに歩き出す。棲家とは逆の方向へ。森の奥へ、更に深く。
見られている、その確信があった。
蝙蝠の羽音が自分を追っている。
ゾラは淡々と足を進める。枝を避け、根を踏み越え、闇の中へ。
急ぐ必要はない。
森の奥へ数十歩進んだ、その時――
「見つけた」
声が背後から響いた。
夜空は暗く、冷たかった。
月が雲に隠れ、星も見えない。でもニカエラには――そんなものは必要なかった。
彼女は目を閉じる。
闇が視界を覆う。しかし、それがいい。
世界は音で出来ている。蝙蝠たちの声が、彼女の意識に流れ込む。
反響が描く森の形。枝の一本、葉の震え、獣の小さな呼吸。
すべてが音の線で結ばれた地図の上に浮かび上がる。
木々の密度が分かる。
枝の配置が分かる。
そして――動く人影が、分かる。
小さな魔女。
音が彼女の輪郭を撫でる。
足音は聞こえない。だが、確かにそこにいる。
音の流れに一瞬の乱れ。風の向きが僅かに変わる。
(逃げても無駄よ)
蝙蝠たちが彼女の意志に応える。
羽音が揃い、森を裂くように舞い降りる。追跡する。逃がさない。
魔女は気づいているだろうか。
この夜の闇が、どれほどの眼を持っているかを。
その背中を完全に捉えた瞬間、ニカエラは静かに笑った。
唇の端が冷えた空気に触れ、白く曇る。
「見つけた」
その魔女は、あの男が言った通りに若く、金髪で小柄な女だった。
私の声に反応し、振り返る。
だが、その表情を見て私は眉を顰めた。
驚愕も、警戒もない。ただそこに石ころが転がっているのと同じように、なんの感情も持たず佇んでいるだけ。
「おまえがミーシャを……」
私は憎しみの全てをぶつけるように言葉を絞り出した。
自分が思ったよりも低く、美しくもない声色。だが、そんな体裁を気にする余裕はなかった。
「聞いているの」
無視を決め込むような態度に、たまらず問う。
「ミーシャ? なんのこと」
ようやく魔女は口を開いた。その声もまた、ひどく平坦で、欠伸が出るほど退屈そうだった。
「恍けないでちょうだい。おまえがミハイルを連れ去ったのでしょう?」
あぁ、とようやく納得したかのような反応。
私が腑が煮えくり返るほどの怒りを燃やしているというのに、この温度差はどうだ。その落差にすら、苛立ちを覚える。
「どこにいるの? 返しなさい。おまえのような女はあの子に相応しくない」
「……契約してしまったから。そう簡単には返せないのよ」
魔女は淡々と、事務的に告げた。
「それに、あの子。家に帰りたくないそうよ」
瞬間、思考が白く弾けた。
「そんなわけない! 適当なことを言わないでッ!」
叫びと共に、身体が弾かれたように動いていた。
喉元を狙う。あの粗末な命を刈り取った時と同じように、爪を立て、皮膚を引き裂く――そのイメージは完璧だった。
あと数センチ。
その距離が、永遠のように遠のいた。
ガクン、と。
見えない杭で縫い止められたかのように、身体が空中で硬直した。
――え?
思考が追いつかない。ただ、目の前の魔女が、指の一本すらも動かしていないことだけが見えた。
直後、頭上で微かな音がした。いや、音が途切れたと言うべきか。
顔を上げ、見上げることも出来ない。けれど――それが何かは、すぐに理解することになった。
援護の為に放った蝙蝠たちが一斉に地に堕ちる。
断末魔も、羽ばたきさえもなく。ただ無為に、炭となって崩れ落ちていく。
ぞわり、と。
背筋を冷たい虫が這い上がるような感覚。
視線を戻せば、魔女の足元から夜の闇よりもなお深く、重たい“黒”が溢れ出していた。
それは泥のように粘つき、私の足元を浸食していく。
――魔術ではない。
理解が追いつくより先に、身体が悟っていた。
世界の底が抜け、その暗さが溢れ出したような“質量”だった。
「な、に……これ……」
本能が警鐘を鳴らす。いや、絶叫していた。
この女に関わるな。逃げろ。これは“魔女”などという枠に収まる存在ではない。
だが、身体は動かない。視線で縫い止められたように。
魔女が首を傾ける。それだけで、忌まわしい映像が一瞬重なった。
似てなどいない。それなのに――胸の奥が、あの夜と同じに軋んだ。
目の前の小娘から、『悪魔』と同じ匂いがした。
言葉より先に、喉が震えた。呼吸が浅くなる。
理屈ではない。大気に満ちる“死”そのものの気配が、今ここで再現されていた。
(なぜ?)
どうして、おまえからあいつの気配がするの。
両親をゴミのように処理した、あの理不尽な暴力の気配が。
喉から、情けない音が漏れた。
「……あ、あぁ……」
戦意喪失などという生易しいものではない。許容量を越えた恐怖が、私の膝を強制的に折らせた。
糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちる。
指先ひとつ動かせない。圧倒的な捕食者の前で、私はただ震える餌でしかなかった。
「弱いのね」
頭上から降ってきたのは、侮蔑ですらない、ただの事実確認。
それが余計に、私の心をへし折った。
殺される。あの夜の両親と同じように。
惨たらしく、無価値なものとして、跡形もなく消される――
絶望で視界が暗くなる中、森の奥から誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。




